いつまでも開かない金庫と密室殺人~不可能犯罪捜査ファイル01~
小野ニシン
第一章
狭く細長い廊下には、八十キログラムの肉体が扉に突進する音が響いていた。坂下警察署上町交番に勤める巡査の須田は、自慢の肉体を活用することで、鍵のかかった木の扉を無理やり破ろうとしていた。
傍でその様子を見ている小日向は、ちょっと引いていた。扉の鍵が閉まっているとは言え、他の開け方も試さずに、いきなり体当たりをするものだろうか。もしかして男らしさを見せつけたいだけなのではないだろうか。
それでも、緊急性を伴う事案であるのは間違いない。扉の奥には死体があると言われているのだから。
通報があったのは今から二十分前。財津淑江が婦人会の小旅行から帰ってくると、午後五時にも関わらず夫の寝室の鍵が閉まっていることに気づいたという。体調が悪いのかもしれないと心配して声を掛けたが、返事は戻ってこなかった。
庭に出て窓から部屋の中の様子を覗いてみたところ、カーテンの隙間から夫の財津両善が血まみれで床に倒れている姿を発見した。慌てて警察に通報し、上町交番の須田と小日向が急行してきたのだった。
三回目の体当たりで木製の扉の一部が破れた。須田が裂け目から手を入れて内側から鍵を外すと、二人の巡査は一斉に寝室に流れ込んだ。
部屋の床には、淑江の通報にあった通り、惨殺された老人の遺体が転がっていた。全身が血にまみれていた。特に悲惨なのは顔だった。目の周囲は腫れあがり、鼻の骨は折れ、本来白いはずの歯は真っ赤に染め上げられていた。
遺体の隣には、木製の椅子が倒れていた。さらに麻の紐が何本か散らばっている。遺体の手首をよく見てみると、ぐるりと激しい擦り傷が付いていることに気づく。紐で椅子に縛り付けられていたのだろう。紐の他には犯人が持ってきたと思われるものは見当たらなかった。
窓は南側に一つだけあった。その下にはベッドがある。二人の巡査が入ってきた扉は東の壁の南端に位置しており、その隣の東の壁沿いにはクローゼットが置かれている。大きさを考えると、夫人の服までは入りそうではない。夫の両善が一人で使っている寝室なのだろう。
東、南、西の壁は、寝る場所にふさわしい落ち着いたオフホワイトの壁紙が貼られていた。しかし、北の壁だけは異質だった。壁紙はなく、ギラギラとした金属が剥き出しになっていた。中央には大きなハンドルが付いている。『オーシャンズ11』に出てきてもおかしくないような金庫室の扉だった。
被害者の財津両善は、数年前に退職した敏腕証券マンだった。「すべてのものにリスクはある」との考えのもと、退職後も資産を分散して保有しており、一部は現金として手元に置いていた。預金であってもリスクがあるというのがその理由だった。
現金は、両善が保有する全財産に対しては僅かな割合でしかないが、それでもマンションが数棟買えるくらいの大金である。そのため、新たに寝室の隣に増設されたのがこの金庫室だった。
今、金属製の扉はピタリと閉ざされている。扉の右横の壁には暗証番号を打ち込むためのキーパッドが埋め込まれている。
「強盗殺人ですね」
小日向は寝室の全体を見回しながら言った。
「そうだろうな。でも、なんで金庫室の扉が閉まってるんだろうな」
ただの強盗殺人ならば、金庫室の扉を閉める意味がないのではないかと須田は言いたいのだろう。扉を閉めること自体は容易である。だが、一刻も早く逃げ出したい強盗犯たちが、わざわざ丁寧に金庫室の扉を閉めていくものだろうか。妙といえば妙である。
小日向は金属扉をよく観察してみた。すると、ハンドルに血の手形がべったりと付いていることに気づいた。
被害者の右腕は金庫室の扉に向かって伸びている。その手は血で赤く濡れていた。ハンドルに付いた手形は被害者自身が付けたものと思われた。後で指紋の確認をする必要があるが、これほどくっきりと手形が残っていれば、鑑識もすぐに被害者のものかどうか判定できるだろう。
「被害者が閉めたんですかね」
「ま、そんなところだろうな」
須田は遺体をあらためながら言い、さらにぼそりと続ける。
「でも、犯人はどこに行ったんだろうな」
「というと?」
小日向が疑問符を浮かべる。
「ほら、あそこ」
須田は南側にある窓を指差した。引き違い窓にはクレセント錠ががっちりとかけられていた。
寝室から他の空間への出入り口は三か所のみ。廊下に通じる木製の扉、庭に面したガラス窓、金庫室に続く金属扉。須田が木製の扉をこじ開けるまで、三つの扉にはいずれも鍵がかけられていた。
そのとき、すでに開いている唯一の扉から鋭い声が飛んできた。
「制服警官が殺人現場で何してるの!」
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