第七話 伏龍[後編]
歴奈は伏見に言われるまま、荷物を預けて長テーブルの席に着いた。
伏見は部屋の隅に荷物を置いた後で歴奈の隣に座ると、テーブルの下からノートパソコンを取り出して操作を始めた。
「あの、大黒先輩は?」
「そのうちに来ると思う。それまで、文化祭用に作った三国志の動画を見ていて。スマホにも入っているけど、ノートパソコンの大きい画面で見た方がいい」
伏見が歴奈にも見やすいようにノートパソコンの角度を調整した。動画がフルスクリーンで再生開始前の状態になっている。
伏見が歴奈を見て深くうなずいた。後でいいなどと言うのが憚られる雰囲気だ。
歴奈は大人しく、動画を見ることにした。
伏見が「スタート」と言って再生を開始すると、黒い背景に字幕が表示された。
三国志の名場面の一つ、
趙雲という武将が、敵の軍勢の中に取り残された主君の夫人と赤子を助けようとするが、夫人は足手まといになることを恐れて井戸に身を投げてしまう。
趙雲は託された赤子を守ろうと獅子奮迅の戦いぶりを見せ、単騎で敵の百万の軍勢の中を突破して主君のもとに帰還するという内容だ。
字幕でいきさつの説明が終わると寺のような場所が映し出され、趙雲が登場した。
趙雲役は伏見だった。凛々しい若武者に見える。中国風の鎧を着て槍を小脇に抱えているが、原作と違って騎馬ではなく徒歩だった。馬の調達までは難しかったのだろう。
伏見が周囲を見回し、井戸の前に座り込んでいる夫人を発見して駆け寄った。
夫人役は大黒だ。ひらひらとした黒い漢服を着た大黒は綺麗だった。
字幕に、『わたしはもう駄目です、この子だけは頼みます』と表示された。
「しゃべる演技は難しいから、字幕にしてもらった」
隣の伏見がそう言った。
大黒は布で包まれた人形の赤子を伏見に渡し、井戸に身を投げてしまった。
「井戸は埋まってて地面までの高さしかない。そういう井戸がある、清海市内のお寺を撮影場所に使わせてもらった」
撮影時、大黒にそれほど危険は無かったらしい。井戸の水音も明らかに効果音だった。
動画の中の伏見が、嘆きながらも赤子を包んだ布を腹部に縛って立ち上がった。
伏見が少し開けた場所に移動すると、剣道の防具を付けて竹刀を持った者たちが無数に待ち構えていた。
「剣道部にエキストラを頼んだ。予算が足りなくて格好は部活のときのまま。映画部以外にも、色々な部に協力してもらっている」
歴史研究部の文化祭の出し物としては時代考証的にどうかとも思ったが、もともと三国志の物語の大部分はフィクションだ。細かいことは考えずに動画を鑑賞することにした。
伏見が、駆け寄ってくる三人を素早く槍で突き倒した。続けて槍を頭上で風車のように回転させ、片手で豪快に振り払って二人を跳ね飛ばした。
槍は撮影用の造り物なのだろうが、長く、それなりに重さがありそうに見えた。
伏見はその槍を軽々と扱っている。そして、槍の扱いは巧みで見栄えがした。
それからも、伏見の
二人が同時に竹刀を振り下ろしてきた。伏見がその攻撃を槍で受けとめて片膝立ちになった。両手で持った槍で二つの竹刀を遮っている。次の瞬間、伏見が槍を掲げながら立ち上がった。二人が伏見の背中側に前転するように倒れた。
敵が四方から一斉に迫ってきた。伏見は槍の穂先と逆側の
伏見が走り出した。槍は体の後ろで、片手で水平に構えられている。
十人ほどが横に並んだ隊列を作った。その後ろにさらに十人。二段構えだ。
二列が竹刀を突き出した状態で伏見に向かって突進してくる。
伏見は怯むことなく、隊列に向かって加速した。
画面が横からのアングルの、アップのスロー再生に変わった。
伏見は隊列にぶつかる直前で槍を地面に着いた。槍を支えにして伏見の体が浮き上がり、体が上下逆さになった。頭が下で両足が空に向かって伸びている。
しかも全身に錐揉きりもみ状の回転が掛かっていた。槍が頭の下でプロペラのように旋回している。伏見は逆さの状態で独楽のように回転しながら、二段構えの隊列の頭上を見事に飛び越えた。
「凄い」
歴奈は思わず声を上げていた。
「そこはワイヤー、CG、リテイクなし」
隣の伏見の説明を聞き、さらに凄いと思った。
画面がロングに戻り、伏見が隊列を飛び越すシーンがもう一度再生された。通常速度で見る体の回転のスピードはかなり速かった。それでも足から地面へと降り立つと回転がぴたりと止まり、伏見は飛び越した後ろの隊列に目をくれることなく駆け去った。
その後も、伏見の奮闘ぶりは続いた。
だが、なぜか槍と体に固定した赤子は消えており、素手での闘いに変わっていた。
柔道部員たちを投げ飛ばして突破する。
レスリング部員たちを組み伏せて駆け抜ける。
伏見が通う総合格闘技のジムまで登場し、ジムのごつい男たちを、素早いパンチ、頭よりずっと高く上がるキック、流れるような投げ技などで一掃した。
総合格闘技のジムのシーンのラストでは、字幕で『入門者募集中』などと表示されていた。製作費の大部分を出資してもらったため、CMが入っているとのことだった。
その後、伏見がバスケ部員たちを突破してダンクシュートを決めた。
もはや戦闘どころか格闘ですらない映像になっていた。
それでもラストシーンでは、伏見は槍を背追って赤子を腕に抱いていた。
マント姿で付け髭をつけた主君役の男子が赤子を受け取り、無事に帰還した伏見ねぎらった。
正面から伏見が映し出された。伏見が握った右手を左手で包む
動画を見終わった。
三国志と言っていいのか疑問が残るシュールな映像ではあるが、伏見の身体能力の高さは十分に伝わってきた。相手が倒れていったのはもちろん演技なのだろうが、伏見の動きの俊敏さ、力強さ、高度な槍術や身のこなしなどは圧巻だった。
伏見の活躍ぶりは、一騎当千と言っても過言はないだろう。
「面白かったです。趙雲役の伏見先輩には痺れちゃいました」
「百万人の敵中を突破した本物の趙雲には遠く及ばない。私のは演技。相手も百人足らず」
伏見は首を横に振って悲嘆するように言うと、そっと目を閉じた。
趙雲は実在した人物だが、百万人の敵中を突破するエピソードはフィクションだ。
現代でも百万人を超える軍を有する国はほとんどない。三国志の時代の二、三世紀に、その人数を動員して一つの戦場に投入するなど非現実的だ。
そもそも百万人の敵の中を一人で突破するなど、人間に不可能なのは明白だ。
伏見はそうだと分かったうえで、理想としてはフィクションの三国志の豪傑のように強くなりたい、といことなのだろう。男の子が特撮ヒーローに魅かれて、やがて作り物であることを理解してからも、憧れの気持ちは残り続けているような感じだろうか。
「
背後からの声に驚いて、歴奈は振り返った。
いつの間にか、大黒が後ろにいた。気が付かないうちに部室に入って来ていたらしい。
大黒が伏見の横に移動した。目を閉じた伏見の顔を、慈愛のこもったような微笑を浮かべて見つめている。そして、ゆっくりと伏見に手を伸ばした。
「夜宵? いつのまに」
大黒に軽く肩を叩かれ、伏見が目を開けた。
「今来たところ。ドラゴ、お茶の用意をお願いできる?」
伏見はうなずき、ノートパソコンを長テーブルの中棚にしまってから立ち上がった。
「歴奈のことをよろしく」
伏見は壁際の棚からポットのようなものを取って部室を出て行った。
それを見届けると、大黒が歴奈に向かって苦笑した。
「大丈夫だった?」
「あ、はい。何と言いますか――」
歴奈は、自分が伏見のように三国志の豪傑の強さを目指している同志だと勘違いされてしまったことを、手短に説明した。
「びっくりしたでしょう?」
「はい。私は、伏見先輩に同志と言われるほど、高い志を持って弓道をやっていたわけではないのでどうしたものかと。正直、少し怖くて」
「安心して。ドラゴはその勘違いにはすぐに気付くと思う。それに優しいから、絶対に怒ったりしないはずよ」
伏見が優しいことはなんとなく分かっていたが、大黒に言ってもらえて安心した。
「そういえば、さっき言っていた伏龍というのは?」
「苗字の
「伏龍って、元々は三国志の登場人物の仇名ですよね? 伏見先輩の名前と三国志好きであることが合わさって、そういう仇名がついている感じですか?」
「そうなのだけど、それだけではなくて――」
引き戸の開く音と同時に、大黒が口を閉じた。伏見が戻ってきたようだ。
「水、汲んできた。お茶の準備をする」
「お願い」
伏見はうなずくと、壁際の棚の前に移動してポットのようなものを置いた。
大黒が伏見の後ろ姿を見つめている。その表情には、先ほどと同じく慈しむような微笑が浮かんでいた。一体、何を思っているのだろう。
それに伏龍、つまり伏見が目覚めるとはどういう意味だろうか。
どちらも気になるが、伏見がいる状況では聞きにくかった。
歴奈の視線に気付くと、大黒が軽く肩を竦めた。
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