第14話 朝になれば

 振り向くと、父が立っていた。眠いのか、栄養が足りないのか、顔色が悪い。鉄格子を持たなければ立っていられないのか、ふらふらの状態だった。


 お父さま……。


 つい、目を逸らしてしまう。すると父がもう一度、ラウラ、と小さく名前を呼んだ。


「……お父さま」


 近くによると、父がやつれているのがよく分かった。けれどやはり、丹精な顔の面影はしっかりと残っている。


 父は元々、ロンバルディ家お抱えの職人だった。若くして結婚したが、ラウラの母は出産とほぼ同時に亡くなった。

 そして、幼子を抱え生活にも困っていた父にアリアンナが結婚を申し込んだのだ。


 ただの職人でしかなかったお父さまをよく思わない人ばかりだったわ。

 顔だけでロンバルディ家当主の夫になれた、というのも、きっとその通り。


 当然父親はアリアンナに頭が上がらず、ラウラへの態度にも見て見ぬふりをしていたのである。


「ラウラ、お前は今、ちゃんと暮らせてるのか」


 父親の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。それと同時に、怒りが湧いてくる。


 どうして、わたくしを心配するようなことを言うの?

 助けてくれって、それだけ言えばいいのに。なんで、なんで父親らしい言葉なんてかけてくるのよ。


 父には嫌われていなかった……と思う。時々、アリアンナやマルティナに隠れて食べ物をこっそり部屋においてくれたこともあった。


 でも、それだけだ。アリアンナに嫌われて地位を失うことを父は恐れていたし、アリアンナは父がラウラと接触することを極端に嫌っていたから。

 だから、父とはろくに話したことがない。


「ええ。ロレンツォのおかげで」

「……そうか。なあ、ラウラ」


 父は声をひそめ、そっと手招きした。

 仕方なく、父に近づく。


「あいつは、お前の美貌を愛しているのかもしれないが……気をつけた方がいい。相手の地位や金銭に目がくらんで、大事なものを失うこともある」


 父の視線は、向かい側の牢屋で眠るアリアンナたちに向けられていた。

 その瞳には、複雑な感情がひしめき合っている。


「……お父さまは、後悔しているの?」


 父は何も答えなかった。無言が肯定なのか否定なのか分かるほど、ラウラは父のことを知らない。


 なによ。今さらわたくしにこんな話をして、どういうつもりなの?


 どんな事情があったにせよ、アリアンナとの再婚を選んだのは父だ。それに父は、アリアンナとの間にマルティナという子供も作っている。


 なのにこの期に及んで、地位や金銭に目がくらんだ?


「馬鹿にしないで」


 感情があふれて、つい声が大きくなってしまう。アリアンナたちが起きるのではと焦った顔をした父に腹が立って、さらにラウラの声は大きくなった。


「わたくしは、お父さまとは違うんだから」


 ロレンツォと一緒にいたいと思うのは、彼が大切だからだ。彼が、大金持ちの大商人だからじゃない。

 なにより、他人のせいにして、過去を悔やんで生きたりなんかしない。


 もう、いじめに黙って耐えていた頃のわたくしじゃないの。

 今の選択を正解にするために、ちゃんと自分で前に進むわ。


「さようなら、お父さま」

「ラウラ、待ってくれ、話を……!」

「話なら、今までの18年間の間、いくらでもする時間があったはずだわ」


 一度も振り向かず、階段を上る。じわじわと涙がこみ上げてきた。


 いつだっただろうか。父親からの愛情を諦めたのは。

 何度、父から優しい言葉をかけられることを期待しただろう。

 実の親にも愛されていない事実に、どれほどの涙を流しただろう。


「お嬢様!」


 いきなり聞こえた声にびっくりする。

 いつの間にか、目の前にロレンツォが立っていた。飛び起きてきたのか、寝間着姿で、髪には寝癖までついている。


「見張りが伝えにきてくれたんです。お嬢様が、地下室にきたと」


 ロレンツォの背後には、地下室にいた見張りの男がいた。

 どうやら、二人いたうちの一人が、気づかないうちにロレンツォのところへ行っていたらしい。


「なにか、嫌なことでも言われたのですか?」


 ロレンツォの目がつり上がる。瞳に荒々しい炎が宿ったのを見て、胸がほっとした。


 ロレンツォは、わたくしのためにこんなに怒ってくれているんだわ。


「お嬢様を傷つけるなんて、許せない。今すぐあいつらに懲罰を……!」

「待って!」


 地下室に向かおうとしたロレンツォの腕を掴む。


「お嬢様? どうして、お嬢様を傷つけた連中のことを気遣うんです?」

「そうじゃないの!」


 お嬢様? とロレンツォが顔を覗き込んでくる。

 優しい眼差しに、心臓が締めつけられた。


「今はただ……傍にいてほしくて」


 父への期待なんて、もうとっくに捨てていたはずだ。

 だからきっと、少しすれば涙は渇く。朝になれば、笑顔でおはようとロレンツォに言える。


「……お嬢様」


 そっと抱き締められる。ロレンツォの胸に顔をうずめて、ラウラは大泣きした。

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