柔らかな手のひら(1)

 入院中にいすずちゃんと交わしたデートの約束。

 雨降って……じゃないけど、いすずちゃんとの始めての喧嘩。

 それから、私が彼女をかばって崖下に落ちてしまったあの一件が、結果的に私たちのお互いへの気持ちを再確認することが出来た。


 ただ……

 彼女との待ち合わせ場所である、施設から3駅ほど離れた駅のロータリー近くのコインパーキングに停めた車内で携帯を見ながら、私の心は千々に乱れていた。


 その原因は前日にゆっこ……親友の藤田優子と飲みに行ったときの会話だった。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


「いすずちゃんとデート?」


「うん、いすずちゃん今回の事で辛い思いをしたからさ。元気付けてあげようと思って。それに仲直りのしるしで」


 ゆっこから退院祝いと言う事で、私たちの行きつけの居酒屋「縁陣えんじん」にて飲み会を行っていたのだ。

 私たちは焼き鳥を食べて、私はビールを飲みながら。

 だが、ゆっこはなぜか頼んだ生中には手をつけず、ノンアルコールビールを頼み、それを飲んでいる。


「ふうん……」


「え? なんなの。そのどうでもいい、って感じの返事は。ゆっこだって、気になる人が居るって言ってたじゃん。なに、ビール飲まないのもそれが原因?」


「いや、そうじゃない。後、飲まないのは酔った頭で言いたくないからだよ」


 その飲みの場にふさわしくない冷静な言い方に私は酔いがスッと覚める気がして、思わず居住まいを正した。

 こういうときのゆっこはかなり、エネルギーのいる話をしてくる。


「楓はこれからどうするつもり? いすずちゃんの事」


「え? だから前も言ったじゃん。彼女が高校出るまで待って、一緒に住むって……」


「私が言いたいのはそれまでの事。彼女が施設を出るまでの後7年を楓自身といすずちゃん、二人をどうやって進めていくのか、って事」


「私の事は考えてない。だっていすずちゃん……」


 そう言いかけた所で、ゆっこが揚げ出し豆腐を食べた後の箸を向けた。


「なんで考えないの? 楓に何かあってもいすずちゃんは君を切り捨てて生きていけるの? 心情的にも社会的にも」


「え……」


「こんな退院祝いの場でごめん。本当にすまないと思ってる。でも……デートってさ……両想いで浮かれるのは分かる。でもゴメン。きつい事言わせてもらっていいかな?」


「……なに。私だって考えてるよ。周囲にばれないように。彼女を守れるように」


「本気で自分といすずちゃんを守ろうとしているなら……例えば私が楓なら、まず施設内ではいすずちゃんと最低限の接触にとどめる。挨拶や会話はするけどね。彼女にも言い含める。愛を囁きあいたい時は、施設の外出で二人だけで出かけたときか、月一回アパートに来てもらう。それも1,2時間以内。彼女が施設の周辺に居なくてもギリギリ怪しまれない程度。デートなんて問題外。だから実際、ホーム長にも特別な間柄って認知されちゃってたんでしょ? 言っとくけど、それって矢野ホーム長って人が二人の味方だったから。結果オーライだからね」

 

「そんな事……分かってる」

 

 私は視線を泳がせながら何とか言葉を搾り出した。

 

「楓はいすずちゃんの人生丸ごと背負わないといけない。ねえ『禁断の恋』って言葉……かっこいいよね。甘い響きもあるしさ。でも……そもそもなんで禁断なのか考えた事ある? 法律で禁止されてるのもそうだけど、あまりに危険すぎるからなんだよ。危険すぎて手を出すには怖すぎる。だから『禁断』にして警告してる。禁止されてるって事は、失敗した時に取り返しがつかないからそうラベリングしてるんだよ」


 ゆっこの不安げな視線に私は目を逸らしたまま、焼き鳥の串を箸でもてあそんでいた。

 密かに冷や汗が伝っている。


「施設職員と施設の子供。小学生の子供……同性の、との恋愛感情を孕んだ関係。そして、彼女にとって敵とも言うべき加害者男性の娘。彼女はまだ11歳。もう『ごめんね、今までのは無しで。明日から養護施設職員と入所の子供に戻りましょう』なんて言えない。最後まで……文字通り彼女の人生丸ごと支えきるしかないんだよ。で、失敗したら二人の人生終わり」


 私はゆっこに何一つ返すことが出来なかった。

 気が緩んでいたのかもしれない……

 

「……ゴメン、そんな泣きそうな顔しないで。心配なんだ。いすずちゃんもだし……楓の事も。やっと……乗り越えたんじゃないの? あの……お父さんとの事を。やっと普通になれたんじゃないの? あの日さ……高校の時に言ってたじゃん、泣きながら。『普通になりたい。静かに生きてみたい』って。楓にあんな顔、もうして欲しくないんだ。ねえ、やっと普通になれたんじゃないの、私たち」


「分かってるよ。ゆっこだけだもん……私から離れなかったのは。その時の事も覚えてる。ゆっこ一緒になって泣いてくれた。でも……じゃあどうすれば」


 ゆっこはノンアルを一口飲むと、私をじっと見ながら言った。


「いすずちゃんは……諦められないの?」


「……え?」


「楓がいすずちゃんと『施設職員と入所の子供。でも、ちょっとだけ仲が良い関係』であれば、問題ないと思うよ。いすずちゃんはバカじゃない。最初は泣くかもだけど、理解するよ。……ねえ、楓。恋愛はいすずちゃんじゃなくても……できるよ」


「……さっき『いまさら無かったことには出来ない』って言ってたじゃん」


「彼女をささえる事はね。それからは降りられない。でも恋愛関係じゃなくてもできる。例えば、楓が別のパートナーを見つけて、その人と一緒に彼女を支えるとか」


「……なにそれ。ゴメン訳わかんない」


 立ち去ろうとした私の背中にゆっこの声が聞こえ、振り向いた。


「一つだけ約束して。本当にいすずちゃんとの関係が危なくなりそうなら……その手前で教えて欲しい」


「言って……どうなるの?」


 ゆっこは何か言いたげに口を動かしたが、軽く首を振ると無言で手を振った。


 私はゆっこを置いてお店を出た。

 これ以上彼女の言葉を聞くことが怖かったのだ。


 ●○●○●○●○●○●○●○●○


 そして、ぐずぐずと迷った挙句いすずちゃんから届いた「明日楽しみにしてますね」と言うラインに「私も楽しみにしてる」と返して、後に引けなくなった。

 いや、後に引けないようにした。


 ゆっこは「いすずちゃんに火をつけた」と言ったが、火がついたのは私も同じだった。

 今更いすずちゃんのいない毎日なんて考えられない。

 彼女の代わりなんていない。


 でも……

 じゃあこれから彼女が最低限愛誠院を退所する18歳まで……隠しとおせるのか。

 

 そう。

 もし発覚してしまえば、私もいすずちゃんも全てを失う。

 いすずちゃんはまともな学校生活が送れなくなるし、施設も代わらされる。

 そこでも職員と恋愛していた……しかも同性と、の子供など好奇の目で見られる。

 

 私もそうだ。

 いや、私はその前に刑務所だろう。

 そして……彼女を失う。永遠に。


 そう思うと、訳も無く周囲を見回してしまう。

 刑務所はまだいい。

 でも……いすずちゃんを失うのだけは嫌だ。

 

 そう考えて、胸がギュッと痛んだ。

 そう。私はいすずちゃんのことを考えていない。

 自分、自分……


 そんな思いだけじゃない。

 彼女を守りたい。

 彼女を幸せにしたい。

 私の何と引き換えにしても彼女を幸せに……


 そう思いながらも、自分があの当時……お父さんの事が近所に広まった当時の自分のように、周囲に怯えているようになっているのを感じていた。


 私……何を。

 脳裏に浮かんだ当事の光景から目を逸らすように駅の方を見ていると、改札から小さな影が出てくるのが見えた。

 

 遠目でもすぐ分かる。

 私は自分の胸が学生のようにドキドキしているのを感じた。


 車に駆け寄ってきたいすずちゃんは黒のパンツと黒と白のチェックのミニワンピースを着てたけど、その格好が新鮮でついじっと見てしまう……


 緊張しながらドアを開けると、いすずちゃんはぺこりと頭を下げて乗り込んできた。


「おはようございます。遅くなっちゃった」


「ううん、全然。まだ10分前じゃん」


「でも、楓さんより先に着きたかったな。待たせちゃった」


「気にしなくていいよ。待ってる間、どんな格好で来るのかな……今頃どの辺りかな……って考えるのも楽しみなんだから」


「それ、私も一緒です」


 そう言って小首をかしげながら覗き込んでくる姿に思わず、ドキッとする。

 そして、ゆっことの会話やそれで感じていたどんよりした気持ちもどこかに行っちゃう様な気がした。


「どうしたんです? ビックリしたみたいな顔して」


「え? う、うん。いすずちゃん、最近すっごく大人っぽくなったな……って」


 いすずちゃんはちょっとポカンとした表情をすると、クスクス笑った。


「好きな人が出来たからですかね」


「え!? そうなの!」


 思わず大声を出した私にいすずちゃんはムッとしながら頬を膨らませた。


「楓さんに決まってるじゃないですか。他にいると思ったんですか?」


「え!? いや、そういう訳じゃ……」


「冗談です。ごめんなさい。私、すっごく昨日からワクワクしてて。なんかすっかり舞い上がっちゃってる」


「うん、私も」


 いすずちゃんの紅潮した横顔を見ながら、私はハッと我に返って周囲を見回しながら車を出した。

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