Ⅰ_2
問いかけるメリッサの前で少し宙に視線を遊ばせたノーヴィスは、言葉を選びながら口を開いた。
「立候補者?」
「ほら、僕最後に言ったじゃない? 『僕が気に入る提案のひとつでもしてこれば、助けてやらないこともないよ』って」
その言葉に、メリッサはあの夜のことを思い出して、神妙に頷いた。
ついでに間違いも思い出したので、訂正も添えておく。
「その後に『使者とかもういいから、とにかく僕に関わらないで』という発言をされていたので、正確に言うならば最後から二番目ですね」
「ん? んー、確かにそうかも」
教えられたノーヴィスの
──あれを見てよく分かりました。ノーヴィス様は、レンシア通りの一件の時でさえ、己の魔力をセーブしていたのだと。
ついでにノーヴィスは、指の一振りで王宮を破壊していたようにも見えた。
直前にノーヴィスがメリッサのフードを引き下げてしまったせいでメリッサにはよく見えていなかったのだが、魔力のうねりと音と炸裂した光でノーヴィスが光弾を放ったことは分かっている。
規模にもよるが、光弾は何かにぶつけて停止・吸収させないといつまでも突き進んでしまう性質を持っているから、恐らくは王宮の建物に向かって放ったのであろうということも予測できている。
──ノーヴィス様が本気で光弾を放てば、今頃この辺りの土地一帯は焦土と化しているでしょうから、恐らく威嚇程度のものだったとは思うのですが。
「ま、とにかく、あんまりにも馬鹿しかいないから、真面目に王を選ぶのが馬鹿らしくなってきてさ。いっそのこと国政なんか抜きにして、僕が一番満足する取引を持ちかけてきた人間の味方をしようと思ったんだ」
だからその『提案』を持ってくる『誰か』……『
「あと、王宮に追撃は不要だよ。もうすでに機能が停止してるだろうから」
「ノーヴィス様が放った光弾で、王宮の建物が破壊されているからですか?」
「あれ。気付いてたんだ。僕があいつらに向かって光弾を放ってて、それが王宮に当たってるって」
「直接見てはいないので被害の規模は分かりませんが、魔力のうねりと状況から考えて、そうなのではないかと」
「すごいなぁ! やっぱりルノは優秀だね」
「恐れ入ります」
メリッサの言葉に、ノーヴィスは嬉しそうに笑った。
話している内容はどこまでも物騒であるはずなのに、ノーヴィスの語調はメリッサの家事を褒めてくれる時とまったく変わらない。
それがいいことなのか悪いことなのかはメリッサには分からないが、ノーヴィスの言葉は相変わらずメリッサの心をほわりと温めてくれた。
「まぁ、それもあるんだけれども。『穢れの塔』からあふれ出す負の力が王宮内を暴れ回ってるだろうから、その対処で手一杯のはずなんだよね。王宮が堕ちないように持ちこたえるのに必死で、こっちに手を回そうなんてことを考えてる余裕はないはずなんだ」
「それも気になっていたのですが。あの勢いで影が増殖し続けたら、いずれは王都ごと堕ちるのでは?」
「それは大丈夫。万が一『穢れの塔』が壊れた時は、王宮の外周を結界にして王宮の敷地内で力を受け止められるように設計されているから。だから堕ちるとしたら王宮の敷地だけだよ」
あの王宮、僕と初代の『黒』で創ったからね、とノーヴィスは笑う。メリッサは『ならば大丈夫か』と頷くのみだ。
だからメリッサは別の疑問に小首を傾げた。
「ノーヴィス様が満足するご提案、とは、一体どのようなものなのでしょうか?」
古い古いおとぎ話の登場人物である『
そんな人物ともなれば、権力にも名声にももはや興味はないだろう。金銭にも関心はないようだったし、衣食住にも特にこだわりは見えない。
こういう人物との取引ほど難しいものはない。何せ『何を提案すれば興味を持ってくれるのか』という
「なぁに? ルノ。僕と取引して王になる?」
真剣に考えるメリッサに、ノーヴィスは身を乗り出しながら首を傾げた。分厚いレンズの向こうにある瞳がトロリと甘くとろけている。
「ルノが望むなら、ルノを王にしてあげるよ? 国を創ることも、潰すことも、ルノが望むままに僕が叶えてあげる」
「いえ。王権などに興味はありません」
だが真剣に考え込んでいるメリッサは、そんなノーヴィスの変化には気付いていない。ノーヴィスの言葉にも『確かにノーヴィス様が本気を出したら、世界を終わらせることなど簡単にできそうですね』と思うだけだ。
「ただ単純に、ノーヴィス様が何に喜んでくださるのか、知りたいなと思っただけで」
だからこそ、そんな言葉が無防備に口からこぼれ落ちる。
メリッサの言葉にノーヴィスは言葉を失ったまま目を
「取引などなくても、ノーヴィス様には、幸せてでいていただきたいので……」
「……ルノがそのままでいてくれれば、僕はもうそれでいいよ」
ノーヴィスはゆったりと瞼を閉じると、噛みしめるように静かに答えた。そこでようやくメリッサは伏せていた視線をノーヴィスに向ける。
「ルノが僕の
レモンスカッシュのグラスを両手で支え、静かに笑うノーヴィスは、いつにも増して穏やかだった。満ち足りていることが、その空気で分かる。
しばらくそんなノーヴィスに目を
「控えめすぎませんか?」
「そう?」
「私は真剣に、ノーヴィス様にもっと幸せになっていただきたいのです」
「んー、じゃあ、今度また一緒にエレのところに行ってくれる? 秋物服の注文をしようよ」
「ノーヴィス様、また私の衣装を増やしてどうしようと……」
はぐらかされた気がしたメリッサは、思わず身を乗り出してノーヴィスに詰め寄る。
だがその瞬間、チリンチリンッと微かに聞き慣れない音が聞こえた。
「おや? 珍しい」
一体何の音だろうとメリッサが身を固くする中、ノーヴィスは顔に驚きを広げながらパチリと目を開いた。
「これ、呼び鈴の音だよ」
「えっ!?」
つまりこの屋敷に来客があったということだ。玄関前の落とし穴を避け、呼び鈴の仕込み針をかわし、礼儀正しく来訪を告げた客が今、屋敷の玄関の前にいる。
メリッサは慌てて居間を出ると玄関に走った。その間にまたチリンチリンッと控えめに二回目の呼び鈴が鳴らされる。
「お待たせしております。申し訳ありませんが、もう少々お待ちくださいませ」
もちろん、警戒心は忘れていない。メリッサはコルセットベルトから白銀の短剣を抜くと右手の袖元に忍ばせた。それから覗き窓に目を近付け、外を確かめる。
その瞬間、外から柔らかな女性の声が聞こえてきた。
「遣いを立てない急な来訪で申し訳ありません。サンジェルマン伯爵にお目にかかりとうございます」
「っ!?」
聞き覚えのある声だった。しかも好意的な記憶の中にある声だ。
メリッサは慌てて玄関ドアを開く。その先に立っていたのは、気品を湛えて優雅に立つ老女だった
「バーネット学院長っ!?」
「お久しぶりですね、ミス・カサブランカ」
王立魔法学院学院長、シェリー・ジェーン・バーネットは、優雅に微笑むと柔らかな声のまま告げた。
「取引に参りましたよ。ノーヴィス・サンジェルマン伯爵様は、わたくしに会ってくださるかしら?」
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