26.新しい約束
《アルラズ・スノウ》
夜が明けた。
翠竜二体が暴れたもんだから、防護結界の外側には大嵐の痛々しい痕跡が残されていた。だが流石は俺と言いますか、結界の内側は無事、被害ゼロ。二次災害に見舞われる恐れもなさそうだ。
で。予言が外れた代わりに、少女フウの正体は翠竜ツジカゼですよってことが、里の人々にバレちまったわけだが。そもそもツジカゼは、里の人々を騙すつもりじゃなかったらしい。
人が様々な理由から体調不良に陥るように、俺たち魔導生命体にも様々な理由で「あー今日調子悪いなー」って時がある。魔物であるツジカゼも例外じゃあない。
半年ほど前のことだ。森に
ツジカゼはとぐろを巻いて眠りにつくことで、不調が
『竜の姿から人の姿になり、里の人に出会う』
「どうやったのか、どうやっているのか、未だに自分でも分からないの。ただ、強く願っているだけ……王都や聖都の魔導学者なら、仕組みを解析できるのかしら。とにかく次に目覚めた時、私は里長の家の寝床で横たわっていたわ。
茫然と、自分の小さく
生まれ持ったセンスと魔力量、緻密な構築理論の理解度、実践を重ねることでしか得られない熟練度。それらが物を言う魔導の世界だが、ときとして強い願いが、魔法に類似した効果を生むことがある。ツジカゼの変身は、願いによるものなのだろう。
そしてそこから彼女の、里での日々が始まった。
「名前は?」「両親は?」「故郷は?」と、次々に差し出されるどの質問にも答えられなかった彼女は「訳あって記憶が混濁している、可哀想な庇護すべき少女」として、里長の屋敷の離れで暮らすことを許された。同時に里長の奥さんから、フウという仮の名前を与えられた。
閉鎖的なムードの中で彼女が受け入れられたのは、髪色と瞳の色が里の人々と同じだったから、という理由が大きいらしい。ま、外見の類似ってのは充分なきっかけではあるが、勿論それだけじゃない。
無口で無表情、超然とした雰囲気を
ちなみに、彼女は滅茶苦茶
そんな依頼主、フウ……ツジカゼは今、竜の姿で里の民と向き合っている。彼女が腰を、
「なんという、ことだ……我々はずっと、
『お詫びなんて、要らないわ』
奥さんと一緒に先頭に立った里長が、額を片手で覆い
『私の方こそ、ごめんなさい。この半年間、人間の少女フウとして、あなた達を
ツジカゼは里長から顔を遠ざけ、爬虫類のように瞳孔の縦に細い、蜂蜜色の瞳をしょんぼりと細めた。
『フウという名の少女はもう存在しない。翠竜ツジカゼとして立ち去るわ。
ただ、巣に戻った後も、私は……私が、
お、小さく首を傾げてる、里で覚えた仕草なのかな。狼っぽい顔立ちだし、ちょっと可愛い。
里長はまず、奥さんと顔を見合わせた。大らかで優しい微笑みを受け取ってから、背後の民を振り返る。操る為ではなく、意思を
『翠竜ツジカゼ様。貴方が望んでくださるのならば……どうか、我々と共に生きていただきたい。フウとしてでも、ツジカゼ様としてでも、我々は貴方を受け入れます。
これからの日々の中で……これまでに受けた
ツジカゼはぴくりと耳を広げた。自分の聴覚を疑うなんて、彼女にとっては初めての経験だったに違いない。
そして大きく
やがてツジカゼの瞳が潤み、涙が零れ落ちる。見覚えのある双子の姉妹が駆け出して、あわあわと大粒の涙を両手で受け止めようとする。魔導生命体の涙だから、手のひらに触れるなり、翡翠色の輝きをぱっと放って消える。姉妹は驚いたように顔を見合わせたが、すぐにまた両手を広げた。
『要らない……これ以上何も、要らないわ。だって、私は幸福だった……あなた達の音に耳を澄ませているだけで、とても、とても、幸福なんだもの』
とびきり背の高い大樹の枝の上に
風を小瓶に詰めて帰ろうと思ってたが、今回のお土産に一番相応しいのは、この優しい記憶そのものなのかも知れない。
〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜
『命など要らぬ。人間どもの施しなど要らぬ。
未来
我を
古く歪んだ約束は、里の民と翠竜ツジカゼの両者が言葉を交わし合って決めた、新しい約束に取って代わられた。
『風吹く里に繁栄あれ。
降りかかりし災禍は、我が風の加護で
命は要らぬ。日々の穏やかな営みの音こそが、かけがえなき
〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜
そのせいで、ツジカゼの為に
というわけで、宴の主役にわざわざ付き添っていただいて喧騒から抜け出して、後でアルヴィンから怒られるよーな事態を無事に回避した俺は、大樹に凭れ掛かって目蓋を閉じた。
「……ふー。風、気持ちいー」
「顔が真っ赤。あなたにも苦手なことがあるのね。大丈夫? 他の女性達も心配そうだったわ」
「んー、あれは多分、心配してんじゃなくて……や、何でもねー、だいじょーぶだいじょーぶ。
ほら、これをアンタに、英雄サマ」
人間の少女の姿をしたツジカゼに、姉のひとりで『探究』の役割を担う眷属、ノアグレーテの発明品である魔導具を手渡す。
一見すると、華やかな装飾の施された金属製の手鏡だ。ツジカゼは興味深そうに、鏡を鼻先まで近づけてみたり、腕を思い切り伸ばして離してみたり、持ち手や装飾部分を人差し指の先でそろそろとなぞったり、くんくん匂いを嗅いだりしていたが。
やがて真顔になって一言、
「これは何?」
「ちょっとお洒落な通信用魔導具。ただ、どことでも連絡が取れるわけじゃあない。それが繋がるのは、
「通信用、魔導具……対になる一機というのは、どこにあるの?」
「俺が持ってますよ、今は収納魔法の中だけど。呼び出されたらすぐ応えるから、どうかご安心を。俺やアルヴィンと話したいからって理由だけで使うの禁止ね」
左右の人差し指でバツ印を作ってみせる。ツジカゼは、片手用の持ち手を両手できゅっと握り込み、魔導具を胸に当てた。
「ほら、この里、孤立無援に等しい状態だろ? アンタっていう頼れる守護者がいるが、アンタの身に『何か』が起これば、深刻な状況に陥ることは必至なわけだ。なので俺から特別サービス。本音を言うと里長さんには、他の集落と繋がりを持つことに、もっと前向きになって欲しいけど」
「……そう。あなたは、約束を守ってくれるつもりなのね」
俺はいつも通り、空っぽな笑顔を見せる。
『もし、翠竜ツジカゼが、人を……襲ったら?』
『俺が責任を持って消してあげる。英雄のまま、綺麗にね』
心は、時間っていう絶対に回避できない流れによって、少しずつ削られていく。悠久の果てでツジカゼは、今は理性によって制御している「魔物としての本能」に呑み込まれるかも知れない。
これは俺とアルヴィンが信頼し、英雄として担ぎ上げたツジカゼに、その時が訪れたときの為の約束。
「アンタとの話、楽しかったからさ。そんな日が来ないことを……アンタの愛が、末長く燃え続けることを願ってるよ」
ツジカゼはどこか寂しげに微笑んで、ゆっくりと頷いた。
感慨深い、なんて感覚には程遠いが。これ以上長居すると、酔った勢いで余計なこと言っちまうかも知れませんし。
頬をあおいでいた手を、顔の横でヒラヒラと左右に振ってから。自分の身体と樹皮の間の僅かな空間に創った、聖都の、大聖殿の、私室のベッドの上に繋がる裂け目へと倒れ込んだ。
すぐに背中を、程良い弾力が出迎えてくれる。
「わたしの愛を信じてくれて、ありがとう」
ツジカゼが最後に囁いた言葉が…… 風の止まりと始まりを知らせる、硝子の風鈴のような声が。意識の糸がぷつりと途絶えるまでの間、耳の奥でゆったりと波紋を広げていた。
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