影踏み

鳥尾巻

秘密の遊び

 教室の窓ガラスを雨粒が叩く。14歳の私、藤井ふじい奈央なおは、夏が輪郭を際立たせる前のぼやけた風景の中にいた。同じ年の同級生達が他愛もない話で笑いさざめく中、自分1人だけが取り残されたように教室に馴染まずにいる。

 長い黒髪をひとつに括り、皆と同じ紺色の制服に身を包んでいても、白い紙に垂らした黒インクのように酷く目立つ。じめじめする蒸し暑い最中でも長袖のシャツを着て、手を黒い革の手袋で覆い隠している。

 藤井奈央は誰にも触らない。触られることも嫌がる。それは周知の事実だけど、事情を知る者は暗黙の了解のように理由を口には出さない。腫物扱い。でもそれでいい。

 6月に行われる体育祭の種目を決めるホームルームの時間。黒板に種目と立候補者を書いている担任教師の背中に向けて、1人の男子生徒、生島いくしま依里よりが声を掛けた。

「先生、二人三脚の枠は藤井さんがいいと思いまーす」

「ちょ、やめなよ」

 明らかに悪意の含まれた口調と、本気で止める気のない潜めた笑い声。中年の男性教師は板書の手を止めて、私の方に体を向けた。

「藤井さん」

「……」

「推薦があったけど、どうする? やる?」

「あー、でも藤井さんは無理かもしれないでーす。ごめんなさーい」

 依里が、おどけた素振りで口だけの謝罪を述べ、周りにクスクス笑いが広がっていく。こうしたことは初めてではない。お調子者だが発育も頭も良く、クラスでもリーダー格の依里の言動を止める者はいない。彼が作り出した空気にいつの間にか皆が従ってしまう。

 中年の男性教師は困ったような表情を浮かべ、私と彼を見比べた。事なかれ主義の教師は、ことを穏便に収めたいのだ。

「どうする?」

「やります」

 私は静かに答えた。騒がしい教室の中が一瞬シンとなる。軽く両手を組んだ私は、ひと呼吸置いた後、教室の後ろの席にいる依里を振り返った。

 私の顔立ちはきつい。目力があると誰かに言われた。挑戦的に私を見る彼の目を無感情に見つめ返す。だがその瞳の奥にある焦燥と懇願めいた光が、私の密かな嗜虐心を満足させる。

「生島君が一緒にやってくれるなら、やります」


 傘を差して歩く私の後ろを、依里が従順な大型犬のようについてくる。教室でのふざけた態度は鳴りを潜め、しょんぼりと肩を落とした依里は憐れみを乞うように私の傍に寄り添う。

「ねえ、奈央ちゃん、怒ってる?」

 2人が口をきくのは、学校から離れた場所にいる時だけ。同じ校区から通う生徒は、私と依里しかいないので、それを見る者はほぼいない。

 降りしきる雨が傘に弾かれ、ざらついた音を立てる。私は後ろを振り返り、出来る限り優しい声を出した。

「怒ってない。依里君は私の言う通りにしてるんだから」

「うん」

「それともお仕置きしてほしいの? 依里君」

 結局、教師のとりなしで私が団体競技に出ることはなかったが、依里はやり過ぎたのではないかと怖れているのだ。名前を呼びながら私が見つめると、依里は頬を上気させ、言葉を詰まらせた。

 小学4年生の時、私が攫われたのは、ちょうどこんな雨の日だった。家が近く仲の良かった私達は、いつも一緒に帰っていた。私は今より大人しかった依里を従える小さな女王だった。身長差が開き依里の体格が良くなっても、さほど関係は変わらない。

 その日はたまたまクラブ活動で帰りが別々になり、依里はそのことを知らず私の家に遊びに行き、母親に不在を告げられた。夕方になっても戻らない私の捜索が始まり、近隣は一時大騒ぎになったらしい。

 犯人は近所に住む大学生だった。普段から私達と遊んでくれて、私と依里も彼を「おにいさん」と呼んで慕っていた。そして第一発見者は心当たりを探しに来た依里だった。

 家人の通報により逮捕された彼は、私と自分は相思相愛であると言い張っていた。青年の部屋で発見された私には、前後の記憶があまりない。全身を締め付ける黒革の服を着せられ、まるで人形のように生気の失せた顔をしていたという。

 二次被害を防ぐ為にも詳細は伏せられ、事件自体は全国ニュースに少し取り上げられた程度だが、口さがない人間は後を絶たなかった。しばらく学校にも行けず引き籠る日々が続いた。親に病院を薦められ、手袋を着け始めたのもその頃だ。

 極端に人との接触に怯え、時にはヒステリックに叫んで暴れた。訳もなく涙があふれ、眠れない日々が続いた。周りに「君は悪くない」といわれるたびに、遠くでそれを聞いている感覚がした。憐れみを含んだ眼差しほど私を傷つけるものはなかった。

 あの日一緒に帰っていれば、事件は起こらなかったかもしれない。あいつが憎い、と依里は涙を流した。私の手袋を嗤う者と喧嘩になったこともある。

 でも憐憫や自己陶酔は馬鹿馬鹿しいだけだ。だから私は依里に提案を持ちかけた。彼は私の為ならなんでもするという奇妙な確信があった。徹底的に私を腫物扱いすればいい。私を「不可触な存在」にしてしまえばいいのだ。

「今日は休みたかった。雨の日は嫌い」

「うん」

「でも依里君が迎えに来たからね」

「ごめんね。今日種目決めるって担任が言ってたから。欠席だと勝手に決められちゃうんだよ」

 眉尻を下げて言い訳しながらも、ご褒美をねだる子供のような顔をする依里の狡猾さを感じ取る。14歳は大人が思う程子供ではなく、自分が思う程大人ではない。13では幼く、15では大人に近づきすぎている。

 歪な依存関係は、好意と執着の境目を曖昧にさせるけれど、依里から向けられる欲望を含んだ視線は嫌ではなかった。

 依里の身体は子供の頃より産毛が濃くなり、輪郭が骨っぽさと柔らかさの中間にある。曖昧で一番美しい時期の彼を密かに独り占めしていることに優越を覚え、時にぞくぞくするほどの愉悦を感じる。

 湿気を含んだ空気のせいで、皮膚は冷えているのに内側は熱い。額や唇に依里の視線を感じながら、私は背筋を伸ばし殊更ゆっくりと前を向いた。

「今日は雨だし。うちで影踏み遊びをしようか」


 人に触れなくなってから、私と依里は影踏みで遊んだ。影踏み鬼とは少し違う。夕方に伸びる長い影同士で手を繋いだり、動きや大きさを工夫して持ち上げているように見せたりする他愛もない遊びだ。雨の日は家の中で影絵を作って遊ぶ。

「これなら触らずに遊べるね」と嬉しそうにしていた依里だったが、ある雨の日に、顔を赤らめながら「抱きしめてもいい?」と尋ねた。

 カーテンを閉め切り、LEDランプの灯りが作る影の中で抱き合った。細く伸びた黒い身体が自分を包むのを見ると、言葉にならない安堵と感傷が同時に込み上げ、私は心の中だけでひっそりと涙を流した。

 その日から私達は、大人の見ていないところで秘密の遊びに興じるようになった。影の中でなら自由であり、どんなものにでもなれた。影の中には現実の憂いも不安もない。

 家に戻り部屋着の黒いパーカーに着替えた私はベッドに腰かけ、制服姿の依里は、少し離れた足元に膝を立てて座る。現実には触れ合わず、体を重ね合わせた幼い影達。影の世界だけで通じる言葉で彼らの物語を想像する。

「あっちの2人も仲のいい友達同士なんだよ」

「ちがう、影の女王とその家来なの」

「そっか」

「依里君はなんでも私の言うことを聞くの」

「こっちでもそうしてるよ」

「そうかな」

 私は敢えてつまらなそうに依里を見下ろしながら、彼の影の足の間に靴下を履いた爪先を差し込む。

「今日ちょっと動揺してた」

「ごめん」

「ごめんなさい、でしょ」

「……ごめんなさい」

 わざと冷たく言い放つと、彼の日に焼けた皮膚がサッと紅潮する。僅かに荒くなった呼吸を鎮めるように唇を噛む。

 靴下を履いた足で影を踏まれて何が興奮するのか正直理解はできない。あの青年も私に踏まれたかったのだろうか。思い出そうとすると頭痛がする。でも目の前の依里は決して私に触れようとしないし、ただ私を安心させる為にやっているのかもしれない。

 彼の行動を支配しているようで、時々こちらが誘導されているように感じる。提案を持ちかけたのは私だが、依里はいつも前のめりに私の言うことを聞きたがっているし、影踏みに最初に特別な意味を持たせたのも彼の方だ。

 依里がとりわけ好んだのは、ベッドに横たわる私のシーツに広がる髪を影の手で撫でる行為だった。

「髪伸びたね」

「切りに行けないから」

 女性なら大丈夫かと一度試してみたことはあるが、誰かの体温が肌に直接触れる感触に鳥肌が立ち、その場で嘔吐してしまった。髪は結んでおけばいいし、伸びすぎたら自分で切ればいい。女性的なお洒落にも興味はない。

 依里はしばらく私の髪の上で遊び、頭頂に沿って手の平を広げた。ステンレスの窓枠を打つ軽やかで規則的な雨音に、半ばウトウトしていた私は、いつの間にか大きくなった彼の手の平を夢現に見上げる。

「奈央ちゃん、手の影が王冠みたいだよ」

「自分じゃ見えない」

「俺が見えてるならいいの」

 雨音に混じる潜めた声が、耳の底に沈む。変声期で掠れた声は少し耳障りだ。この奇妙な遊びはいつまで続くのだろう。

 今日はとても疲れた。私はそれ以上考えるのをやめ、影の中に意識を潜り込ませた。


「この前、生島君と藤井さんが一緒に歩いてるの見たよ」

 放課後、体育祭の練習をしていると、珍しく同じクラスの女子が話しかけて来た。名前はうろ覚えだが、いつも依里と同じグループで騒いでいる女子の1人だ。

「そう」

「仲いいの?」

「別に。小学校が一緒で家が近いだけ」

「あー、だからこないだあんなこと言ったんだー」

「あんなこと?」

「生島君が一緒ならやりますって。あんなこと言ったら誤解されるよ」

 多分、彼女は依里に淡い恋愛感情を抱いているのだろう。恋など理解できない。常に心の均衡を保っていたい私にとって、それは底の見えない暗い穴の縁に踏み止まって堕ちるのを恐れるのに似ている。欲望の方がよほど扱いやすい。

 私は湿気のせいで張り付く手袋と、夏でも着ている長袖のジャージが不快で少しイライラしていた。

「で? 何が言いたいの?」

「忠告しただけでしょ! 1人で可哀相だから話しかけてあげたのに」

「頼んでない」

「そうよね! あんたふつーじゃないし! 生島君もあんたなんかと噂になったら可哀相!」

「生島君がどう思うかなんて、彼に直接聞けばいいじゃない。親切ごかしに話しかけて、私がたまたま一緒にいたってだけで嫌味言われるのは迷惑」

「なっ、あんたほんとむかつく!」

 わざと煽った部分もあるが、面白いほどに挑発に乗った彼女は、勢いのまま私に向かって手を振り上げた。その汗ばんだ手の平が自分に触れることを想像して怖気が走る。思わずきつく目を閉じたが、衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。

 恐る恐る目を開けると、彼女の手首を掴んだ依里が、表情を失くした目で私達を見下ろしていた。

「何してんの?」

「生島君……、藤井さん酷いこと言うんだよ、ちょっと話しかけただけなのに」

「だからって手をあげていいの?」

「彼女、この前私達が一緒にいたの見て気になってたんだって。ふつーじゃない私と噂になると可哀相って忠告してくれたよ。ありがとう。じゃあね」

 ちょうど下校を促すアナウンスが聞こえてくる。私は一方的に話を終わらせて、鞄を置いてある校舎の方へ歩き出した。すぐに依里が走って追いかけてくる。

「待って」

「余計なことしないで」

 私は鞄を掴み、そのまま門の方へ歩き出した。依里は一瞬躊躇ったものの、自分の荷物を持って後ろをついてくる。来るなと言ったのに。屈託のない世界で生きて、彼を慕う女の子と戯れていればいいものを。

 肩掛けの鞄の紐を握り締めた手が震えていて、思ったより動揺していることに気付く。叫んで暴れ出したい衝動に駆られている自分を遠くから眺めている。ダメだと分かっているのに、今目の前にいるものを全部傷つけて壊したくてたまらない。

「奈央ちゃん」

「1人にして。誰かを傷つけそうだから」

「それでもいいよ。ほんとは俺だって奈央ちゃんを独りにしたくない」

「へえ……」

 自分のものではないようなねっとりとした声が、出た。私は立ち止まり、背後の依里を振り返った。猫のようだと言われた私の目がすうと細まって、視線が依里の身体を舐め回すのを、他人のように見ている感覚がする。

「そうね。依里君は私が大好きだもんね」

「……うん。だから、こんなのもうしたくない」

「違うでしょ? ほんとは私を独り占め出来て嬉しいんでしょ?」

 たじろぐ依里の表情を見逃さない。朧げな記憶を辿れば、あの青年に囚われた私を発見した依里は、顔を真っ赤にして幼い性器を膨らませていた。そうだ、少し思い出した。私の顔をきついと言ったのも、猫のような目だと言ったのも、あの青年だ。

「依里君は『憎い』って言ったけど、ほんとうは『おにいさん』が羨ましかったんだよね?」

「……」

「あの時、依里君、たってたもんね」

 わざと露悪的に笑いながら、依里の目の前に黒革の手袋の人差し指を立てる。目線を誘導するようにゆっくりと指を動かし、依里のジャージのズボンの縁に掛けると、彼の喉がゴクリと鳴った。

「ちがう……」

「ちがうの? ほんとに?」

 好きなんて生易しいものでは赦さない。子供の頃からどれだけ甚振っても私の後をついてきた訳を自覚して、同じところまで堕ちてきて欲しい。あの日のことを思い出すにつれ、自分の中に芽生えた黒い心が漏れださないように着けた手袋を、今は外してしまいたい。依里の隠した願望を暴きたい。

 依里は簡単に外せるはずの指一本で、磔にされた標本のように動けないでいる。答えないのが答えだ。私は再び彼に背を向けた。今度は追いかけてこなかったけれど、背中に刺さる視線だけはずっと感じ続けていた。


 月の前半降り続いた雨は上がり、体育祭の日は程良い灰色の雲と青空が混じり合っていた。自分の出る競技だけ出た私は、応援に参加することなく校舎に近いベンチに腰かけて、空を見上げる。教師にすら腫物扱いの私は比較的自由にさせてもらっているのだ。

 これから夏が近づいて影はいっそう短くなる。体育祭の終わりを告げるアナウンスが始まり、帰り支度をする生徒達が口々に互いを労いながら通り過ぎて行く。

 校庭の方から私のクラスメイト達もやってくる。そしてその一際騒がしい集団の中に、依里がいる。誰も私に声を掛ける子はいない。そう、そのまま通り過ぎればいい。

 だが依里は私の姿を認め、私にだけ分かる程度に口元をほころばせる。

「わりい、靴紐ほどけた、先行って」

 依里は私から離れた場所に膝をついて、前に向かって叫んだ。解けてもいない靴紐を結ぶ依里の前髪の陰から、焦がれるような視線を感じる。

 私は込み上げる笑いを堪え、手袋を直すフリで俯いた。長く伸びた夕方の影。前に出した足の影と交差する依里の頭をぎゅっと踏みつけにする。

 陶然と目を閉じる依里を目の端に捉え、私の意識は曇天と夕焼けの混じり合う空に浮かび上がる。そして、次の雨を心待ちにしている自分を遠くに眺めていた。

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