リアムとルーナの魔法事件簿
蒼海 悠
魔法使いの相棒
朝
なぜぼーっと過ごしている数分と、慌ただしく準備をしている朝の数分はこうも違うのかといつもリアムは思う。
案の定、目覚まし時計を止め損ねてしまった彼は、朝から多忙だった。
コーヒーを啜る時間もなければ、TVをつけながら新聞にゆっくりと目を通す時間もない。ベランダの植木鉢に水をやる時間もなければ、ベッドのシーツを干す時間もなかった。
唯一の救いは、昨日仕立て屋から引き取ったばかりの新品のスーツだけだった。
髪は相変わらずぼさぼさだ。さすがに整えている時間はないので、申し訳程度にささっとムースをつけて玄関そばの鞄を取る。
新品のスーツのポケットにはハンカチ、鞄には財布、必要な書類、万年筆、スケジュール帳が入っている。手首には時計も巻かれているし、顔を洗って歯磨きも終えたし、髭も剃ってある。
最低限のマナーは済ませたつもりだ。余裕に到着する時間はないが、忘れ物をしたり、不格好さで恥をかく方がまっぴらごめんだった。
「よし」
玄関の横にある鏡を眺めて、襟を整える。鏡の中の自分は、寝起きの自分とは大違いだ。仕事のできる高給取りにも見える。
「行ってくるぞ」
器のご飯をまだ食べている黒猫のトゥルースに声をかけて、急いで扉を閉める。
今日の深夜に小雨が降ったせいで、まだ地面が濡れている。滑りやすいアパートの廊下は危険だ。
小走りで急ぐが、隣のバーナード夫妻が置いている植木鉢を踏まないように、はたまた上の階のグラントさんとかの飼い猫が、踊り場の手すりで寝ていないか注意しながら、階段を駆け足で降りる。
アパートの扉から飛び出し、通りに出てようやく、リアムは今日の空が灰色の曇天であることに気づいた。
しまった、傘を持ってきていない。しかし、取りに戻る時間もないのでこのまま目的地へと足を急ぐ。
目的地は電車に乗る必要がない場所ではあるが、歩くと15分以上はかかる距離にある。バスは時刻通りに来ないし、渋滞のリスクを考えると走った方が確実だと思い、バスに乗るのはやめておいた。
リアムは仕事をしていなかった。
していなかったというより、できなかったのだ。
彼は去年に自動車事故に巻き込まれ、生死を彷徨っていた。事故に遭うまでは、郊外でペンキ塗りの仕事をて働いていた。
父親は早くに他界していて、今では母親が弟の面倒を見ながら仕事をしている。父親の残したお金だけでは賄えないので、母親とリアムの収入で家計を支えていた。
しかし、リアムは去年自動車に跳ねられて、半年以上も昏睡状態だった。
奇跡的に意識も回復して、五体満足で今こうして生きている。医師や看護師は、リアムの頑丈さに驚愕していた。無理もない。彼でさえも、自分の回復力には驚かされた。
医師によると、あの速度で撥ねられたのならば、即死するのが普通らしい。しかし、運動はもともと得意な彼の身体能力のおかげか(本人はまったく覚えていないのだが)、一時は昏睡状態には陥ったものの、軽傷だった。昏睡から目覚めたあとは、地元の新聞にも載ったぐらいだ。
しかし、彼が病院で寝たきりの間、薬代や入院費も全て母親だけの収入で支払われていた。
リアムの実家、グランシー家はあまり裕福な家庭ではない。
勉強の得意な弟を、いい大学に行かせるためには、そこそこのお金が必要だ。退院したばかりではあるが、すぐにでも仕事には復帰しなければならない。
勤めていたペンキ塗りの仕事は、いつ復帰するかもしれないリアムを早々に見切り、退職金付きではあったものの、解雇になった。
日常生活に復帰したあとは、すぐさま就職探しをすることになった。
重労働でも給料が悪くなければ、どこでもいいーー。
ずっと病院生活を送ってきたため、体力は完全にはまだ戻らないにせよ、数日のリハビリで感覚もすぐに戻せたし、多少トレーニングを積めば前のように完全回復することだろう。
新しく就職するならば、ペンキ塗りよりも賃金が高いところーー昔から体力には自信があるので、できるならばそれを生かせるところーー。
今日も職業相談所に行こうと通りを歩いている時の事だった。
突如として見つけた張り紙。
緑色の街灯に、それはあった。
その張り紙はとてもシンプルで、羊皮紙に黒インク以外の色はなく、写真やイラストもない。
~街の調査員募集!経験者、学歴不問!~
・あらゆる街や国にこだわりなく就ける者
・忍耐強く、体力がある者
・新しい常識や文化に抵抗がない者
・柔軟なコミュニケーション能力に自信がある者
簡単な事件や一般の方からの調査依頼のお手伝いをするお仕事です。
ご興味のある方は以下の事務所までご連絡ください。
日給は60ポンドから。(昇給あり)
採用後は正社員として活動していただきます。
XXX-XXXX-XXXX
ベルローズ事務所
その貼り紙が、リアムが今から向かう仕事先との出会いだった。
住所も書かれておらず、肝心の仕事内容はとても曖昧だ。探偵事務所のようなものなのだろうか。
怪しい宗教団体や慈善活動を装った詐欺グループの張り紙かもしれないとリアムは疑ったが、彼の心を掴んで離さない一文があった。
日給60ポンドーー。
たまらなく魅力的だ。
不景気のこのご時世、仕事に就くのもひと苦労。
こんな高い時給の募集は、見たことがない。
そして、ベルローズという名前にも見覚えがあった。地図でそれらしき地名を、見たことがある気がする。
話を聞きに行くだけでもいいかもしれないーー。
辺りを見回し、その貼り紙を剥がして鞄にしまい込み、踵を返す。
行くはずだった職業相談所のことは、もう頭になかった。
家に戻り、今さっき出かけたばかりなのに何事かと、ソファで寝ていたトゥルースが目をぱちくりさせた。
リアムは脱がないまま、テーブルに例の張り紙を広げ、もう一度じっくりと書かれている内容を読んだ。
これがよく見かける求人のーー例えばパン屋や服屋のチラシならば、仕事内容は誰に教わらなくとも簡単に想像がつく。
しかし、これは一体なんだ。
『簡単な事件や一般の方からの調査依頼のお手伝いをするお仕事です』
簡単な事件?警察がわざわざ担当するほどでもないぐらい、小さい事件のことなんだろうか?近所の子供がガムを一つ盗んだとか?恋人の浮気の証拠を集めるとかだろうか?
要は、探偵事務所のようなもの……?
眉間に皺を作りながらリアムは考えるが、分からない。すでに15回は張り紙を読み返した気もする。
「ええい、電話だ電話!まずは話を聞いてからだ」
すぐさま受話器を取り、勢いに任せてダイヤルした。
とりあえずこちらから色々と質問する。怪しいと思ったら、断りを入れて切ればいい。不審さが見当たらなければ、考えればいい。
人と話すのは得意なはずなのに、リアムの心臓はこの時高鳴っていた。
電話はなかなか取られなかった。
今日はやっていないのかと、思い始めた時だった。
「はい、ベルローズ事務所です」
明るい男性の声がして、どきりと心臓が高鳴った。
「あ、あの!こちら張り紙を見てお電話した者なのですが!」
スマートに言う練習でもしておけばよかったと後悔したが、相手は何も気にしていない様子だった。
「わわ、お電話ありがとうございます!うちのお仕事にご興味がおありということですね?」
ずいぶんと若そうな青年の声だった。もしかすると、雇われたアルバイトの未成年かもしれない。
「え、ええ!そうなんですけど……ただ仕事内容とかが具体的ではなかったので、もっと詳しくお聞きかせいただきたくて……」
「構いませんよ~。チラシにはあえて詳細を省いているんです。冷やかし防止のために、お電話である程度お話をした後に、ご案内する形をとっています」
今、この瞬間にも審査は始まっているのかーー?
リアムは顔が青ざめていくのを感じた。受話器を掴む手に冷や汗が出てきた。
「あはは、あまり固くならなくて大丈夫ですよ。私は面接官ではありませんし、これも面接ではないのでご安心を!冷やかしでかけてくる方がたまにいるので、その防止のためです。あなたに関する質問をこれからしますが、10分程度のお時間よろしいですか?」
「はい…」
面接では無いと相手は言ってはいるが、挙動不審だと判断されると、その面接にすら進めないということになる。リアムは身構えた。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「はい。リアム・グランシーです」
「グランシーさん、ね。生年月日は?」
「19XX年の7月8日です」
「現在22歳の方ですね?」
「はい、そうです」
「現在、お仕事はされていますか?」
「いいえ今は。少し前に塗装の仕事をしていました」
「……なるほど、分かりました。ところで、どういう経緯でうちの事務所をお知りになりました?」
「クロック通りにある街灯に、張り紙がしてありました。それを先程見つけて……」
「クロック通りに、ですか……。分かりました」
少し相手が押し黙るので、リアムは何かまずいことでも言ったかと焦る。しかし、そんな心配は杞憂に終わった。
「そこでチラシをご覧になって、お電話してくださったのですね、ありがとうございます!ところでリアムさん、コミュニケーションには自信はありますか?」
違う方向からの質問で少し戸惑いつつも、
「ええ。人と話すのは得意だと思います。学生時代には花屋のアルバイトもしていましたし、ボランティアで家庭教師もしていました。人と話すのは好きですし、得意です」
と、我ながら完璧に回答できたと思う。
「それはよかった。うちは誰かと必ず仕事をするので、そういった経験があると助かります」
「分かりました。ちなみに調査員というのはどういうお仕事をするので……?」
「ああ、それはですね」
電話越しであるものの、笑顔が分かるほどのトーンで男性は答えた。
「うちは探偵事務所なのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます