26.新しい約束


《アルラズ・スノウ》



 夜が明けた。


 東雲しののめ色に微睡む空の下、里を流れる小川は過ぎ去った悪天候の名残で茶色く濁っていた。坂を登っていく風は穏やかで、民家の軒先に吊るされた硝子の風鈴が、心なしか控えめに鳴っている。


 翠竜二体が暴れたもんだから、防護結界の外側には大嵐の痛々しい痕跡が残されていた。だが流石は俺と言いますか、結界の内側は無事、被害ゼロ。二次災害に見舞われる恐れもなさそうだ。


 で。予言が外れた代わりに、少女フウの正体は翠竜ツジカゼですよってことが、里の人々にバレちまったわけだが。そもそもツジカゼは、里の人々を騙すつもりじゃなかったらしい。


 人が様々な理由から体調不良に陥るように、俺たち魔導生命体にも様々な理由で「あー今日調子悪いなー」って時がある。魔物であるツジカゼも例外じゃあない。


 半年ほど前のことだ。森にいた魔物の群れを、巣にいながら風魔法で見事に一掃したツジカゼだったが、それにより当時わずらっていた不調……「魔糸循環不良」が悪化した。


 ツジカゼはとぐろを巻いて眠りにつくことで、不調がおさまるまでじっと耐えようとした。そうして夢現ゆめうつつを往復する朦朧もうろうとした意識の中で、ある幻を見たのだという。



『竜の姿から人の姿になり、里の人に出会う』



「どうやったのか、どうやっているのか、未だに自分でも分からないの。ただ、強く願っているだけ……王都や聖都の魔導学者なら、仕組みを解析できるのかしら。とにかく次に目覚めた時、私は里長の家の寝床で横たわっていたわ。


 茫然と、自分の小さくまあるくなった手のひらを見つめていた私に、里長が話してくれたの。私は北方の森、里の人々が薬草の採取場としているところに一人で倒れていて、外傷は見当らないけれど酷い熱があったからと、大慌てでここに運び込まれたんだって」


 生まれ持ったセンスと魔力量、緻密な構築理論の理解度、実践を重ねることでしか得られない熟練度。それらが物を言う魔導の世界だが、ときとして強い願いが、魔法に類似した効果を生むことがある。ツジカゼの変身は、願いによるものなのだろう。


 そしてそこから彼女の、里での日々が始まった。


 「名前は?」「両親は?」「故郷は?」と、次々に差し出されるどの質問にも答えられなかった彼女は「訳あって記憶が混濁している、可哀想な庇護すべき少女」として、里長の屋敷の離れで暮らすことを許された。同時に里長の奥さんから、フウという仮の名前を与えられた。


 閉鎖的なムードの中で彼女が受け入れられたのは、髪色と瞳の色が里の人々と同じだったから、という理由が大きいらしい。ま、外見の類似ってのは充分なきっかけではあるが、勿論それだけじゃない。


 無口で無表情、超然とした雰囲気をまといながらも、彼女は率先して里の営みに加わろうとした。里で起こる様々な問題や困難を自分のもののように真摯に捉え、不器用ながらも解決に助力した。そんな健気さと誠実さが、彼女の身分をいぶかしむ者を次第に減らしていったわけだ。


 ちなみに、彼女は滅茶苦茶ちからが強く、体力も滅茶苦茶あったので、力仕事で大活躍だったとか。


 そんな依頼主、フウ……ツジカゼは今、竜の姿で里の民と向き合っている。彼女が腰を、いや、胴体を落ち着けられるスペースは里のどこにもないから、とぐろを巻きながらふわふわと宙に浮いた状態ではあるけれど。


「なんという、ことだ……我々はずっと、ゆがんだ約束を守り続けていたのか……貴方様に護っていただきながら、貴方様のことを誤解し、恐れて……ああ、一体どうお詫び申し上げればよろしいのか……!」

『お詫びなんて、要らないわ』


 奥さんと一緒に先頭に立った里長が、額を片手で覆い項垂うなだれた。彼とその伴侶に寄り添うように、ツジカゼの左右のひげがそっと動く。生理的な恐怖に抗えず、数人がびくりと肩を震わせたり、微かに身を退らせたりしたが、無償の愛を注ぎ続けてきたツジカゼにとっては些細なことでしかない。


『私の方こそ、ごめんなさい。この半年間、人間の少女フウとして、あなた達をあざむき続けてきた……此処で過ごす日々があまりにも心地良いものだったから、正体を明かすのが……失うのが怖くなってしまったの。だけどもう、終わり』


 ツジカゼは里長から顔を遠ざけ、爬虫類のように瞳孔の縦に細い、蜂蜜色の瞳をしょんぼりと細めた。


『フウという名の少女はもう存在しない。翠竜ツジカゼとして立ち去るわ。

 ただ、巣に戻った後も、私は……私が、伽藍堂がらんどうから生まれた魔物の私が、あなた達を護り続けることを……許して、くれる?』


 お、小さく首を傾げてる、里で覚えた仕草なのかな。狼っぽい顔立ちだし、ちょっと可愛い。正直しょーじき、竜なんて討伐対象でしかなかったけど……これからも、討伐対象であり続けるけど。ツジカゼだけは例外、でいーかな。


 里長はまず、奥さんと顔を見合わせた。大らかで優しい微笑みを受け取ってから、背後の民を振り返る。操る為ではなく、意思をみ取る為に、一人一人と視線をまじわらせていき……やがて小さく頷いて、ツジカゼを再び見上げた。


『翠竜ツジカゼ様。貴方が望んでくださるのならば……どうか、我々と共に生きていただきたい。フウとしてでも、ツジカゼ様としてでも、我々は貴方を受け入れます。

 これからの日々の中で……これまでに受けた数多あまたのご恩を、少しずつ、お返しさせてはいただけないでしょうか?』


 ツジカゼはぴくりと耳を広げた。自分の聴覚を疑うなんて、彼女にとっては初めての経験だったに違いない。

 そして大きくみはった瞳で、決意と誠意に満ちた里長の表情を、周囲につどった人々の表情を見回した。


 やがてツジカゼの瞳が潤み、涙が零れ落ちる。見覚えのある双子の姉妹が駆け出して、あわあわと大粒の涙を両手で受け止めようとする。魔導生命体の涙だから、手のひらに触れるなり、翡翠色の輝きをぱっと放って消える。姉妹は驚いたように顔を見合わせたが、すぐにまた両手を広げた。


『要らない……これ以上何も、要らないわ。だって、私は幸福だった……あなた達の音に耳を澄ませているだけで、とても、とても、幸福なんだもの』


 とびきり背の高い大樹の枝の上にしゃがみ込み、やりとりを観察していたけど。竜の笑顔を見るのなんて、多分生まれて初めてだ。


 風を小瓶に詰めて帰ろうと思ってたが、今回のお土産に一番相応しいのは、この優しい記憶そのものなのかも知れない。



 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜



『命など要らぬ。人間どもの施しなど要らぬ。

 未来永劫えいごう何人なんぴとたりとも、

 我をおとなってはならぬ。

 ただ、我が風が吹きしとき閑寂かんじゃくを献上せよ』


 古く歪んだ約束は、里の民と翠竜ツジカゼの両者が言葉を交わし合って決めた、新しい約束に取って代わられた。


『風吹く里に繁栄あれ。

 降りかかりし災禍は、我が風の加護でもって振り払おう。

 命は要らぬ。日々の穏やかな営みの音こそが、かけがえなき果報かほうなり』



 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜



 王都シェールグレスからの使者を名乗り、竜を倒せると豪語しておいて「傍観してましたー」は流石にまずいので、「竜の攻撃を全部シャットアウトした防護結界は俺が張りましたー」と里長に報告しておいた。果たした役割のほんの一部に過ぎないが、偽りはありませんから。


 そのせいで、ツジカゼの為に急遽きゅうきょ開かれた祝宴に参加させられて、うっかり里で造られた酒を一口飲むことになっちまったわけだけど。しかも、とびきり強いヤツを。


 里長あのひと、普段は謙虚で慎重なのに、酒が入ると強引になるんだなー……うえー、すげーあちー、すげーねみー、ふわふわするー……他のことなら何されても平気だけど、酒だけは無理ー……はー、でもまだ、俺がこの里で果たすべき、最後の役割が残ってる……


 というわけで、宴の主役にわざわざ付き添っていただいて喧騒から抜け出して、後でアルヴィンから怒られるよーな事態を無事に回避した俺は、大樹に凭れ掛かって目蓋を閉じた。


「……ふー。風、気持ちいー」

「顔が真っ赤。あなたにも苦手なことがあるのね。大丈夫? 他の女性達も心配そうだったわ」

「んー、あれは多分、心配してんじゃなくて……や、何でもねー、だいじょーぶだいじょーぶ。

 ほら、これをアンタに、英雄サマ」


 人間の少女の姿をしたツジカゼに、姉のひとりで『探究』の役割を担う眷属、ノアグレーテの発明品である魔導具を手渡す。


 一見すると、華やかな装飾の施された金属製の手鏡だ。ツジカゼは興味深そうに、鏡を鼻先まで近づけてみたり、腕を思い切り伸ばして離してみたり、持ち手や装飾部分を人差し指の先でそろそろとなぞったり、くんくん匂いを嗅いだりしていたが。


 やがて真顔になって一言、


「これは何?」

「ちょっとお洒落な通信用魔導具。ただ、どことでも連絡が取れるわけじゃあない。それが繋がるのは、ついになる一機だけ」

「通信用、魔導具……対になる一機というのは、どこにあるの?」

「俺が持ってますよ、今は収納魔法の中だけど。呼び出されたらすぐ応えるから、どうかご安心を。俺やアルヴィンと話したいからって理由だけで使うの禁止ね」


 左右の人差し指でバツ印を作ってみせる。ツジカゼは、片手用の持ち手を両手できゅっと握り込み、魔導具を胸に当てた。


「ほら、この里、孤立無援に等しい状態だろ? アンタっていう頼れる守護者がいるが、アンタの身に『何か』が起これば、深刻な状況に陥ることは必至なわけだ。なので俺から特別サービス。本音を言うと里長さんには、他の集落と繋がりを持つことに、もっと前向きになって欲しいけど」

「……そう。あなたは、約束を守ってくれるつもりなのね」


 俺はいつも通り、空っぽな笑顔を見せる。


『もし、翠竜ツジカゼが、人を……襲ったら?』

『俺が責任を持って消してあげる。英雄のまま、綺麗にね』


 心は、時間っていう絶対に回避できない流れによって、少しずつ削られていく。悠久の果てでツジカゼは、今は理性によって制御している「魔物としての本能」に呑み込まれるかも知れない。


 これは俺とアルヴィンが信頼し、英雄として担ぎ上げたツジカゼに、その時が訪れたときの為の約束。


「アンタとの話、楽しかったからさ。そんな日が来ないことを……アンタの愛が、末長く燃え続けることを願ってるよ」


 ツジカゼはどこか寂しげに微笑んで、ゆっくりと頷いた。


 感慨深い、なんて感覚には程遠いが。これ以上長居すると、酔った勢いで余計なこと言っちまうかも知れませんし。


 頬をあおいでいた手を、顔の横でヒラヒラと左右に振ってから。自分の身体と樹皮の間の僅かな空間に創った、聖都の、大聖殿の、私室のベッドの上に繋がる裂け目へと倒れ込んだ。


 すぐに背中を、程良い弾力が出迎えてくれる。


「わたしの愛を信じてくれて、ありがとう」


 ツジカゼが最後に囁いた言葉が…… 風の止まりと始まりを知らせる、硝子の風鈴のような声が。意識の糸がぷつりと途絶えるまでの間、耳の奥でゆったりと波紋を広げていた。

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