11:赤竜
まるで、
燃え広がる炎が闇を貫き、辺り一帯が
小屋一つ踏み潰してしまえるほどの
今は折り畳まれた翼や、轟音を立てて引きずる尾、鱗に覆われた胴体、
暗闇に浮かぶ赤き眼光が見
一歩、また一歩と歩みを進める度に空気が揺れ動き、通り過ぎる地面には深い足跡が刻み付けられていた。
こんなデカブツの前にのうのうと姿を
そして――
「――――」
王都までの経路を切り開いて整備された道の先、常識の
時おり立ち止まり、無詠唱による炎の魔術によって周囲の森林を燃やすことに時間を食っているおかげで、オレたち二人は
目の錯覚を疑いそうなほどの大きさと、その威圧感に、見ればフェリスの身体は完全に
「あんなの、と……戦えるんですか……?」
今もなお、こちらに迫り来る赤竜の巨体から視線を外せない様子でフェリスが言った。
「戦えるかどうかはこれから分かる。……そろそろこっちまでやってくるぞ。どうやら、あいつはオレたち小数の命に構うよりも、もっと大きな被害をもたらせる共同体の方に興味があるらしい」
前進する先にオレたちがいることに気付いていないのか、はたまた、全く眼中にないのか――赤竜は先ほど村を襲ってきた時と違って、魔術による炎の
ただ王都に向かって進みながら、周辺を燃やす……魔獣の行動原理については今までも
そして、何よりも厄介なのが――
「フェリス、まずは冷静になって今から言うことを聞いてくれ」
「は、はい……!」
「あいつには魔術も、
「…………、………………え、えっ!?」
こいつは一体、何を言ってるんだ――そう物語った表情でオレを
「見てろ――〈
詠唱に
一瞬の
〈
「あっ……」
フェリスが息を
「おそらく、どんな魔術をぶつけようとこうなる。あの赤い鱗――名の通りの〈
単純な脅威である巨体に加えて、魔術による火炎の息吹と〈竜鱗〉の攻守一体を兼ね備えた魔獣。
現時点ではまだ、こちらを
腹立たしいことに、当事の人間がどうやって赤竜を討ち倒したのかという重要なことについては詳しく書かれていなかったので、オレはその書物を読み終えてすぐに売り払ったのだが。
「そんな、じゃあ、どうやって倒すんですか?」
赤竜と距離を取るために
オレはそんなフェリスに見せるように、
「こいつを使う。センピオール
「……? それって――」
進み続けていた赤竜の動きに、異変が起きていた。
「まずい――翼を広げるつもりだぞ」
赤竜の背中から伸びて今は折り畳まれていた大きな翼の骨格が、ゆっくりと外側に持ち上がろうとしていた。
長い首を左右に揺らしながら、自身の肉体の変化を慣らしていくように小刻みに震え出す。
「もう
保障などなかったにしても、想像より早い翼の解放に思わず
この展開は非常に危険だ。書物なんかの知識を持たずとも理解できる、空を
今の状態ですら難攻不落に程近いというのに、機動力さえも思うがままとなったそれを攻略できる自信はさすがのオレにもない。王都の
「フェリス、あいつの首の近くにある、逆さに生えた〈竜鱗〉を狙え」
「え、さ、逆さの〈竜鱗〉ですかっ、そんなものどこに…………あ!」
フェリスの
「あれが弱点らしい、こっちに注意を向ける――いや、殺意を向けたいから、あの鱗を狙ってくれ」
「っ、分かり、ました……!」
諸々の疑問を飲み込むようにぎこちない返事をしつつ、されど、フェリスは覚悟を決めた目で、素早く弓を構えた。
瞬間、黒の手袋に包まれた右手の甲が光り、
今や数秒前の
しかし、
「……! 当たりません、首が、さっきから左右に揺れていて……!」
放たれた矢は風を切り、見上げた竜の首辺りに向かってまっすぐに飛んでいった。……だが、当たったのはほんのわずかに
フェリスの言う通り、赤竜は翼の調子に身を
ただでさえ極小の的と言っても過言ではない狙いが、左右の動きが加わることによって、さらに
すかさず、支援に入るために声を上げる。
「フェリス、オレが遅延魔術で動きを……一秒、いや二秒稼ぐ、その隙に当てろ!」
「でも魔術は効かないはずじゃ――」
「さっきの反応を見て確信した、こいつはほんの一瞬だけ遅延状態を通す!」
赤竜の〈竜鱗〉が魔術そのものを
それは“攻撃性”をもった魔術を区別して弾くという点だ。
どのような働きをもって区別がされているかは試さねば分からないが、それでも、〈竜鱗〉が魔術を弾く一瞬にそんな処理と経過が挟まっているならば――
(一部の〈竜鱗〉の
たとえそれが違うにせよ、なんにせよ、実際にやってみればいいだけの話だ。考える
オレは赤竜の前進に合わせて動きつつ、頃合いを見て射撃を続けるフェリスに指示を出す。
「いいか、あいつの逆さの〈竜鱗〉に矢を当てたら、オレは機を見て魔封具を投げる……次に合図が聞こえたら、その時は全力で魔封具を射抜け!」
「はいっ……!」
フェリスが短く応える。
オレは
今日だけで何度唱えたであろう詠唱を皮切りに、オレは竜を睨み
たった一瞬の隙を作るためだけに、持てる遅延魔術の全てを以って。
「――――〈
青白の光が空間を瞬き、時間の概念を
それは幻想の泡となり赤竜の四肢を捕らえて、それは幻想の沼となって巨大な足を沈めんと絡め取る。
四方八方の遅延魔術が対象の
(……いける)
微少のズレであっても変化は変化だ。明確に時間を操作し、対象の動きを緩慢にさせている
ならば――
「――――〈
押し通すように、全ての遅延魔術を現実に重ね合わせて――
青白い残光が空間を
「はっ!」
フェリスの
引き絞られた弓が、甲を閃かせる黒手の指が、遥か頭上の狙いに向かってまっすぐと――その一矢を
空気の弾かれる音と同時、フェリスの照準は
今度こそ、確実な狙撃である。
「……!!」
魔術が解除された
その場に残されたのは……一本の矢に撃たれた竜と、人間が二人。
それが意味するところは、つまり。
「来るぞっ」
どんっ、と踏み込んだ赤竜の足が動きを止めた。
数秒前まで振り動かれていた長首の揺れが、王都だけを向いていた赤き
次の瞬間、
ぐおおおおおおおおおおおお……――!!
狂ったような
人間一人など軽々と飲み込んでしまえる大きな口をかっ開き、剣すら
取り巻く感情は、もはや怒りと呼べるほど
逆さの鱗を狙われて
「ッ、そら――〈
命令を受け取った魔封具はすぐさま、虚空の渦をオレたちと赤竜の
それは
勢いのままに首の半ばまで突っ込む赤竜と、虚空の渦を広げる魔封具を見据えて、叫ぶ。
「今だ、フェリス――撃ち抜け!!」
オレの合図とともに、二撃目に構えていたフェリスの弓矢が一直線に飛んだ。
軌道の先には、虚空の中央、魔封具の結晶体が位置する要所。
そこに向かって狙い
直後、
「――!!」
キィンッ!! という金属の甲高い悲鳴が響き渡った。
今更、それが何の音なのかは考えを巡らせるまでもない。
即ち――魔封具が破壊された音だ。
「ぐっ……!!」
鼓膜をつんざくような音とともに、今度は、視界を覆いつくす強烈な閃光が走った。
夜の
魔封具が破壊されたことで引き起こされた諸々の現象が数秒ほど続き……ようやく視界が元に戻った、その時。
――頭上から、大量の血の雨が降り注いだ。
「ふひゃあっ!!」
もろにその赤い
見上げると、そこにあったのは……肉と骨を鮮血に濡らしながら、一切の動きを止めた、赤竜の長首の断面だった。
繋がっていたはずの頭部は、なかった。
魔封具の破壊に伴い、虚空の渦が消えたことで、頭と首をあちらとこちらで切断……もとい分割したということだろう。
血溜まりを作る地面の上に、フェリスがへたり込む。
「やっ……た……?」
搾り出された果汁のように止め
「……はあ、終わったか」
オレは今日一番の、深いため息を吐いた。
「本当に……倒した……」
「…………」
終わってみれば、案外、簡単な敵だったな――などと冗談を言う気力はあまりなかった。手は動かさないが口は他者を冷やかすために動かすを理念に生きるオレにしては、面倒の方が勝る珍しい相手だった。
周囲を見渡せば、夕暮れを過ぎた
(消火活動はさぞ骨が折れることだろうな)
そんなことを眺めながら考えていると、フェリスが下からゆっくりとこちらを振り向く。
「あの……ベルトランさんは、どうしてこの竜の弱点を知っていたんですか?」
「当時、
オレとしても、今日だけで二度も魔術の通用しない相手に
「……ベルトランさんって、いくつなんですか?」
「はは、この完璧な容姿が答えだ」
オレは汚れた黒
「う、うーん……?」
フェリスは
血溜まりの上で手を付きながら立ち上がり、もはや気にする状態でもないのか、鮮血に
「あぁ……ベルトランさん、まずいです……」
うわ言のように呟くフェリス。
頭の
「安心しろ、言わんとしていることは察してる」
「ほ、……本当ですか?」
「ああ、察してる。察することしかできないが」
フェリスの絶望の正体は、おそらく――魔封具のことだろう。
本来、このフェリスが魔獣討伐に同行した理由は『魔封具が壊されないか監視する』という、至極単純な任務のためのはずだった。
だが、その肝心の魔封具は……ついさっき、目の前の魔獣を倒すための犠牲となった。
「…………」
メリザンシヤの氷のように冷たい視線を思い出す。
あの女が他者に向かって怒鳴っている様を見たことはない。敵対者と相対、ひいてはそれに準ずる相手と向かい合う時、あの女はただひたすらに冷酷な視線を向け続けるのだ。
それは自分の部下や
「まあ、ひたすら謝れば、命くらいは許されるんじゃないか?」
「ええ!! 私の責任なんですか!?」
「任務を失敗したのはお前だろ?」
「魔封具を壊したのはベルトランさんじゃ……いや、あれ、私なのかな?」
さらに混乱した様子で目を回すフェリス。
「悔やんでも仕方ない。今は面倒事を解決できたことを素直に喜び、さっさと帰ることにしよう」
「……うぅ、はい。そういえば、歩いて帰らないといけないんでしたね」
「魔封具がないからな。深夜になる前に、とりあえずは川を目指すとするか。お前の身体に
そう言って、オレは王都の方角に向き直る。
脳内である程度のみ把握している地図を思い起こし、川の流れていそうな地点を予想して――
「……………………?」
微かな揺れが、足の裏を伝った。
炎の光が差して形作られた木々の影の中を、不意に、大きな影がぬるりと持ち上がって――
「……!! フェリス!!」
「え?」
背後にある巨大な影がオレたちの頭上を覆う寸前、落下の直撃を避けるために、オレはフェリスを押し飛ばす形で飛び付いた。
そして、ついさっきまで立っていたその場所を――赤竜の巨大な足が踏み落とされた。
「ぐっ……!」
直後、凄まじい衝撃が背後を吹き荒れて、オレとフェリスは
抱えていたフェリスとともに、二転、三転と地面を跳ねながら、木の
明滅する視界の中、オレは休む暇さえないことを察して顔を上げた。
(どういうことだ……なんでまだ、動いて――)
舞い上がった
頭のない竜の、異常にして異形の
(あり得ない、そんなふざけた特性はなかったはずだ)
いくら魔獣といえど、生命維持に必要な脳を失った状態でなおも活動し続けることはできない。その点は他の生物と同様のはず。
ならば、なぜ……この赤竜はまだ動いているんだ?
「ッ、おいおい勘弁しろ……!」
赤竜の
それは魔術師ならば誰でも知っている、詠唱に伴って視覚化される魔術発動の合図だ。
しかし、それは今、目の前で唱えられようとしていた。
(炎の魔術か!)
刹那、暴れ狂う空気の熱が一箇所に集まり、赤竜の前方の空間がゆらりと歪みを見せた。
「フェリス――ダメか」
呼び掛けるも、少女は倒れたまま気を失っている様子だった。吹き飛ばされた際に頭を打ち付けたのだろうか。
眼前を炎の
おそらく、フェリスを抱えて逃げるのは間に合わない。フェリスだけを遅延状態にするというのも状況を
オレはほんの一瞬、どうするかと思い悩み――
「…………はあ、
懐から、小型の懐中時計を取り出す。
もはや遅延魔術だけではどうにもならないことを悟り、オレは
これを解除しない限り、オレは遅延魔術以外のあらゆる魔術を発動することができない、という単純な制約。
今日以前に、この制約を解除したのはいつだっただろうか。
己に“
想定外の事態とはいえ、赤竜を相手にする以上はこうせざるを得ないのも無理ない話だったか。
(やるか――)
目の前の空間が、煌々とした炎の揺らめきに満ちる。炎の息吹が放たれるまで、あと数秒もなさそうだ。
寿命を惜しんで死んでは元も子もない、オレは素早く、動かぬ懐中時計の針を頂点に合わせながら詠唱を開始した。
「〈
続けて、結界の魔術を唱えようと口を開いたところで、ふと、視界の端に奇妙なものを見た。
雪の結晶のような、白い花弁のような……キラキラと輝く、何か。
それは視界の端に留まらず、空中を――赤竜の周囲をいくつも降り注いでいた。
一秒にも満たない時間の中で、その奇妙な何かが空から降り注いでいるのを確認したオレは思わず、
「……はは」
と、苦笑いを零した。
次の瞬間、
「――――〈花開く
その光景を認識するまでの時間はほんの一瞬だった。
赤竜の頭上を舞う輝きがくるくると円を描きながら落下し――次には、外に向かって弾けるように、ぎゅるん、と花開いたのだ。
小さな点でしかなかったはずのそれは、詠唱が終わるとともに、まるで巨大な剣状の花弁に変形して……赤竜の
首、胴、脚、翼、尾、その全ての至るところに、いくつもの回転する花弁の刃が殺到し、身体の半ばまでを何の抵抗もなく切り刻んで見せる。
あまりにも鋭い刃が作り出す数十の切断線は、まさしく、赤竜を薄切り状態へと――
もはや、生きていようが死んでいようが関係はない。
(この魔術は……大魔術師さま、か)
中途半端な武器による攻撃は通用しない。それどころか、魔術による攻撃は通じないはずの〈竜鱗〉を持つ赤竜をこうも簡単に無力化できるほどの、実力ある魔術師。
そんな化け物は、この大陸でたった一人しか思い付かなかった。
「――ベルトラン、怪我はありませんか?」
そう問うて、夜の気配に染まった上空からふわりと舞い降りたのは。
我が師であり、鋼花の国の宮廷魔術師である――リディヴィーヌその人だった。
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