第11話 ケントの懸念
平日の夜、夕食を終えて先に風呂を済ませたエリは、暖かいルイボスティを飲みながらソファに腰掛けてドラマを見ていた。
何も考えずにボーっとしている時間が何より幸せだ。
ついさっき風呂場に向かったはずのケントが、短い髪の先端から水滴をポタポタ落としながら、エリが座るソファを横切ってパソコンの前に座った。
彼の風呂の時間はあっという間に終わったらしい。
カラスの行水とは、まさにケントのことを言うのだろう。
「今からゲームするの? ケントの好きな番組もうすぐ始まるけど」
「うん」
「録画しようか?」
「うん」
「しない?」
「うん」
ケントが空返事をするときは、頭の中が考え事で詰まっているときと学習している。
こんなときは追求せずにケントから口を開くのを待つのが得策だ。
マウスをいくつか操作して数分経った頃、思考の渦に飛び込んでいた夫が現実に戻ってきた。
「やっぱり、RDからもう一度メッセージがきてる」
「また? 同じ文章?」
「いや、今度のは前よりもずっと長い。例によってスペイン語だから翻訳してみる」
前回はひと固まりの文章だったが、今回は一文ずつ段落を設けられている。
おかげで翻訳機も混乱することなく、誤字乱字のない素晴らしい仕事をしてくれた。
―――私は、貴殿がこのメッセージを呼んでくれることを切に願っています。
前回は、曖昧な内容のみで不躾な申し出をしたことを許してほしい。
決して詐欺などの類ではないことを分かっていただきたい。
私は、このアカウントRD200Xの持ち主、リカルドの父親でアランといいます。
リカルドとは、ゲームを通してよく一緒に遊んでくれていたようで感謝している。
貴殿に会いたいと望んでいるのは、息子のリカルドです。
実は、リカルドは現在、病の床に臥しています。
そのリカルドが、是非とも貴殿にお会いしたいと望んでいるので、こうして連絡を差し上げた次第です。
リカルドの病状を考慮すると貴殿に私たちの国まで来ていただきたいが、会ってくれるのであれば、私たちが貴殿の指定するところまで伺うことも構わないと思っています。
よろしければ、貴殿の妹君も一緒にお会いしたい。
もちろん、渡航や滞在にかかる費用は、私がすべて負担致します。
前回も申し上げた通り、私たちには時間があまり残されていません。
どうか、どうか、このメッセージが貴殿に届きますように。
アランとリカルドより
文章を読んでいる間、ケントもエリも一言も発しなかった。
いや、発せなかったと表現したほうが正しい。
エリは息をするのも忘れていたようで、読み終わったあとに大きく息を吐き出した。
「RDくんって、リカルドくんだったのね。ああ、そうか、リカルドでRDね」
エリは、”リ”と”ド”を強調して言った。
「詐欺じゃないって言ってるな。私は詐欺師ですって自己紹介する詐欺師はいないだろうけど、私は詐欺師じゃありませんって言う詐欺師がいないとも限らないし、詐欺だと疑われないように詐欺師じゃありませんっていう場合もあるか」
「ケントの言ってること、よくわからないわ」
「おれも言っててよくわからない」
「あ、ほら見て、妹って書いてある。これって私のことよね。私がゲームしているときにRDくんからお誘いがきて、思わず妹だって偽って断ったときのことよ。あなたに妹がいるって知ってるってことは、このメッセージは本当に本人からってことかしら」
「そうとも言える」
思いつくまま意見を出し尽くした後、また2人の間に沈黙が落ちた。
「病気って」
口を開いたケントの横顔に、エリは焦点を合わせた。
「事故かな、持病かな」
ケントも首を動かして、エリの顔を正面から見据えた。
「時間がないっていうことは、相当深刻な病状よね」
「だよな」
2人は再び画面に視線を戻し、示し合わせたようにアランからのメッセージを文頭から読み直し始めた。
数分後、ケントが決心したように強い口調で口を開いた。
「返信してもいいかな」
「え?」
「最初のメッセージ見たときからこのことがずっと頭の片隅にあって、さっき風呂に入っているときに何か感じてこれを開いたんだ。スパムに返信しないのが基本とか自分で言っておきながら悪いんだけど」
ケントの話を聞き終える前から、エリの答えは決まっていた。
「もちろん、いいよ。ケントが後悔しないようにして」
そもそもエリは、夫とRDの関係性が好きだった。
無闇に反対する理由はない。
それに、インターネットの危険性を熟知している夫なら危ない橋は渡らないだろうという安心感もある。
「ありがとう」
「それで、なんて返信するの? RDくん、じゃなくてリカルドくんに会いに行くの?」
「いや、会いに行くのはよそう。さすがにリスクが大きすぎる」
「リカルドくんはどこに住んでいるのかしらね」
「スペイン語だから、おそらく南米だろうな。ヨーロッパはサーバーが違うだろうし。移民が多いから一概には言えないけど、北米に住んでいるなら第一言語がなんであれ、とりあえず英語でやり取りするだろう」
「そっか、南米ね。恥ずかしいけど私は詳しくないわ。どんなところかしら」
エリは、自分のスマホを使って検索機能の画面を開いた。
ケントがそれを横目で見ると、エリは”南米”と打ち込んで検索している。
ケントは、妻の奇跡的ともいえる方向音痴の原因を垣間見た。
友人に盲目だと揶揄されようと、そこがまた愛しいのだが。
「これも一概には言えないけど、北米よりも危険な都市が多いはずだよ」
「そうね、いろんな点でリスクが大きいわ。じゃあ、私たちの街に招待するの? 病状によっては、長時間の移動は大変じゃないかしら」
「エリ、早とちりするなよ。おれはまだ会うつもりはないよ。ただ、メッセージを無視し続けるのが心苦しいだけで、その先はまだ考えてない」
「あら、残念だわ。私はリカルドくんに会いたいのに」
「勘弁してくれよ、危険に自ら飛びこんでいくわけないだろ」
「ケントだって、RDくんを知り合いだと思ってるって言ったじゃない」
「それは、あくまでゲームの中でだよ。ゲームと現実はいっしょくたにするものじゃない」
ふーん、と空返事をしながら、エリは夫の頑固さにつける薬が欲しいと思った。
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