地平に吹く風

明るい新月

プロローグ

 短い夏が終わると、すぐに長い極寒の季節がやってくる。 


 夏が終わってからまだ一月しか経っていないにも関わらず、既にイースハイムのフィエル凍村は三日に一度吹雪に覆われる。


 村にあるエイリクの家はとても寒さを防げるように見えないが、体に毛皮を巻きつけ火を焚きながら寒さを堪えていた。


 イースハイムにある山脈や洞窟に暮らす氷人や山人にとっては、この程度の寒さはどうということはないだろうが、人間である村に暮らす人々にとっては、辛い季節が続く。


 毛象の干し肉をしゃぶりながら、吹雪が明けた日に山草を採りに行く。そんな生活を冬が終わるまで続けなくてはならない。


 狩猟者である父の淡い刈安色の髪と、母の碧眼を受け継いでいるエイリクの容姿は森人のようにも見える。


 父は村で最も狩りの成果を挙げ、村の長として村の狩猟者を率いて、冬にも定期的に狩りに向かう。


 母は冬の最も寒い時期でエイリクを出産したため、体力の持つことなくそのまま亡くなった。


 エイリクが村にいる他の人間よりも優れた五感を持っているのは、父の狩りについて行った時に初めて知った。


 父の狩ろうとしている馴鹿が逃げた先を、匂いと音で瞬時に判別することができた。


 父にそれを伝えると、狩った馴鹿の肉をいつもより多く分けてくれた。


 それ以降、たまに父の狩りについていき、逃げた獲物を見つけるのに一役買っている。


 屋根に小さくついた窓から外を見ると雪が積もり、ごうごうと風が吹いている。


 熱を逃さないために地中に埋めるように作られた家のため、屋根に雪が大量に積もっており、屋根がみしみしと軋んでいた。父はいつものように、その雪を払うために外に出た。


 エイリクは父の使う弓の手入れを始める。


 弦が摩耗を始めていて、擦れて切れ込みが入り、弓柄も水分で少し曲がっている。


 山人の使うような重い弓ではないが、年季の入った人間には良く合う弓であった。


 外から猟犬の唸り声が聞こえる。喧嘩でもしているのだろうか。


 そんなことを考えながら黙々と手入れをしていく。




 「どんどん積もっていくな、これじゃ来月には外に出られなくなる」




 エイリクの父が戸を開けて、家の中に外の冷たい空気が流れ込む。




 「父さん、僕がやろうか?もう歳でしょ、腰を痛めるよ」




 「まだそんな歳じゃないよ。それにお前はまだ小さいんだ、外に出て一人の時に雹狼なんかに襲われたらどうするんだ」




 「でも、僕なら襲われる前に家に戻れる」




 「そうかもな、でも危ないからダメだ」




 まだ十になったばかりのエイリクでは、もし雹狼に捕まればなす術なく巣まで運ばれてしまうだろう。


 エイリクは焚き火に手を翳しながら暖をとり、外から入って来た空気に凍えないようにしている。


 鶸茶の衣に身を包んでいる父は、エイリクを説得すると腰を下ろし、息子に倣って暖を取る。


 体が温まると、台の上に置いてある短刀で毛象の肉を切る。


 二週前に狩ったはずの毛象は、他の家に分けていることもあり、もう一塊しか残っていなかった。


 また狩りに出なければならない、とエイリクは思う。


 だが夏が終わって以降の狩りには一度も出たことがない。




 「狩りにエイリクは連れて行かないからな、雪の積もった中だとエイリクは足手纏いになる。その代わり家で自分の弓でも作ってな」




 父がエイリクの考えていることを読み取ったようにそう言った。


 橇を履いたところで、エイリクの小さな体ではあまり進めないだろう。それでは雹狼に襲われても、エイリクの父は助けられない。雪の中であれば確かにエイリクは父について行くべきでない。


 エイリクの頭でもそこまでは理解できた。




 「でも父さん。僕ならどこから雹狼が来るかもわかるし、馴鹿がいる場所もわかる。手助けできることはあると思うよ」




 エイリクは父にそう言った。


 姿を見せない雹狼や、馴鹿の居場所を目で見ずとも探し出す。エイリクの鼻と耳であればそれも可能だ。




 「それでもダメだ。もし雹狼に襲われた時父さんはエイリクを守りきれない。家に残っていてくれ。それにエルドレトレに祈りを捧げてから行くんだ、ヴォクテル様が守ってくれる」




 フィエル凍村の中央にあるストーサーレンという建物の中庭に、何代も前から守り継いできたエルドレトレという大樹がある。


 フィエル凍村では、その大樹に眠るヴォクテルに祈りを捧げ、村の平穏を願って来ていた。


 極寒の地にある小さな村々では、そのような土地神信仰によって村の団結を高めている。


 外を見ると吹雪が収まっていた。


 それを確認したエイリクの父は、弓と短剣、干し肉を二切れ用意し、戸を開けて外へ出ていく。


 父と入れ替わり、凍えるような空気が先ほどと同じように家に入ってくる。


 父がストーサーレンに向かったことを確認すると、エイリクは厚手の毛皮を羽織り、外に出た。


 父に見つからないようにエイリクが追いかけると、村の狩猟者がストーサーレンに集まり、祈りを捧げているのが見えた。




 「祈るならヴォクテル様にこの吹雪を二度と来なくしてくれ、ってお願いすればいいのに」




 そんなことを呟きながらエイリクは木に隠れる。


 エイリクにも、なぜいつもは追いかけないのにも関わらず、このように父を追いかけているのかわからない。


 だがこの日は冬の狩りを自分の目で見てみたいと思った。


 粉雪を孕んだ風がエイリクの頬を撫で付ける。


 極寒の中で生活する狩猟者の村、フィエル凍村。エイリクはそれを誇りに思っていた。


 同じように誇りを持つものだけが、この村に残り住み続けている。




 「とりあえず、いつも通り毛象か馴鹿を狩ろう。狩った獲物はみんなで山分けだ。俺が先頭を行く、後ろの奴らは雹狼や霜熊に気をつけてくれ」




 エイリクの父がストーサーレンに集まっている村の狩猟者達にそう指示をしている。


 父が率いているのは十四人。皆、厚着の上からでも筋肉があることがわかるほどの屈強な狩猟者達である。


 準備を終え、列を組み終わると、蒸留酒を一杯喉の奥に流し込む。


 極寒の中で作業する時、体が冷えないよう、村の者は皆蒸留酒を飲む。


 エイリクはまだ酒が飲めないため、家で生姜茶を飲んできていた。




 「よし、行くぞ」




 父の掛け声で狩猟者達が出発する。


 弓が八つに、槍が七つ。それが村のすぐそばにある森へと入っていく。


 エイリクも自作していた橇を確かめ、後に続いた。


 歩くと雪がギシッという音を立てて固まり、その音が閑散とした森に吸い込まれていく。


 木の枝々には雪が積もっており、ドサッという音と共に雪が落ちる。


 木々の生い繁る美しい銀世界の中、エイリクは進んでいく。


 灰色の穹窿を鷲が飛び、雪の中を歩く兎を探している。


 視界の隅を山猫が走り抜ける。


 狩猟者達はそれを捕まえようとせず、毛象や馴鹿の痕跡を探している。


 雲に隠されどこに陽があるか分かりづらいが、おそらく南中を少し過ぎたあたりであると考えられる。


 風に表層の雪が浚われ、そのまま揺蕩うように運ばれていく。


 生まれてからずっとこの地で暮らしてきたエイリクにとってそれは、失い難い故郷であった。


 唐突に前にいる狩猟者達が騒がしくなった。


 耳を澄ますと、雪を踏み締めながら逃げていく音が一つ。


 足音があまり大きな者でないことから、屈狸であると思われる。


 びゅうと矢の音が聞こえてすぐ、屈狸の足音は止まった。




 「よしっ」




 前から声が聞こえてきた。


 恐らく誰かが矢で仕留めたのだろう。


 だが屈狸一匹では山分けするどころか、一家庭を二週間も持たせることができない。


 木から顔を出すと、ヴァーレの父が屈狸から矢を引き抜いて雪で脂を落としている。


 エイリクはもう一度耳を澄ませる。毛象どころか馴鹿の足音も、一向に聞こえる気配がない。


 既に村から一刻は歩き続けている。獣達は賢い、狩られることを覚え村から離れていった可能性もある。


 しかし少なくとも一週前にはいた。


 であればまだ遠くへは行っていないはずだ。




 「もう少し探そう、あと一刻歩いていなかったら一旦村まで戻ろう」




 エイリクの父がそう言った。


 狩猟者達は、また獲物を求めて歩き出す。


 静かな森に雪を踏み締める音だけが響いている。


 暴風が雪を巻き上げる。その一瞬でエイリクは父達を見失った。


 音は聞こえているが、風の音と紛れているため向きがはっきりとわからない。


 風に体が拐かされそうになるが、橇をしっかりと踏み込み、音がかすかにする方へと歩みを進める。


 暴風は三分ほどであったにも関わらず、エイレクは父達の音すらも完全に失った。


 酷く冷たい空気がエイリクを包んでいく。


 首に巻いている襟巻を深くし、腰に提げていた水筒から生姜茶を体に流し込む。


 足の指はまだ凍傷になっていないが、もう二刻も歩き続ければ確実に凍傷になる。


 それを理解し、もう一度父達を見つけるべく耳を澄ませる。




 (聞こえた!)




 だがそれは橇で雪全体を踏み締める音ではなかった。


 足が沈み込む前に足を出す。そんな走り方で高速で近づいてきている。




 (雹狼だ。逃げないと、早く。どこに?)




 その足音には聞き覚えがあった、一度父と共に狩りに出かけた時に襲ってきた。


 雹狼は十頭ほどの集団でエイリクに近づいていく。


 後ろを振り返れば既に目に見える距離まで近づいてきている。


 あたりには隠れられる大きなものは木々しかないが、雹狼の花であればすぐに気づかれてしまう。


 もう一度雹狼の方を確認すると、その進行方向にエイリクはなかった。


 矢が飛ぶ音が聞こえる、橇を踏み込む音が聞こえる。雹狼が追いかけていたのは狩猟者達であった。


 一頭、二頭、眉間と胸に矢が突き刺さり倒れる。


 仲間が殺されたことを受け、残りの雹狼達は尻尾を巻いて逃げていった。


 エイリクはすぐそばの木で体を隠しながら顔を出すと、父達のいるところに茶色い塊と赤い染みがあることに気づく。


 大きな角から、馴鹿であるとわかる。


 そして、父と目があった。


 父は、今にも起こり出しそうな形相でエイリクに走って近づいて来ている。




 「なんでこんなところにいるんだ、家にいろと言っただろ。エイリク、お前が雹狼に食われてたかもしれないんだ!」




 エイリクのすぐそばまでいくと、父はそう捲し立てる。


 雹狼に襲われるよりも怖いと、エイリクには思えた。




 「まぁいいじゃないですか、生きてるんですし。でもなエイリク、勝手についてきちゃダメだぞ。今回は運が良かったが、もし次遭難でもしたら俺たちでも探せない。子供を一人隠す分の雪なんてすぐ降るんだから」




 遅れてやってきた父の友人に慰められる。


 エイリクは予兆の一切なかった暴風で死ぬところだったことを理解する。


 この一瞬でエイリクは自分の無力さを思い知っていた。小さい上背のため、見通しが効きにくく、自分の取り柄も風で音が掻き消えれば意味がなくなる。




 「あのさ、あの馴鹿はどうやって捕まえたの?」




 エイリクの口から漏れた最初の言葉は、反省ではなく、ただの疑問であった。




 「あのなぁ、もう少し反省をしろって。まぁいいか、多分雹狼が追いかけてた獲物だったんだろ。すごい速さで駆けてきて、三頭弓で仕留めた。あの雹狼達はもしかしたら獲物が盗られたのに気が立ってたのかもな」




 「そうですね、逃げてきたように俺たちのところまで来ましたし。エイリクはなんか、音とか聞こえなかったの?」




 「ううん、風で聞こえなかった」




 「そっか、それならやっぱり夏以外で勝手についてきちゃダメだよ」




 「うん、わかった」




 エイリクがそう言うと、父が肩に抱き抱え、馴鹿の置いてある場所に向かう。


 仕留めた雹狼も運ばれており、獲物を無事確保できたことで賑わっていた。


 エイリクの父は瓶に入った蒸留酒を一気に呷り 、それを全体で盛り上がる。


 もし大人になればこの輪の中にはいるのかもしれない。そんなことを考えながらエイリクも一緒になって騒ぐ。


 


 




 血抜きを終え、エイリク達は村へ戻る準備をしていた。


 あたりにあった頑丈な枝に馴鹿や雹狼をくくり付け、二人で一頭ずつ運ぼうとする。


 エイリクは後ろで、父ともう一人に両脇を挟まれるように列に並んだ。


 村に戻る時にも雹狼や熊に襲われる可能性があるため、後ろと前、真ん中に一人ずつ、弓を持って周囲を警戒する。


 エイリクの父も片手でエイリクと左手を繋ぎながら右手に弓と矢を持っている。


 無論、エイリクも耳を澄ませながら周囲を警戒している。




 「獣が近づいてくる音が聞こえたらすぐに教えろよ?いいな?」




 「うん、任せて」




 自分が自分よりも大きく強い大人達から必要とされていることが、エイリクにとってとても誇らしかった。


 エイリクは左手で襟巻を握り、寒さに耐えながら耳を澄ませる。


 特にこれといった異変はない。むしろ、大人達の喋っている声がたまに邪魔になっているように感じた。


 森に響いているのは大人達の声と橇が雪を踏み締める音、五十雀の唄声くらいであった。


 天が少しずつ茜に色付き、陽がもう少しで落ちようとしていることがわかる。


 エイリクは異変がないと判断し、五十雀の唄声を聴き続ける。


 木の洞の中で芋虫を捕まえる音が聞こえる。二羽の五十雀の体が擦れる音が聞こえる。


 森の中には美しい音が響き続けていた。


 ふと、遠くで大きな雪だけでなく大地もろとも踏み締める音が聞こえた。


 そちらに注意を向けると、毛象の歩むような音が響いている。


 まだ大人達には聞こえていないだろうが、音の大きさから、それほど遠くはない距離から聞こえてくるように感じた。


 恐らく今からその位置まで向かっても半刻はかかるだろう。


 


 「遠くで毛象の歩いてる音が聞こえる。近いと言えば近いかもだけど、どうする?父さん」




 「そうなのか?俺にはさっぱりだが、どこにいるんだ?」




 「うーーんと、多分向こうに歩いて半刻くらい。今日は馴鹿も雹狼も狩ったし向かわなくていいかなって思うけど」




 「いや、狩ろう。今狩っておけば次行くまでの猶予が長くなる。おい、みんな止まってくれ。東南東の方向に歩いて小半刻、その場所に毛象がいる。俺は狩るべきだと思うんだが、みんなはどうだ?」




 「問題ない、今日は俺たちまだ誰も怪我してないしな。むしろもっと狩っておきたい」




 「俺もだ」




 エイリクの父の呼びかけに皆が賛成する。




 「よし、それじゃあ荷物を木の上に掛けたら向かおう。エイリク、お前も一緒に来るか?毛象を狩るところはまだ見たことがないだろう」




 「行っていいの?」




 「あぁ、教えてくれたのはお前だしな」




 「やった、行く!」




 既に父以外の大人は荷物を木の上に掛けていた。


 馴鹿と雹狼は特に木の高い場所にかかっている。


 恐らく雹狼に盗られないようにするためだろう。


 エイリクも水筒から生姜茶を一口飲むと、残りの荷物は木の枝に掛けた。


 橇を足に強く括りつけると、大人達は走り出した。


 エイリクは、先頭を走る父の肩に抱き抱えられている。




 「エイリク、この方向で合ってるか?」




 「うん、音が近くなってるよ」




 揺られながら、雪を踏み締める音が混じっていても聞こえるほどに近づいていた。


 エイリク達が向かう方向の小鳥が枝から飛び立った。


 人間が大勢で走っているのを見たからだろう。兎も脇を走り抜けていく。


 父の肩で揺られながらエイリクは目を輝かせている。


 エイリクはまだ、毛象を生きたままで見たことがなかった。


 距離を確認するために耳を澄ませると、あまり近づいていないように思えた。


 エイリク達の存在に気が付き逃げている可能性がある。




 「気付かれたかも、もう少し速さを上げられる?」




 「そうか、じゃあ父さんの背中に移動してくれ。手を離すなよ?」




 エイリクが肩から背中に移動する。


 肩に手を乗せ、足で胸を抱くと、父が一気に加速する。


 他の皆も加速し、速さが一気に上がる。


 これならば走る毛象であっても逃すことはないだろう。そう判断し、顔を父の首に埋めて耳にだけ集中する。


 音が確実に大きくなっている。


 しかし、少し妙な点がある。毛象と比べて一歩の間隔が大きい。


 走っていると考えれば尚のこと、明らかに足の回転が遅い。


 だが、確実に毛象には近づいている。




 「エイリク、まだか?だいぶ走ったぞ」




 「多分もう少し、もう少しで見えてくるはず!」




 父の背中に乗っている今であればいつもより視線も高い。


 簡単に毛象を見つけられるだろう。




 「なぁ、エイリク。あれは木か?」




 後ろから声がかかった。


 隣の家のアリッドの父である。


 顔を上げ、アリッドの父の指差した方向を見る。


 その方向は、エイリク達の進行方向と重なっている。


 目の前に広がる銀世界に生い繁る木々、アリッドの父が指差しているのはその木々の中でも頭三つ分抜けているほどの高さの木であった。


 否、木ではない。文字通り頭三つ分、あたりの木々よりも高かった。


 それは木でも毛象でもなく、御伽話でしか見たことのないような巨人であった。


 腰に大きな布を巻き付け、ゆっくりと、しかし確実にこちらに歩いてきている。




 「ぁっ」




 エイリクは声とは言えないような音を発した。


 見たこともないような巨体が視線の先にあった。


 エイリクの父はそれを確認した瞬間に体の向きをかえ、先ほどの場所まで引き返そうとする。


 勢いのせいでエイリクは投げ飛ばされそうになるが、足で父の胴を抱えて堪える。


 エイリク達が一気に引き返した直後、地鳴りのような音が響いた。


 それが何の音であるかは後ろを振り返らずともわかる。


 巨人が走り出した音であった。


 音はエイリク達の何倍もの速さで近づいてくる。


 恐らく一分もかからずに追いつかれるだろう。


 エイリクの父はそれを判断し、手に持っていた弓を構えた。


 それを見た他の大人達も弓を構える。


 弓を持たぬものは前に出て槍を突き出す。


 エイリクは、父に投げ飛ばされるような形で近くの大木の洞に押し込まれた。


 腰が抜け、手が震え、足が震え、何もすることができない。


 エイリクの体が地面の揺れと自身の揺れで大きく震える。




 「打て!」




 矢が一斉に放たれる音が聞こえる。


 だが振動は止まらない。


 洞から顔を覗かせると、父達は矢をもう一度射ようと弦に矢を掛けていた。


 それでも、遅かった。いや遅くなかった。むしろ、父達は最速で矢を継いでいた。


 ただ、巨人が速かった。


 巨人の足に、槍を持った筋骨隆々の大人が踏み潰される。


 巨人の手に、弓を持った大きな体躯を持つ大人が叩かられる。


 なす術なく、一瞬のうちに命を奪われていった。


 エイリクはそれを見ていることすら出来ず、目を瞑ってその音だけを聞いていた。




 「なぁ、霜の精霊はどこにいる」




 巨人が口を開いた。地面の下まで響くような、そんな声だった。




 「しっ、知らないっ。離せっ!クソォッ!」




 エイリクの父も叫ぶように口を開いた。


 父が生きているということに不謹慎にも喜び、そして生きていることを目で確認するべく、父の声の方を向く。しかしその喜びは、すぐさま絶望へと変わる。


 父は巨人の手の中にいた。両腕ごと巨人に捕まれ、身動きができないでいる。




 「この辺りにいるはずの精霊だ、知らないのか。偽の話を掴まされでもしたかな。」




 「はぁッ、はぁッ。し、知るわけがないだろ!」




 「知らないと言われても、このあたりにいる以外に話は聞いてないんだよなぁ。本当に知らないの?」




 「知ってたら言ってる。知らないから、この手を離してくれッ!」




 「そうか、残念だな」




 巨人のその言葉の直後、父は果実を搾るかのように巨人の手に包まれる。


 巨人の手によって、ただ握りつぶされただけであった。


 父を握りつぶした巨大な手からは赤い液体が滴り、そして父を離した。


 エイリクは肉団子のようになったそれを見て嗚咽する。父の死を、わずか齢十で直視して平気でいられる者などいない。


 ましてや、巨大な怪物に殺されたとあっては。


 巨人が再び歩き出す。


 エイリクは自らの生存本能のみに従って洞から抜け出し、その場から逃げ出そうとしていた。


 洞から体を乗り出し降りようとすると、体勢を崩しそのまま背中から雪の上へ着地した。


 落ちた時の大きな音は巨人にも聞こえただろう。


 案の定、巨人の足音が近づいてくるのがわかる。




 (大丈夫、今僕の体は雪に埋ってるんだ。気付けない、大丈夫、気付けない)




 心の中でエイリクはそう唱えていた。


 それは事実確認などではなく、ただの祈りであった。


 そもそも音にさえ気付かれてしまえば、木の元まで走った時につけた足跡が残っている。さらにどんなに体が埋まっていようと、落ちたからには跡が残る。


 巨人の足跡はエイリクのすぐそばまで移動し、そして止まった。


 エイリクにとって死の宣告と同義であったそれは、エイリクを恐怖の底に沈めようとする。




 「そこにいるのはわかってるんだ、良ければ君の村まで案内してくれないか?さっきの男を殺してしまったけど場所がわからなくなることまで考えてなくて」




 雪の中までしっかりと響くその声は、エイリクをさらに恐怖の底に落とす。


 エイリクの小さな体では、巨人の手に軽く握られただけで潰れるだろう。


 エイリクは息を殺して、気付かれていないというあり得ない希望に賭けるしかなかった。




 「出てこないか。まぁそうか、怖いもんな」




 そう言うと巨人は手を深く積もった雪の中に入れる。


 そしてエイリクを掬うように持ち上げた。


 エイリクの耳には巨人の呼吸音まで聞こえる。


 巨人が今口を開ければ、喰べられてしまうようにも思えた。




 「目だけ開けてくれないかな、俺はただ村まで案内してもらいたいだけなんだ」




 エイリクには、巨大な怪物のその言葉に抗うことは叶わなかった。


 目を開けると、そこには巨大な口、巨大な鼻、巨大な眼球、何もかもが巨大な顔があった。


 耳を澄ませなくとも、エイリクには巨人の鼓動が聞こえた。


 巨大な怪物を目の前にして、エイリクは声も涙も出なくなっていた。




 「とりあえず下ろすからさ、村の方に歩いてくれないか?」




 エイリクが首を縦に振ると、巨人はその小さな子供を雪の上に下ろした。


 橇を付け直し、エイリクは雪の上に立ち上がる。


 見上げると、巨人の体はあたりに生えている木よりも大きく、視界の中に全体を収めることすら難しい。


 何度も獣を父と捌いてきたエイリクには、その巨体がどのように成り立っているのか、全くの謎であった。


 そして歩き出してすぐにあることに気が付いた。


 エイリクはどちらに村があるかなど覚えていない。


 ただ父達に付いて行っていただけである。




 「どうしたんだ?早く歩いてくれよ、それとも俺の掌の上に乗って方向だけ教えるか?」




 エイリクが立ち止まっていると、巨人はそう問うた。


 どうしたら良いのかわからず、馴鹿と雹狼を置いた場所に向かう。


 だが、そのあとどうしたら良いのかエイリクにはわからない。


 あたりに獣や鳥の影は一つもなく、まるでこの広大な銀の森の中に、エイリクと巨人しかいないように思えた。


 天は既に鐡紺色になっており、いつもであればもう寝る準備を始めている時間である。


 巨人が一歩を歩くだけで、周りの木々は大きく揺れる。


 エイリクが何十歩も歩いてようやく巨人は一歩を歩く。


 それほどの体格差が二人にはあった。


 なぜ父が、狩猟者のみんながこの巨人に殺されなければならなかったのか、エイリクにはわからないでいる。


 ただ大きな地響きとともに、エイリクは歩き続けた。


 吊るされた馴鹿が見えると、唐突に駆け出した。エイリクが何を期待したのかは、エイリク自身にもわからなかった。


 だが、何かを期待していた。


 大きな槍がエイリクの目に留まる。そして、槍が立てかけられている木のそばまで行って立ち止まった。




 「立ち止まらないでくれ。君の足に合わせてちゃ、明日にすら着けない気がしてくる」




 「ヒッ、やっ、休ませて、ください。村は、近くなのでっ」




 「うーんまぁいいや、少し休ませてあげるよ」




 巨人はそう言うとあたりを歩き始めた。




 (今この槍を持って、あいつに突き刺せば、殺せる。本当に?)




 エイリクにはなぜ自分がそんな考えに至ったのか理解できていない。


 それでも、やらなければならないという使命感に突き動かされている気がした。


 巨人は今背を向け座り込んでいる。槍を握る、走り出す。


 急に突風が吹いた。


 それによって雪が舞い上がり、巨人からエイリクを隠す。




 (今だ!今、この森がやれって言っている!)




 偶然起きたはずのその突風はエイリクにそう思わせた。


 雪の中を走り抜け、そして巨人の心臓目掛けて背中から槍を突き立てた。


 しかし───




 「なんだ?いってぇなぁ。小僧、俺を殺そうとでも思ったのか?残念だったなぁ、皮一枚すら通ってない」




 巨人の背は何もなかったのように、傷ひとつない肌を保っている。




 「そういや村は近くにあるって言ってたな。それならお前がいなくても探せばすぐ見つかるか。じゃあな、小僧」




 エイリクの元に巨人の腕が伸びる。


 エイリクの元に抗いようのない死が近づいていく。


 矮小な人間では、巨人にはなす術がなかった。


 それでも、この地平には考えられないような僥倖が存在する。


 巨人の左側でギシッと雪を踏み締める音をエイリクはしっかりと聞いていた。その音は小さく、しかしはっきりとエイリクの耳に届いていた。


 刹那、巨人の体が揺れ、そして吐血しながら地面に倒れ込んだ。


 倒れ込む瞬前、エイリクは巨人の眉間に血が流れるのを見た。


 それと共に、人間のような影も見ていた。




 「大丈夫かい?怖かっただろう、もう心配いらないからね」




 エイリクを何かが後ろから抱きしめた。


 声は中世的ではあるものの、背中にある感触で女性であるとわかる。


 何が起きたのか、エイリクには理解ができていない。


 一瞬のうちに巨人が死んだ。


 それを為せるのであれば、それは化け物以上の化け物である他ならない。


 エイリクが後ろを向くと、そこには人間の姿があった。


 果たして巨人を一瞬で殺してしまったそれは人間なのだろうか。そんな疑問がエイリクを包もうとする。


 だがそれ以上に、その人間の齎した温かさがエイリクを包み込んだ。


 闇に隠れ、顔をはっきりと見ることはできないが、声から少女に思えた。




 「お姉さんは、誰なの?」




 エイリクがその人間に問いかける。


 化け物以上の化け物に恐怖してそうせざるを得なかったからなのか、それともその少女の温かさで七日、エイリクにはわからない。




 「私はフレイヤ、君はなんて名前なの?」




 「エイリク」




 「そっか。エイリクは、ここから家に帰れる?」




 フレイヤと名乗った少女の質問にエイリクは固まる。


 唯一の親であった父が、先ほど目の前で巨人に殺された。


 親無しとなってしまっては、村に貢献することができずに追い出されることは考えるに容易かった。


 極寒の地域にある村では、村に貢献できないものは穀潰しとして村の外に追い出される。


 帰る家がないことを理解したエイリクの目からは、涙が流れている。


 その涙は家がないことへの絶望か、父を失った哀しみか、それともどちらもか。


 フレイヤはエイリクが涙を流していることを確認すると、エイリクに問いかけた。




 「私と一緒に来る?家がないならだけど、それにもし必要だったら戦い方も教えてあげる。さっきみたいに死にそうになっちゃうかもしれないからね」




 フレイヤの問いに対して、エイリクは一つの回答しか持ち合わせていなかった。




 「うん」




 エイリクのその返答を聞くと、フレイヤはエイリクを背負って歩き出した。


 極寒の中、フレイヤの体温に包まれてエイリクは眠りに就いた。


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