東奔西走ジオメトリック《7》

《同時刻――とあるパイプの中》


 場面は変わり、クラリスが穴へと落ちていった時のこと。

 彼女はどこまでも続くパイプの中を、止まることなく滑り続けていた。



「いたたたた! ちょっとこれ、いつまで落ちるのよぉ!」



 クラリスと一緒に落ちてきた床材がいい具合にクッション――いや、ソリのようになっているためか、滑りは上々。もしもこれが無ければ、今頃摩擦で彼女のお尻は無くなっていたかもしれない。

 しかしそれでもぶつかる頭や手足を守ってくれるものはなにもなく、クラリスはパイプのあちこちにぶつけた体を労る暇もなしに、流れに身を任せることしかできなかった。


  終わりが訪れたのは突然で、勢いづいた彼女はパイプが途切れると同時にポイと出口から投げ出された。



「あだっ! ……うぅ、よ、よかった……このまま終わらないかと思った……」



 クラリスは起き上がって早々に、くるりと辺りを見回した。見た目はヴィクターと通った通路と同じだが、おそらく初めて来た場所だ。


 ――距離的にかなり降りてきたと思うけど……もしかして地上? さすがにここからまた上がるのは無理よね。ヴィクターのことだから、私が落ちたことはもう分かってるはず。ここで待ってた方がいいのかな……


 下手に動いて離れ離れになるのはまずい。そう思ってクラリスはしばらくヴィクターが降りてくるのを待っていたのだが――



「……来ない、な。もしかして、上でなにかハプニングがあったのかも」



 待てど暮らせど彼は来ない。

 考えられるとすれば、自分が落ちた後に蜂人間達に見つかってしまったとか、だろうか。


 ――もしもそうなら、早くヴィクターの所に……ううん。私が戻ったところで足でまといになっちゃう。それなら私は私で、今できることをやらないと。


 どうせ上る手段も無いのだ。

 クラリスは意を決して、この場所を探索することにした。


 ――ここ、私達が通ったところよりも道が広い……魔獣が頻繁に行き来するところなのかな。


 だとすればかなりの注意を払って、先に進まなければならない。

 チラリと横道から顔を出して、付近の様子を観察する。



「……誰もいない」



 むしろ泳がされているのではと疑ってしまうほどに、辺りには気配も物音も一切感じられなかった。

 全員どこかに出払ってしまったのだろうか。


 ――今がチャンスかも。誰もいないうちに村の人達を探そう。なにか手がかりがあるといいんだけれど……


 通路を壁伝いに進み、痕跡を探す。

 右に進めばいいのか、左に進めばいいのか。そんなことは分からなかったので、勘で右を選んだ。そちらの方が光るキノコが多く生えていて、なんとなく明るかったからだ。



「あれ。あそこにあるの……血? 奥まで続いてる……」



 少し歩いていると、クラリスの視界の端になにかが映った。

 それは地面に染み込んだ血痕であった。これと同じようなものを最近どこかで見ている。たしか……森の中。蜂人間と出会う直前に、ヴィクターが見つけた村人のものと思しき血痕だ。



「まさか……!」



 クラリスははやる気持ちを抑えきれず、血痕を追いかけて走り出した。

 点々と、彼女を誘うかのように等間隔に地面を汚す茶色い痕跡。この間もやはり、蜂人間の姿は一体たりとも見かけることはなかった。


 ――あそこだ!


 通路の先に、黄色い光が溢れている。それに気づくと同時に鼻につく甘酸っぱい香り。蜂蜜のようだが、少し違う。



「なんなの、ここ……?」



 そして、たどり着いた先。

 その小部屋は、今までクラリス達が見てきた部屋や通路とは、また違った異様な雰囲気を放っていた。

 部屋の中は壁一面が黄白色のナニカで覆われている。ナニカは粘度があるのか、上から下へと流動するのはゆっくりで、これがこの甘酸っぱい匂いの原因となっているということはすぐに分かった。


 クラリスの目の前すぐには木でできた柵のようなものがあるが、これはどちらかといえば境界線のようにも見える。足を上げれば簡単に跨ぐことができて、床に溜まったあの黄白色のナニカが外に漏れないように塞き止める役目をしているらしい。

 そして彼女が一番目を疑ったのは、そこに座り込むの存在である。



「んん? あれ……君、どこから入ってきたんだい?」


「どうしたんだ、ベン? ……ああほんとだ。村から助けに来てくれた人……ではないみたいだけれど」



 なにやらそう話していたのは、ほうけた顔をした若い男達であった。

 部屋の中に、十人以上。異常なほどに腹が膨れ上がり、水風船の上に頭が乗ったかのような男達が、言葉を失い立ち尽くすクラリスを不思議そうに見ていたのだ。

 ベンと呼ばれた男も顔だけ見れば普通の人間に見えるが、どう考えたとしてもあの体型は普通に生活していて、あんなにも局所的になるものではない。

 ましてやここにいる全員がそうであるなら、なおさらだ。



「わ、私……ニコラスさんから魔獣の話を聞いて、皆さんを助けに来たんです」


「叔父さんが? 助けは嬉しいけれど……こんな女の子一人を寄越すだなんて、いったいなにを考えているんだあの人は」



 そう言ったのはベンだ。どうやら彼はロブソン夫妻の親戚にあたるらしい。

 自分のことを助けに来た人間だと認識してもらえるのであれば、話が早い。

 ここから彼らを外に連れ出して、村まで送り届ける。あとはヴィクターと無事合流することができればオールクリアだ。怖気づいてたまるものか。



「ここには私ともう一人で来ているんです。でも皆さんを探す途中ではぐれてしまって……この部屋に着くまで誰にも会いませんでした。もしかしたら彼は今、蜂にん――魔獣達を引き付けて、逃げる時間を作ってくれているのかもしれません。今なら逃げられます。だから早く、一緒に村に帰りましょう!」


「おお、そうか。それなら早く脱出を……と言いたいところなんだけどなぁ」


「えっ?」



 思ってもいなかった回答に、クラリスは面食らってしまった。

 躊躇った? 彼らとて、一刻も早くこんな場所からは離れたいはずだ。ましてやあの異常ともいえる人体の膨張が起きている以上、蜂人間達によってなにかされているというのは確実。逃げない選択肢があるというのだろうか。



「いや……帰りたい気持ちももちろんあるんだけれどねぇ。ここを動く気力も起きないんだよ。こんなだろう? 今までは魔獣が見張ってて出られなかったっていうのもあるけれど、いざ逃げられるとなると……あんむ。……んん、重い腰が上がらなくてねぇ」


「ひっ。ベン……さん? それ、なにを食べてるんですか……?」



 クラリスはサッと顔を青ざめさせて、ベンに問いかけた。

 彼女が聞いたのは、彼が今しがた話の途中で手で掬って口にした――この、壁や床一面を覆う黄白色のナニカについてである。

 こんな魔獣の巣の天井から緩やかに落ちてくる謎の物体、口にしようなどと普通は思うだろうか。

 しかしベンから返ってきた答えは、さらに彼女を困惑させることとなるだけだった。



「僕らもよく分からないんだ。でも……ほら見て。ここ、あの魔獣に刺された所なんだけれど、このドロドロを食べたら傷が塞がったんだ」


「そうそう。それにここ、他に食べるものも無いからね。しばらく食べているけれど、特に体調におかしなこともないし。退屈なこと以外は不自由していないんだよ」


「特におかしなことも、ない……? 冗談ですよね……?」



 ベンが嫌に伸びたシャツの裾を捲り、その隣の男が何度も頷く。

 傷が塞がったなどと言う彼らの話を「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしてしまいたかったが、カサブタとなり痛々しく残った傷痕が、これが嘘偽りのない話だということを証明している。

 彼らの会話は、まさにこの空間に毒されてしまった人間そのものの会話だ。これが冗談ではなくて、なんだというのだろう。


 そこでクラリスは、この部屋の入口――彼女の足元にあったあの小さな柵が、正真正銘床に溜まったあのナニカを塞き止める以外の役目がないのだということを知る。

 疑問には思っていた。跨げば通れるような、こんな柵に意味はあるのか。その答えは、無い。なぜなら中の生物達には逃げる意思が無いからである。


 ――まさか誰も動かないだなんて。いったい、どうすればいいの……?


 ヴィクターの安否も確認できず、ついに見つけた救助者達はこちらの言うことを聞く様子がない。

 クラリスはただひとり、黙って目の前の光景を見ていることしかできなかった。

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