東奔西走ジオメトリック《5》
クラリスが、目の間を通り過ぎていった。
そのまま彼女が闇の中へと消えてしまった後も、ヴィクターはただその場で呆然とするしかできなかった。
もちろんしっかり掴むことができなかった自分にも落ち度はある。だが、どうして彼女はあんなにも高くまで飛んでいってしまったのか。それは乗る時に強く踏み込むなり、ジャンプして飛び乗るなりでもしたのだろう。
あんなにも物体を跳ね返す力が、あのキノコにはあると分かっていたというのに。
――計算上では、ちょうどこの辺りで勢いが収まるはずだったのだが……さて。どこかで着地するか引っ掛かるかなんてしていないかぎりは、そろそろ落ちてくる頃だと思うけれど……
「……ん。来たね」
そんなことを考えている間に、暗闇の中をなにかが降ってきた。間違いない。クラリス本人である。
「――いやああ! たすけてヴィクター! おちちゃう、おちちゃうよぉ!」
「まったくキミという人間は……こういうおっちょこちょいはワタシの前だけにしたまえよ……!」
ヴィクターがステッキの
すると彼の目の前に現れたのは、この穴を塞ぐほどに巨大なプロペラであった。
くるくるとさらにステッキを回すと、それに応じてぐるぐると回転しはじめるプロペラ。ぐるぐる、ぐるぐると回るにつれてその勢いは増していき、やがてその回転の先に上昇する突風を吹き上げた。
「ちょっと、その大きいのはなに――わぁぁ!」
瞬く間に発生した突風がクラリスの全身を押し上げ、バランスの取れない彼女は空中でどうにか両腕を広げることで一身に風を受け止める。
そのおかげか、目に見えて落下速度が緩やかになり、ようやくクラリスの思考の端にわずかな余裕が生まれた。
周りに掴めるような場所は無い。もちろん足場すらである。仮にあるとすれば、それはこの
「クラリス、そのまま壁を蹴ってこっちに! 絶対に受け止めるから!」
「し、信じていいのね!? それじゃあ……遠慮なくいくわよ!」
それほど大きな穴ではない。頑張って足を壁まで伸ばして、少しでも体を地面と平行にすれば――足先が届いた。
「とりゃあ!」
クラリスが思い切り壁を蹴りつける。
広げていた腕を前に伸ばし、指先が旋風の外へと突き抜ける。頭が出ると詰まっていた息が楽になり、体が飛び出せば重力が彼女をヴィクターの元へと導いた。
「ヴィクター! お願い!」
「ふふん、任せたまえ。キミ一人くらい、華麗にキャッチしてみせ――ぶっ」
クラリスを受け止めたヴィクターからは、彼に似合わない異音が発せられた。
華麗にキャッチしてみせると言った手前、無様な受け止め方はしなかったものの――上から一人の人間が落ちてきているのだ。いくら風で勢いを殺そうが、実は自信がなくてこっそり筋力を強化する魔法を使おうが、その質量を受け止めるのは簡単なことではない。
つまり彼は、受け止めたクラリスもろとも、そのまま後ろに倒れてしまったのだ。
「うっ……ありがとう、ヴィクター……アナタは命の恩人よ……」
「……」
「ヴィクター?」
「……クラリス。そこ、よけて……」
「えっ? ――あっごめん! 重かったよね。今避けるから」
二人共どこにも怪我なく無事だったことは、奇跡といえよう。
役目を終えたプロペラは淡い光の粒となり、空気中に溶けて消えていく。
――ヴィクターには迷惑かけちゃったな。次からは気をつけないと。
クラリスがヴィクターの上から退いて立ち上がる。
だがそれにも関わらず、彼は身動きもせずに両手で顔を覆い黙ったままだった。
「どうしたの? もしかして、今のでどこか痛めちゃった……?」
「ううん……どこも痛くないし、キミは羽根のように軽かったから。なにも気にしないで……」
ヴィクターは小さく首を振ると、サッと起き上がって乱れた襟元を正した。薄らと赤くなった耳元は、このわずかな光量の下では暗くて誰にもバレはしない。
立ち上がって彼女の隣に並んだ頃には、彼はいつものヴィクターへと戻っていた。
「それじゃあ行こうか。ここから先はもう、完全に魔獣の巣窟だ。くれぐれも行動には気をつけて」
「分かった」
クラリスが通路の奥に目を向ける。一方でヴィクターが視線を落としたのは、自身の両手だ。
――クラリスの重み……
正直に言えば、すごくいい匂いがした。
それこそ今自分の後ろで遅れて上がっている小さな照れと嬉しさの入り交じった花火が、彼女に見られていなくて本当によかったと思えるほどである。
彼は一瞬、抑えきれずにもにょりと口の端を上げたものの、すぐに取り繕っては先導するために彼女の前を歩きはじめた。
「この道、他にも色んな場所に繋がってそうな通路がたくさんあるのね……。村の人達の手がかりが見つかればいいんだけれど」
「そうだね。部屋ごとに識別できるプレートでもあればいいが……まぁ、見た目は人間に寄せていても、アレらもそこまでする知能は持ち合わせてないだろう。食料庫ならば入り組んだ場所にも造らないだろうしね」
「ヴィクター、その食料庫って決めつけるのはやめて。縁起でもないから」
「Um……そうかね。牢屋があるという方が、ワタシは不自然だと思うけれど」
するとピタリとヴィクターの足が止まった。
この細道に聞こえるのは、自分とクラリスが地面を踏みしめる音。それに混ざって、前方から羽音が聞こえる。
「クラリス、いったんそこの陰に隠れよう。蜂人間が来てる」
素早く
数秒後、彼が言った通り二人の近くを一体の蜂人間が通り過ぎていった。
魔獣は二人のいる通路の、またその隣へと入っていったらしい。壁の向こうで地面に降り立ったのか、ドシドシと重量感のある足音が聞こえてくる。
「……アレが戻ってくる前に、急いで先に進もうか。他にもまだいると思うから、少しでも気配を感じたら教えてくれないか」
「うん。ヴィクターの後ろは任せて」
コソコソとそう会話をして、念のため外を確認する。
付近に蜂人間がいないことを確認したヴィクターは、クラリスに合図をして横道を抜け出した。
――どうか、このまま誰にも見つからないで終わりますように……!
思わずクラリスは胸の前で両手を組んで、たいして信仰もしていない神とやらに向けてそう祈りを捧げた。
先ほどまではドタバタやっていたせいか、こうして再びあの巨体を間近で見ると、嫌にも口を閉ざして現実を見てしまう。むしろ耳に残ったあの羽音が、今も真後ろに魔獣がいるかのように錯覚させてくるみたいだ。
今はとにかくまっすぐに。クラリス達はいつ襲われるかも分からない、薄暗い巨大な巣の中を歩き続けた。
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