賞味期限の切れた魔法《3》

《数分後》


 夜とはいえど、まだ二十時手前。

 本来であれば多くの店がまだ営業している時間であったが、町は昼間のあの様子だ。客の見込みもない状態で、営業を続けている健気な店はほとんど無かった。



「……ああ、本当に嫌な臭いだね。そろそろ本格的に甘いものが嫌いになりそうだ」



 宿を出て早々、ヴィクターはそう言って鼻をつまんだ。

 フィリップの掛けた魔法のおかげで昼間ほどの気持ちの悪さは感じないものの、それでも町の至る所から香る煮詰めたジャムの臭いは頭痛を起こさせる。

 この臭いがわずかにも自分からもしているのだと思うと、今にも彼は倒れてしまいそうだった。



「ヴィクター。お昼の時みたいに気分が悪くなったら、今度こそすぐに言ってね。あんな生きた心地のしない思い、もうしたくないから」



 クラリスが釘を刺すようにそう言うと、電柱の上のカラスが賛同するように『ガァ』と一声鳴いた。



「分かってるよ……もうキミとアレフィリップがゆっくり話をする機会なんて作りたくないからね。それよりクラリス。地図の方向は?」


「あっちの方。広場を越えた所だから、エイダちゃんが向かっていった方向とも合ってる」



 クラリスが手にしていた地図によれば、目的地は町の中心を逸れた郊外にあるらしい。

 三角屋根の家のイラストの上には、大きな矢印と可愛らしいケーキやクッキーといったお菓子のイラストが描かれていた。歪な地図と比べて、こちらは何度も練習して描いたことがよく伝わってくる。


 ――エイダちゃん、本当にお菓子が好きだったんだろうな。


 それだけに、今回起こってしまった事件は残念に他ならない。



「……ねぇ、ヴィクター。アナタが知るはずもないっていうのは百も承知だけれど……それでもエイダちゃんに会う前に、アナタの考えを教えて。あの子に魔法を教えた魔法使いは、どうしてそんなことをしたのかな。だって、魔法を覚えた人間が他の人に迷惑をかけちゃったり、いずれ魔獣になるのを知っていたなら……そんな酷いこと、普通はできるはずないよね」



 クラリスの問いかけを聞いたヴィクターは、少しの間黙っていた。そして――



「……それは、だ。単純に、彼女の夢を叶えてやるためのツールに魔法が最適だった。だって手っ取り早いだろう。魔法が使えるだけで、夢が叶うんだ。無駄な努力も、挫折も、味わう必要がなく幸せになることができる」



 彼は予測、憶測という言葉を使うこともなく、ハッキリとそう言い切った。

 まるでその言い方は、実際にヴィクターが見聞きしたかのようだった。

 公にはされていない、魔導士について知っているくらいである。過去にもエイダのような人間を見たことがある口ぶりだったことを考えれば、そう不思議なことではない。あるいは――



「もしかしてヴィクターは、エイダちゃんを魔導士にした人を知ってるの?」


「……心当たりは、ある。だが、それが合っているのかは分からない。だってアレはワタシが――」



 そこまで言うとヴィクターは息を呑んで、先の言葉を口にすることはなかった。



「えっと、ヴィクター? どうしたの?」


「なんでもないよ。確証のない話は好かないと言った手前だからね。余計な話でキミを混乱させるわけにはいかないと思っただけさ。ほら、広場を通っていくんだろう」


「あっ、うん。……ちゃんと分かった時には、話してくれるんだよね」


「ああ」



 返事はほとんど意味をなさない音だった。

 気がつけば広場の前まで歩いてきていたらしい。珍しくズンズンと長い足を活かして歩くヴィクターに置いていかれないよう、クラリスは慌ててその背中を追った。


 ――すごく静か。昼間の様子が嘘みたい。


 昼間に訪れたあの広場には、当たり前のように誰もいなかった。

 地面に吐き出されていた誰のものかも分からぬジャムも、あのまま大衆に平らげられてしまったのか、はたまた事務的に片付けられてしまったのか。跡形もなくなっていて真相は分からない。

 エイダがワゴンを押していった方へ向かっていくと、レンガと砂の地面の境目に薄いわだちが残っていた。タイヤが段差を降りた時に付いたのだろう。



「こっちで間違いないようだね。クラリス、地図ではあとどれくらいで着くのかね」


「さすがに距離感までは分からないけど……もうすぐだと思う。エイダちゃんだけで、あのワゴンを遠くから運んでくるのは難しいだろうから」


「そうかい。……ん。ジャムの臭いが強くなってきた」



 ヴィクターが鼻をスンと鳴らす。すっかり鼻は慣れてしまったが、それでも脳を突くほどに強烈な臭いくらいはさすがに分かる。

 広場を出ると、営業をしている店はもうまったく無くなった。それどころか、明かりが点いている建物すらひとつも無い。


 これがただの夜の散歩であったならどんなに良かっただろう。

 様子のおかしかった人々。真っ暗の窓。人気のない静かな町。むせ返りそうな甘い臭い。不安を煽るのにこれほどピッタリなシチュエーションはなかなか無いだろう。



「ヴィクター、見て。あの家だけ電気が点いてる」


「どうやら……あそこがエイダくんの案内したかった場所みたいだね」



 そう遠くまで行かないうちに、クラリスが前方を指さした。

 ポツンとひとつ。人の気配を感じることのできる建物がようやく現れた。

 それはごく普通の家で、工場のような大きさもしていなければ、お屋敷のように大きな庭があるわけでもない。ずっと通り過ぎてきた建物となんら変わりはない、ただの家なのだ。

 だが、クラリスがこの場所が異様な状態であると気づくまでに、そう時間はかからなかった。



「――なに、これ」



 そう呟く彼女の足元で、ピチャリとジャムが跳ねる。うっかり踏んでしまったからだ。うっかり踏んでしまうほどの、まるで水溜まりのようなジャムの塊が、そこら中にできている。

 特に気になったのは壁だ。赤い手形――おそらくこれもジャムだろう。ホラー映画のようにびっしりと壁に付けられた手形が、この家にやって来た人々がなりふり構わない様子で群がっていたのだろうということを物語っていた。



「Hmm……周辺に人の気配は感じないが、中にいるのだろうか。たしかにこんな場所が近所にあっては、付近のまともな人間は警戒して町を離れてしまっているだろうね」


「それなら警察とかが来ててもおかしくないと思うけど……そうか。昼間の騒ぎの時も、警察や役場の介入は無かったもんね」


「さすがクラリス、よく覚えていたね。もはや行政は機能していないだろう。あのクッキーが出回れば出回るほど、ねずみ算式に被害は増えていく。バカは茶菓子にあのクッキーを出されたとて、毒だと疑うことはまずないさ」



 その時、ヴィクターの靴底でジャリとなにかが砕ける音がした。クッキーだ。彼の体重で粉々になってしまったサクサクのクッキーが、無惨にもジャムの海と一体になっている。

 ヴィクターは数秒間そのクッキーのに目を向けた後、何事もなかったかのように視線を前に戻した。



「早いところケリをつけて帰ろう。ワタシも一刻も早くこの体質とはおさらばしたいからね」


「フィリップさんに治療してもらったのに?」


「だから嫌なんだよ。そもそも完治したわけでもないし」



 分かりやすくヴィクターがムッと口を尖らせる。


 ――フィリップさん、私には良い人そう見えたけどな。二人の間になにがあったのか聞いてみたいけど……なんだか上手くはぐらかされそうな気がする。今はとにかく、エイダちゃんのことに集中しよう。


 クラリスがそう思った矢先のことであった。

 軽快な音と共に、玄関の鍵が開いた。この静けさだ。大声で話さずとも中まで彼女達の会話が聞こえていたのだろう。



「誰かと思ったら、お兄さんにお姉さん! 嬉しいです。まさか本当に来てくれるなんて!」



 聞き覚えるのある、少女の声。

 ドアを開けた矢先。そう嬉しそうに声を張り上げたエイダは、体格に不釣り合いな大人用のエプロンを着て、二人の訪問を心から喜んだ。

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