第2話 功治の夢

五月十五日


進学を控えた三年生の全8クラスは国公立大志望者の4クラスと、私立大志望者の4クラスに分けられている。それらがまた理数系と文系とで分かれていた。国公立大を受験するためにはセンター試験で課される5教科7科目の対策が必要であり、私立大は3教科で受験できるので、それぞれの必要な教科に合わせてカリキュラムが組まれていた。原則3教科受験の私立大クラスは授業が午前で終わることもしばしばである。


1時過ぎには終わりの早い生徒たちはグラブやスパイクを磨いたり、取り留めのない話をして部室で時間を潰す。高岡高野球部も十六人のうち半数の8人が私大を志望していた。


「うっす」


3時を過ぎた頃、国公立コースの野村雄太がユニフォームを詰めた野球バッグと教科書や参考書ではち切れそうな茶色のカバンを提げて入ってきた。


「雄太のカバン、ぼろぼろだな」


雄太はその声には応えず、自分の椅子に腰かけた。

国立組みが部室に訪れ始めると、それまで気だるく流れていた時間に暖められていた生ぬるい空気が熱を持って流れ始める。練習を前に少しずつ部員の士気が静かに変わり始めるのだ。


「お前ら国立組みは、この時期になっても課題が多くて大変だな」


 とっくにユニフォームを着てグラブを念入りに手入れしている私大組から声がかかる。


「まあな、でも帰ってからなんてやってるひまねえから、全部ノート写させてもらってるけどな。そっちと違って推薦狙ってねえから、余計な授業は聞く必要ねえし。そのへんは先生も分かってるから、うるさく言わねえ。寝てても内職しててもな」


「家で寝るだけにしちゃ、ずいぶん膨れてるな」


 野村の膨れた鞄を指して誰かが言った。


「野村は遠征先のホテルでも英単語を覚えたもんな」


 過密日程の泊りがけの遠征でも大事な大会前でもキャプテンの野村が受験勉強を怠らないことは部内では多くの者が知っている。


「私大組は、空き時間があるから今のうちからコツコツやってりゃ、夏が終わってからでも充分挽回効くよな」


 私大組みを野村が皮肉を込めて羨んだ。

「確かに国立組よりは勉強時間はあるんだけどなぁ、練習前に勉強って気合は入んないよ」

 五月の連休明けに気合を入れると豪語して頭髪を一層短く刈った内山がまだ青白い頭をぐるぐると回しながら気だるく言った。


「お前ら文系の将来は国家公務員か? 二人が就職するころには天下りも無くなってて、めっちゃ寒い時代になってんじゃねえか?」

 

文系の野村雄太と内田翔の進路談義に、理数系の坂巻慧が口を挟む。開襟の白いシャツを脱ぐと一際鍛えられた胸筋が見ている者に迫るように迫り出した。ユニフォームで隠れた部位は、透き通るように白い。


「そんなに寒い時代にはなってないだろ。天下りができなければ、定年まで官庁に残ることになるからな。高い給料は無くても安定はしてるはずなんじゃないか」


 普段からジャーナリスト志望を公言している高水秀和も一言挟む。分厚いレンズの眼鏡を外し、膝に載せた手鏡を見ながら器用にコンタクトを入れている。


「法科へ行って弁護士って道も夢がないな。今後人的流動が盛んになって、アメリカや中国の国際弁護士が日本でも幅利かせる世の中になるって、ネットでは常識だ」


「俺ら、頑張って勉強しても報われるのは大学までってか?」


 野村が笑った。


「俺は技術者になって、特許を会社の手柄にしちゃう日本の企業なんか行かずにアメリカの西海岸だ」


 半袖のアンダーシャツを着た坂巻は得意げだ。

 そんな部員たちの快活な進路談義を、毅はグラブにオイルが染み込んでいくのを見ながらぼんやりと聞いている。


 五月も半ばになれば、インターハイ予選で早々に散った他の部活の3年生は、既に受験勉強を本格的に始めている。進学校でありながら部活が盛んな高岡高の生徒たちの中には、チームや団体の解散前の5月に、一足早く部活動を退く生徒も一定数いた。例年野球部の中にも一人か二人はそういう部員もいるのだが、今年は誰一人としてそのような素振りすら見せる部員はいなかった。


勢いよくあけられた扉から一瞬外光が差し込んだが、すぐに大きな影に遮られ、部屋はすぐに薄暗くなった。山郷功治が入ってきたのが分かる。両耳にかけられたヘッドフォンからは音と歌詞がはっきりと聞き取れるほど漏れている。上履きを捨てるように脱いで、大柄な体で床に散らかったスパイクやグラブを足先に引っ掛け踏みつけ、一番奥の隅の椅子に向う。一九〇㎝を超える彼の提げる鞄は野村のものよりも小さく見える。彼が腰掛けた途端、パイプ椅子は悲鳴を上げて軋んだ。


「功治! お前はどうなんだ?」


功治が腰掛けると間髪いれずに山崎が白い歯を見せて訊いた。


「功治! いつまで自分の世界に入ってんだよ!」


 自分に話を向けられたことに気付かない功治に駆け寄って、山崎が大声で叫んだ。部室全体が笑いに満ちた。皆功治が何と答えるかに耳をそばだてている。


「あ?」


 心酔していた音楽から切り離された功治は癇に障ったのか、一瞬眉間に皴を寄せたが、すぐに居直って聞き返した。


「お前は将来なにすんだって?」

「あ?」


「お前は将来ナニモノになるんだって・・・・・・」


「ショウライか・・・・・・俺は、宇宙へ行く」


「ウチュウ?」


あちこちで声が漏れた。


「お前・・・・・・」


 部員たちは、その冗談とも本気とも取れる功治の答えに、どう反応してよいのやら分からず一瞬押し黙っていた。

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