022 目玉

 気がつくと俺は仰向あおむけに倒れていた。


 眼の前には夕焼けのような朱色しゅいろの空。黒いバケモノはいない。骨のレンガは吹き飛んでしまったのだろうか。頭がふらつくが身体を起こす。視界の先に沙也加がうつ伏せに倒れているのが見えた。


 大丈夫か?


 俺は近くに行こうと立ち上がる。


 ゾワッと全身の毛が逆立った。


 咄嗟とっさに振り返ると、そこには巨大な黒いもやのようなモノが俺を見下ろしていた。


「ああ……。倒せなかった……んだ」


 全身の力が抜けていく。眼の前に存在するのは圧倒的な恐怖そのもの。気持ちを奮い立たせようとするが、それは生物としての本能なのか進化した人間の脳の合理的判断なのか、抵抗よりできるだけ穏やかな死を選択させようとしていた。


『キミトくん、ただ見て、ただ感じるんです』


 これは『おっさん先生』の声か?


『考える必要はないのですよ。そのまま素直に受け入れれば良いのです』


「……、せ、先生……?」


 俺の何とか絞り出した声に応答はない。


 アア゙ーーーーッ!


 カイブツが咆哮ほうこうすると同時に、もやの中から黒い触手のようなモノが俺に向かって伸びてくる。直撃すると感じた瞬間、俺は目を閉じた。


 ん? 何もない……。


 目を開けると、その触手は俺のすぐ横を通り過ぎ、後方に伸びていた。


「さ、沙也加!」


 振り返ると沙也加にその黒い手が伸び、彼女に巻き付いていた。


『オンナ……? デモ、チガ……ウ』


 言葉!? こいつ人語じんごを解するのか? 高音、低音の混在したようなノイズの声が俺の耳に響いた。


「てめえ! 沙也加を離せ!」


 俺が感じていた恐怖は、沙也加に迫る脅威を前にして消し飛んでいた。


『サ、ヤ、カ……。チガウ……。オデ、ノ、ホシイ、ハ……、


 こいついま小夜って言ったのか?


「そうだ人違いだ。だからその気色悪い手を離しやがれ!」


『コレ、オマエ、ダイジ……、カ?』


「大事? 当たり前だろうが、俺の可愛い、いとこだ!」


『イトコ……?』


「そうだ、いとこだよ! 血ののある親戚だ。っていうか、家族だよ! 大事に決まってるだろうが!」


『……。……。オデ……、ソレガ、ホシカッタ……』


 アア゙ーーーーッ! アア゙ーーーーッ! アア゙ーーーーッ!


 もやが薄くなり、カイブツが実体を現す。それは巨大な人間の頭部そのものだった。あの牛頭同様、顔の側部から直接腕のようなものが生えていたが、頭部に対する大きさ、長さの比率がおかしく、まるでムカデの足のようなそれがうごめいていた。おそらくあの細く見える腕の一本一本の先にあるのはすべて右手。顔面にあたる部分には口と鼻の穴であろうものは確認できるが、両目があるはずの場所は、底のない闇が存在するかのように陥没かんぼつしていた。カイブツが大きく震えるのと同時に、沙也加を捉えていた拘束が解かれた。


「沙也加!」


 俺は倒れている彼女のもとに駆け寄る。ちゃんと呼吸はしている。意識を失っているだけだ。


 だが、どうする? 沙也加を抱えて逃げ切れるのか? でも、一体どこに逃げろっていうんだ。ここは幽世かくりよ。アレを倒さない限り戻れない。はたして本当に戻れるのかさえ不明だ。


『キミトくん、戦うんだよ』


 先生? 俺の前にうっすら光る人型の霧のようなものが現れた。それがゆらゆら揺れている。


「先生なの?」


『そうだね。正しくはそうだったもの。こことは異なる別のところへ行くはずが、追い返されてしまったみたいでね。ああ、この話はいいか……』


 その声、口調、なんとなく感じる温かみ。眼の前の存在を疑う気持ちはそのときの俺には一切なかった。


「戦えって、あんな化け物を相手に……。そんなのすぐに殺されるに決まってるじゃないですか」


『そうでもないんだ。実はキミトくんは、いや、正しくはキミトくんの魂を構成するが、アレを下しているんだ。ああ、君が叩きまくっていたあの髑髏しゃれこうべの人ね』


 先生は何を言っているんだ?


だということには変わらないか……。アレは君のお陰で実は随分弱っている。倒せる最後のチャンスなんだよ。これを逃すと、恐らくたけど、この国は滅ぶよ。僕は現世うつしよを離れた身だけれども、それは悲しいことだからキミトくんに頑張って欲しいんだ』


「国が滅ぶって、俺みたいなのがヒーローみたいなことできるわけ……」


『いやいや、沙也加ちゃんのために恐怖を打ち払ったじゃないか。それは十分に英雄としての資格はあるよ』


 そんなこと言っても……。


『キミトくんの元の存在、ああ、言葉を変えて前世といったほうがいいね。それは少し普通の人とは違う存在だったんだ』


「大巫女さまの言っていた修験者さま?」


『そういうことになってるようだね。分かりやすくいうと【】だよ。別にツノなんて生えてなかったんだけどさ。どうしてそんなことになったのかまでは分からないけど、たくさんの悪いことをした人だね。きっかけは彼が原因ではないのだろうけども、たくさん人を殺したり、僕の口からでは言えない残虐ざんぎゃくなことを繰り返したんだ。飢えをしのぐために人の肉さえ喰らった。と共通するところもあるかな』


 英雄だとかヒーロー以前の話じゃないか……。


『でも、そんな【鬼】がたまたま、これを人は運命なんていうのかもしれないのだけど、あの小夜ちゃんの前世が生贄として捧げられるところに居合わせたんだ』


 鬼と禍津神って……。そんな昔話あるのかよ……。


『さすがの【鬼】も神の領域に達しようとしていたアレには敵わなくてね。そこで死んじゃったんだけど』


「えっ? 封じたんじゃなかったないの?」


『うん。封じたんじゃなくて、アレは怖くなって逃げたんだ。【鬼】は戦いには敗れたけど、アレを下したんだ。上下関係でいうなら【鬼】が遥かに上になった』 


「でも死んじゃったら……」


『うん。でもね、【鬼】というかキミトくんは、んだよ。ああ、かの吉田松陰が「人の精神は目にあり。故に人を観るは目においてす」とか言ってたかな。昔から目には魂が宿るともいうからね。アレの両目を喰らったことで存在がランクアップしたとでも言えばいいかな。【鬼】は死んだけども神に近づいたんだ。でも、彼というか君はそれをこばんだんだ。自分の魂をバラバラにして国中にいたんだよ。で、その本体といってもいいのがキミトくんの魂なんだよ』


「そんな力、俺には……」


『いや、持ってるよ。そのにね』


「俺の目?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る