008 イタリア男
目の前のストーブにかけられた金色のやかんから白い湯気が吹き上がるのを、俺はぼんやりと眺めている。
ここは診療所。光輝さんたちの宿泊しているホテルと提携している診療所だ。念のため診てもらうように言われて俺はここにいる、光輝さんは用事があるって出ていった。そしてなぜか沙也加が隣に座っている。持参した何だか小難しそうな本に目を落としているようだが、ドイツ語で書かれているようで内容は俺には分からない。コイツはどうも俺の保護者気取りのようだ。呼ばれるのを待っている間、やかんの湯気を眺めているくらいしかすることがないのだ。一応、雑誌類は置かれているのだが、高校生男子の興味を惹きそうなものは無かった。
「ねえ、沙也加。何読んでるの?」
「ニーチェよ。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。偉大な哲学者、日本でも人気があるからキミトであっても知っているかしら」
俺であってもって何だよ。知ってるけど興味はない。全く無い。俺のそんな表情を見て、沙也加は高そうな黒のバッグの中を
「そう? だったらラカンはどうかしら?」
「らかん?」
「ジャック=マリー=エミール・ラカンよ。『
「いや、結構です!」
こいつ分かっててやってるだろ! 沙也加はわざとらしく大きなため息をつくと、俺に差し出したその本を再びバッグにしまう。俺には目の前のやかんの方が落ち着くのだよ、沙也加くん。
バチッ。
俺の視界が暗転する。なんだ? 真っ暗だ。それに狭くて……、へんな感覚……。
「あっ……」
もとに戻った。何だいまの?
「ん? どうしたの?」
俺の驚いたような顔を見て、沙也加が尋ねる。
「い、いや。何でもない」
なんだろうこの感覚。前にもあったような気がする。
「えー、かん、かげ? かで、ああ、
看護師のお姉さんが俺を呼ぶ。そう、ふりがなをふっていても呼びにくい。そういうのにはもう慣れてるぜ。俺は奥の診察室に通される。おい、沙也加、お前がついてくる必要ないだろ。お前は母さんか!
「ハイ。椅子ニ掛ケテ、下サーイ」
背を向けて何かを確認している茶髪のドクターがそう言う。なんだかイントネーションがおかしい。最近は若いお医者さんで茶髪だとか普通だって、母さんが言ってたからそっちは別にいいのだけど……。
丸椅子を回転させてこっちを向いたそのお医者さまは、鼻の高い彫りの深いハリウッド映画の外国人俳優さんのようなイケメンだった。
「ドウシマシタカ? アア、初メテノ患者サンニハ、驚カレマス、デス、ヨネ」
「い、いえ……」
同じ丸椅子に座った俺は後ろに立つ沙也加を見上げるが、『何を驚いているのかしら?』という表情で俺を見下ろしている。
「外国で資格を取った医師は日本での診療行為には制限があるのだけど、日本の医師国家試験に合格して医籍登録されれば、日本の他のお医者さまとは何ら違いはないわよ。国家試験の前に受験資格を厚生労働大臣から認定される必要があることは知っておいたらいいわ」
ほう。だが、俺は人間のお医者さまじゃなくて、動物のお医者さんになりたいのだが……。俺の表情で察したのか彼女は続ける。
「獣医師さんは、海外の大学経由や海外で資格を持っている場合、農林水産省に書類を出して受験資格をもらう必要があるわね。それがけっこう大変で、書類の時点でも弾かれちゃうっておじさんが言ってたわ。だからキミトは国内で勉強することをオススメするわ」
いや、おまえに言われなくてもそうするつもりなんだが。
「オオッ、オ嬢サンハ、オ詳シイノデスネェ」
目の前のハリウッドスターが感心した口調で言う。
「彼ハ、オ嬢サンノ、彼氏サンデスカ?」
「何を見当違いなことをいっているのかしら? 私のカレシは、これの100万倍はカッコイイんだから……」
おいおい、100万倍って……。最後の語尾は小さくなってたけど、モブ男子じゃなかったのかよ? まあ、いいけどさ。
「コレハ、失礼シマシタ」
このドクター、何でもイタリア出身らしく、俺の診察そっちのけで沙也加とイタリア語で会話を弾ませていた。というか沙也加、おまえ何ヵ国語話せるんだよ……。
その後、思い出したように診察された俺は、何も問題なく健康体そのものだとお墨付きを貰った。さっき感じた変な感覚について聞こうかとも思ったが、再び二人のイタリア語講座が始まったようだったので、それは止めた。イタリア男と言うのはいい女を見ると積極的になるというのは本当のようだった。診察室に様子を見に来た看護師さんにイタリア男が小言を言われるまで、俺は丸椅子の上でくるくる回転して遊んでいたのだった。
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