5.「アルラズ」


 一人一人が抱く、異なる色をした願いを、神は慈愛の心で以って受けとめる。どれほど強い願いだろうと、「多くの場合」は受けとめるだけ。


 即ち、例外が存在するということだ。


 裁きの塔のいただきにて炎神がそのまぶたを開き、遥か高みより、礼拝堂で懇願する者へと一瞥いちべつを授けたとき。切なる望みは、叶えられる。




「……やあ、良い夜ですね」


(獲物を何処どこまでも追い詰める、影のような執着。自分より武力的に弱い存在かを、確実に選別する嗅覚。魔糸みてーに身体中をぐるぐる巡ってる、奪って当然だって思考。

 今夜、ここで、終わらせたっていい。が)


「はは、おびえすぎだっての。仕方ねー、なーんか弱い者イジメみてーで可哀想だから、焦らさずにさっさと終わらせてやりますかー」


(罪に怯える心がだ在るのなら。俺が与えるものは恐怖、それだけでいい。

 それだけで、次の夜の標的は変わる。他者から「自分自身」へと、変わる)


「逃がしてやるわけ、ないだろ?

 今まで悪事ご苦労様、『闇を泳ぐ魔物』さん」


(『哀れな魔物』の仮面を引き剥がしてやる。

 空の炎のもとに、絶対的な愛の下に、臆病おくびょう者の素顔を晒せ。さあ、)


「『正義』の名のもとに」


(人間に、戻る時間だ)




 5.「アルラズ」




「どうか、どうかお待ちになってください! 貴方あなたは……一体、何者なのですか?」


 男は立ち止まり、追いかけてきた人物……シエラ・バーンネルの老いた養父を振り返った。


 束の間、美貌の男は無表情でいた。豊かな感情を宿していたはずの双眸からは、人間らしさがごっそり抜け落ち、知的な鋭利さと得体の知れない神々しさのみが在った。


 神父の心には冷ややかな畏怖が兆し、


「いえ、あの……不躾ぶしつけな振舞いとなってしまい、申し訳ございません。わたくしはただ、せめて、恩人殿のお名前やご身分を心に刻んでおきたいと存じまして。この度は誠に、誠にありがとうございました」


 思わずうつむきそうになる視線を、感謝の一礼によって隠した。




 男は、依頼主との約束を果たした。


 雲間から差し込む陽光のもと、手枷てかせを施した「闇を泳ぐ魔物」を教会前まで連れてきた。


 「闇を泳ぐ魔物」には、外傷など戦闘の痕跡は見られなかった。ただ、心底怯え切った様子で、地面に膝をついて真相を洗いざらい従順に吐き、真冬に裸で屋外に放り出されたかのようにカタカタと震えるばかり。


 そしてシエラが選んだのは、言葉でぶん殴ることだった。


 十四歳の少女は母親のかたきを黙して睨みつけていたが、やがて彼が発するえたような臭いにも躊躇わず、ぐいと顔を近づけて強くこう命じた。


『この顔を忘れないで。一生、忘れないで。

 わたしは、お前が殺したひとの娘だ』


 哀れな魔物の名に隠れていた痩躯の中年男は、伸び放題、曲がり放題の長髪によってほとんどが覆われた顔をいっそう青白くし、甲高い嗚咽を漏らしながら、地面に散らばった何かを掻き集めるようにして平伏ひれふした。


 少女は自らの感情より、母親の遺志を尊重した。「たとえどんなことが起ころうとも、清く在り続けましょう。決して奪う側にいってはなりませんよ」と、幾度も聞かされてきた言葉を、幾度も絡めてきた小指の誓いを裏切らなかった。


 人を殴れば、自らの拳も忘れがたい痛みを覚えるもの。余所者は片割れを通じて、そのことをよく理解していた。だからこそ、シエラの選択を「尊い」と思った。


 そして同時に確信した。

 俺は、正しい裁きをまっとうできたのだ、と。


 最早、この街ですべきことは残されていない。罪人の連行に協力してくれたミガーネギルドの登録戦闘員、酒場で出会ったユーデル・マーガンともう一名に、手柄も後始末も全部任せると言い放ち、早々にその場を後にしたのだ……




「やや、礼なんて別にいいんですってー。用済みの余所者なんかに構ってないで、娘さんをそばで見守ってあげててくださいよー。

 ショージキ俺は早く帰って、メンドーな報告をパパッと終わらせて、母さんに思いっきり褒められたり甘やかされたりしたいんだからー」


 ロマンスグレーの頭を再び上げた神父が見たものは、先程の印象とは打って変わって柔らかな微笑。神父が更に一歩踏み込もうと考えたのは、その笑顔に少なからず畏怖が和らいだ為だった。


「寛大なご配慮、痛み入ります。しかしながら、これほどの恩義を賜ったのです。『聖都よりの使者様』と仰るだけでは、私どもを救わんと思し召してくださった御方が何方どなたなのか……」


「んー……無事に裁けたし、アンタになら明かしてもいーかな。

 依頼主あの子以外には内緒にしといてね?」


 ひとつ、立てた人差し指を右の目尻の下に接吻させ、揺らすように顔の横へ。中指と薬指を順に立て、合わせてみっつ。

 「三」を示すハンドサインだ。


「俺は『ひとみ』で、序列は第三位」


 男が何を言ったのか、咄嗟には理解できなかった。しかし、長年炎神に仕えてきた老齢の神父は、三度目のまばたきの後に瞠目する。


 思い出したのだ。今から四十年以上前、聖都のティアニーリア神学校で学んでいたとき、その「特殊機関」の噂を耳に挟んだことがあったと。


『瞳。聖都に囚われし神に代わり、物事を見定め、正義を執行する。

 成員は皆、只人ただびとを凌駕する魔法の使い手である。何故ならば……』


 天地が逆さに映るほどの、眩暈に見舞われた。


「ああ、我が神よ……まさか、まさか……!」



『炎神の子。

 神体より生み落とされた、眷属であるから』



「だいじょーぶ? なんか具合悪い? 娘さんの為にも身体、大事にした方がいーよ?」


 茫然と。気づけば神父は、両手と両膝をついていた。

 戦慄わななく指が地面をえぐり、切り整えた爪に柔らかな土が入り込む。


 その双眸を幾度、同等の高さから直視してしまったか? その言葉を幾度、怪しみ、疑ってしまったか? 自分と養女は一体幾度、炎神の御子に不敬を働いてしまったのか?


 脂汗が俄かに額を覆う。同時に、若き日に戻ったかのように溢れてくる熱い涙が、ぽつぽつと老眼鏡を叩いては広がる。雫に内包された虹がぐるりと巡り、淡く輝く。


「我々は、何というご無礼を……! まさか『正義』の眷属様が、直々に、正義を執行なさりにいらっしゃるとは……ああ、何という……ああ、ああ、偉大なる、我が主よ……」


「まー、正義は正義でも、俺の場合は『家族愛』なんだけど。母さんの優しさは大ッ好きだけど、残念ながら俺自身は優しくない……だから、人間に寄り添うのが下手なんだよなー」


 丘の上を風が渡り、白鳥しらとりの一団が、じきに晴れ渡る空を飛び去ってゆく。美貌の眷属の声は変わらず羽根のように軽やかで、己の身分の尊さをまるで気に留めていないかのようだった。


「それに俺は、身分で呼ばれるのが好きじゃない。だって序列第三位なんだぜー、上のふたりに母さんへの愛で負けてるみてーじゃん? んなこと有り得ねーのにさ……だから、」


 ひざまずいた状態からしばし動くことができず、嗚咽を堪えながら声に成らない声で、主への謝辞を繰り返していた神父には、知る由もないが。転移魔法でミガーネの街を去る寸前に、『正義』の眷属が浮かべた笑顔には、幼子のような無邪気さがあった。


「また会うことがあれば、だけど。母さんがつけてくれた、『アルラズ』って名前で呼んでもらえると、嬉しい」



 【序章 闇を泳ぐ魔物・了】

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