第680話 殿下と呼ばれて…

 結局この試合、沼沢選手は5打席に立ち、3打数1安打、1フォアボール、1犠打で、規定打席に到達した。打率は、.331。


 それに対して僕は、4タコで、打率は.321(436打数140安打)まで、下がってしまった。

 でも勝負はこれから。

 まだまだ沼沢選手は規定打席ギリギリ、怪我をすればチャンスはある。

(他力本願ですか?、作者より)


「よっ、殿下。なーに、落ち込んでいるんだ」

 ロッカールームで椅子に座って、タオルを頭に被りながら物思いにふけっていると、下山選手に肩を叩かれた。

 傍らには上杉捕手もいる。

 何か嫌な予感…。


「何ですか?、殿下って」

「そりゃ三日天下の略だ。

 知らないか?、三日天下って言葉。

 時は戦国時代、本能寺の変を起こした明智光秀が…」

「いや、それは知っていますけど、それと僕がどう関係するんですか?」

 長くなりそうな話を遮って聞いた。


「そりゃ、お前が打率1位から、3日くらいで転落したからだろう」

 三日天下のでんかと、殿下をかけたということか。そいつはおもしれーや。


「とまあ、落ち込んでいるであろう、可愛くない後輩を上杉と慰めてやろうと思ってな」

「でも明日も試合ありますし…」

「良いんだよ。多少、酒が入ったほうが、悩みを吹っ切れて思い切ったバッティングをできる、かもしれない」

「はあ」


「それとも俺たちと行きたくないのか?」と上杉捕手。

「そんな事はないですけど…」

「ほら、谷口と湯川も待っているから、早く行くぞ」

 谷口と湯川?

 珍しいな、「練習しないと死んじゃう病」の患者2人が飲みに行くなんて。

 きっとこのように強引に誘われたのだろう。

 まあ、たまには良いか。

 

「隆さん、打率1分の差なんて、まだまだいけますって。谷口さんなんか、1か月で2分くらい上げましたよ」

 タクシーの中で湯川選手が言った。

 酒を飲むため、ぽるしぇ号は球場内に置いてきた。


 そりゃ、打率1割台からは固め打ちすれば、それくらいすぐに上がるだろう。

 しかもそれは、打数が少ない5月の事だ。


「そうだ。そもそも静岡オーシャンズに入団した頃を、思い出してみろ。

 二軍の試合の数合わせと言われて、3年くらいでクビになると言われていただろう。

 そこから一軍のレギュラーを掴んだだけでも凄いのに、首位打者争いなんて、夢のまた夢だっただろう」

 助手席に座っていた谷口が言った。


 珍しく良いことを言ってくれた。

 確かにそうだ。

 あの頃の僕は、一軍昇格、そしてヒット1本打っただけでとても嬉しかった。

 プロで11年目を迎え、しかも首位打者争いをするなんて、作者の構想にも全く無かったらしい。


 しかももし首位打者がダメでも、最多安打は狙えるし、チームもクライマックスシリーズ進出の瀬戸際にいる。

 目先の事でちょっと落ち込んでいたのが、バカみたいだ。


 「谷口、湯川、ありがとう。

 吹っ切れたよ。よし、今日はトコトン飲もう」

「いや、俺は帰ったら筋トレするから、ノンアルで」

「僕も同じです」

 お前ら、何事もし過ぎると身体に悪いぞ。

 適度に力を抜かないと…。


 結局、谷口と湯川選手は一軒目の焼肉だけで帰り、僕と下山選手、上杉選手の3人だけで二次会と称して北の歓楽街に行った。

 帰宅したら、夜中の2時で当たり前だが部屋は真っ暗だった。


 ふとテーブルの上を見ると、画用紙が置いてある。

 クレヨンで絵が描かれており、何やら人型のものが、金色の棍棒を持ち上げている。

 これは鬼退治の絵か?


 いや、察するに札幌ホワイトベアーズのユニフォームを着た僕だ。

 きっと翔斗が幼稚園で描いたのだろう。

 

 上の方に何やら文字らしきものが、クレヨンで書かれており、パパがんばれ、と読めなくもない。

 僕は目頭に熱いものを感じた。


 よし風呂入って早く寝て、また明日頑張ろう。

 僕は一度大きく伸びをした。



 

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