2024東京都知事選がカオスな件

大石雅彦

(続く、かもしれません)

東京都知事選がカオスである。


毎回ユニークな顔ぶれがメディアを賑わせる東京都知事の選挙だが、今回はいつもに増して異常さが際立っている。

まず、候補予定者の数が常軌を逸している。今回の選挙は、2024年6月20日(木)を告示日とし、同年7月7日(日)が投票日だ。候補者はこの間17日におよぶ選挙活動を競うことになるのだが、6月17日の時点で立候補を予定表明している人数はなんと54名にのぼる。

2020年に行われた前回の都知事選は、22人の候補者が出馬し過去最多と報道されたが、今回はその倍以上の人数で、1つしかない都知事の座を争うことになる。


「争う」と書いたものの、顔ぶれを見ると「本当に当選するつもりなのか」と首を傾げざるを得ない者もいる。個人の候補者については、賛否両論あるかもしれないが、基本的に私は「誰が出てもよい」と考えている。若かろうが老人だろうが、富豪であろうが派遣フリーターであろうが、思うところあって出馬するそのこと自体は、公に保証された権利である。そこを制限してしまうと、「誰もが自由に、平等に立候補できる」民主主義のシステムを、担保できなくなるからだ(たとえそれが迷惑YouTuberであったとしても、である)。


最も危惧すべきは、政治団体「NHKから国民を守る党」(以下、N党)が打ち立てている同時多数擁立戦略である。

拙作「アストロQ」では、公職選挙法の枠内で可能と思われる奇想天外な選挙活動策を、さまざまに展開してみた。N党党首の立花孝志氏もまた、違法にならない奇天烈な選挙を現実に行うことで知られている。

しかし彼らの場合、そこに純粋に政治的な理念やビジョン、使命感があってやっているようにはどうしても思えないのだ。


事実、立花氏は「これは確かに都知事になろうと思ってやっている活動ではありません。しかしながら、選挙というのは政治的な目的を達成するためにやるわけですから」と自身のYouTubeで語っている。しかし東京都民は、「東京の自治をハンドリングする首長を選ぶイベント」として都知事選を認知しているわけであって、だからこそ膨大なコストと人手をかけることも、広く容認されるのだと私は思う。


参考資料が乏しくいささか古い情報になるが、10年前の都知事選(2014年2月)では、およそ46億1394万円の予算が選挙のために費やされた。その原資はすべて都民・国民が収めた税金である。

選挙情報サイトの「政治山」によれば、そこでは以下のような使い道がなされている。


都知事選の費用50億円、内訳は?|政治・選挙プラットフォーム【政治山】 https://seijiyama.jp/article/news/nws20160617-4.html


・都内14,163か所に設置されるポスター掲示板の作成、設置、補修

・1869か所の投票所、62市区町村に置かれる開票所の賃貸料や光熱費

・全投票所に配置する投票箱や記載台などの設置費用

・投開票所の人件費(期日前を含む)

・1000万枚を超える投票用紙と、投票所入場券(はがき)の準備および郵送費

・選挙公報およびPRメディアの作成、配布

・候補者の選挙カーやはがき、ビラやポスター、政見放送など、選挙費用の一部を負担する制度に基づく公営費

・候補者に供与する七つ道具(法律で定められた標札や腕章など)の作成費

・候補者に配る書類の作成費


ご覧いただければおわかりのように、これらの費用はすべて「都知事を選ぶ」目的のために使われている。

N党はこの前提を無視し、よくわかったうえであえて都知事選を目的外利用しているのだ。言ってみれば「タクシー代わりに救急車を呼ぶ」行為と変わりはない。政治(?)信条を掲げるのは自由だが、都知事選とは無関係だ、と党首自らが公言している以上、その活動は地方選挙以外の場所でやるべきなのだ。現時点で、最大24人を擁立するとのことだが、そのために都や選管、そして都民は余計なコストを支払わねばならなくなる。

なるほど、一人300万円の供託金は選挙結果によっては没収され、かかった費用の一部に充当されることになるのかもしれない。しかしそうだとしても、彼らが加わることによって混沌・混乱の状況が増した都知事選に対し、むしろ興味・関心をなくしてしまう有権者も少なくないだろう。


立花氏は言う。「多くの人が選挙に関心を持って投票にいけば万々歳。選挙をフェスにするのは大事なこと」だと。

それは違う。決定的に違うのだ。選挙にフェス、すなわち祭りの要素が必要なのは確かである。衆目を集め、関心を高めて候補者を選別し、投票行動に結びつける。その密度を上げるためにも、祭りとしての熱量はとても重要だ。

だが、ただのお祭り騒ぎには、民主主義が理想とする「公平公正に候補者を吟味し、自らの参政権をもってその人物に付託する」という核心が存在しない。「面白ければ何でもいい」わけじゃないのである。わが「アストロQ」で重要な役回りを担ったはっとり伯爵も、ただ単にふざけているだけの男ではなかった。彼の頭にあったのは、街とこの国の行く末を真剣に憂慮し、それをすぐさま行動に移すことにほかならない。


れいわ新選組の山本代表は、かつて国会で牛歩戦術をとったとき、「山本が何かおかしなことをしている、そう思って国会に関心を持ってくれればいい」とその意図を語ったことがある。山本さん、それをきっかけに国会に関心を持つ人は、たぶんそこまで深く審議内容にかかわらない。やり方としては、それはもう一時代前の古い戦術だと私は思う。


同様に、今回出馬を表明している黒川氏が代表を務めるつばさの党の戦術もしかり、だ。

「正々堂々と質問に正面から答えない」ことを理由に、演説会場に突撃する。最初のころは、まだ多少とも正当性が感じられたが、度重なればそのやり方は相手を硬化させるだけで、逆効果だということがわかるはずだ。であれば、そこで方針を転換しなければ、本来目的とするところが達成できない。

だが彼らは、演説に突撃する、という戦術面に拘泥した。そして、「知る権利、質問する権利」を主張するあまり、他の有権者が「演説を聞いて判断のよすがとする権利」を阻害している点を見過ごしてしまった。ホットな情熱に促され、冷静(クール)な判断ができなくなっていたとしか思えない。


立花氏と、山本氏、黒川氏を同列に扱うことには、異論もあるだろう。だが、「法律違反はしていない」からといって、それが「正しく意義のある政治活動」であるとは限らない点で、彼らの戦術には通底するものがある。そして少なくとも、今回のN党の戦略は都知事選の邪魔でしかない、と私は思う。


既にSNSなどで取りざたされているが、候補者が多すぎる場合はアメリカ大統領予備選のように、「二段階」選挙でスクリーニングする仕組みが必要なのかもしれない。ひとつの選挙に50人余も立候補されては、個々の政策や人物像を把握し比較するだけで大変だ。予備選を行ったうえで上位10数名による本選挙を実施するならば、争点や主義主張も今より明確に理解されるだろう。政治理念が薄い、あるいは断片的でしかない候補者はそこで脱落する。


さらに言えば、都議会議員や区議会議員、選挙メディアはもっと本質的な解説を、手間と時間をかけて実施し、都民に選挙の意義を浸透させるべきである。

たとえば、北海道鷹栖町では議員有志が呼びかけて、募集中のパブリックコメントについての勉強会を開催している。町でいま広く意見が求められる事象を対象に、「何が問題とされていて、何が課題なのか」ということを議員が解説し、実際に意見提出までを導く試みだ。

誰よりも内容をよく理解している議員たちが、市民に状況説明を行い、考えてもらうための材料を提示して、自主的な意見提出をサポートする。

同じように今回の都知事選をはじめ選挙に際しても、「いま地域が抱える課題として何があり、候補者はそれぞれどんなスタンスなのか」「どういう解が将来最も望ましい結果をもたらすか」をめぐって有権者の判断を支援する試みが、もっとなされてよいと思う。


陣営同士の対立構造をことさらにクローズアップしたり、面白候補に対する揶揄の混じったコメントをしたりすることが選挙報道ではない。有権者が意図的なバイアスに左右されることなく、望ましいと思う候補者を選ぶために必要な情報を、わかりやすく豊富に提供することこそが、選挙のあるべき姿を下支えするメディアの使命である。

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