第16話 失踪

 うそだ。


「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」


 壊れたオルゴールの様に繰り返す。

 私の髪はぼさぼさで、あれから一睡も出来なかったが故にくまも酷く、とても人に見せられるような姿ではない。


 ──否、その見せるべき相手がいないのだ。


 あれから一週間経っても、お兄ちゃんは帰ってこなかった。お兄ちゃんの部屋で、お兄ちゃんの布団にくるまっても、そこに残った匂いは薄くなっている。

 足りない。足りない。足りない。


「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」


 どうして。何故。

 お兄ちゃんは私に執着している。私から離れる訳がない。私から離れようとする訳がない。

 何者かがお兄ちゃんを人質にしたとして、それなら脅迫文やら何かしらが届いていいはずだ。なのに何も来ない。それなら違う。

 何回もメッセージを送った。何回も通話を掛けた。何回も、いや何百回としている。なのに、既読すら付かない。

 お兄ちゃんが、逃げた?


 ありえない。

 ありえない。

 ありえない。

 ありえない。

 ありえない。


 あれほど執着しておきながら、私を置いて何処かへ行くなんてありえない。憎き相手を、可愛い妹を、独りぼっちにするなんてありえない。

 あの女を殺したことで心が折れた?

 それもありえない。あれだけ毎日無意味な行為を繰り返して、自分の異能が私を殺せるものではないと知って、それでもお兄ちゃんは決して諦めなかった。

 あの女とは、あの時初めて出会ったはずだ。そんな奴が殺された所で今さら諦める訳なんてない。

 お兄ちゃんがあの女に一目惚れ──否、それこそありえない。私という存在がいるのだから。私のことしか考えられないのだから。


 だとすれば、お兄ちゃん単独ではない。そそのかした何者かがいるに違いない。

 お兄ちゃんに要らぬことを吹き込んだ何者か。お兄ちゃんと私の二人きりの世界に土足で踏み込んだ不届き者。


 そういえば、と私は思い出す。


 あの時、一瞬ではあるが女の臭いがした。あれが気のせいではなかったとするならば。


「…………何処の女狐だ」


 今まで発したことのない、低く怨嗟の籠った声が自分の口から零れた。男ならまだしも──それでも許せないが──女となれば、余計に腹が立つ。私ではない女が、お兄ちゃんに干渉した。私のお兄ちゃんをけがした。


 少し冷静を取り戻して、考えてみる。

 あの時、校舎裏にはお兄ちゃんとあの女しかいなかった。そして、二人を家に連れて帰った。他には誰もいなかったはすだ。あの女の首を切り落としていた時こそお風呂場に籠っていたものの、何者かが存在していれば気付いたはずだ。

 それに、生首を見た時のお兄ちゃんは明らかに狼狽うろたえていた。あの時、何かを画策している様子は見られなかった。


 私がリビングに行って、部屋に戻って、その間にお兄ちゃんは姿を消していた。たった数分程度。しかし、リビングにいた私が気づかなかった以上、玄関に向かったとは考えにくい状況。


「…………姿を消していた?」


 誰かが、あの部屋に元々潜んでいた。但し、お兄ちゃんの部屋には、例えばクローゼットのような身を隠す場所など無い。死角となる場所は無い。


 だとすれば。


「…………そういう、異能?」


 姿を消す異能。ゲームや漫画でもよく登場する定番の能力。なら、それが現実に存在していても何ら不思議ではない。


「…………」


 指先で頬をなぞる。とっくに治って消えかかった切り傷。あのナイフは何処から飛んできたのか。誰が。

 間違いない。お兄ちゃんの近くには、姿を消す能力を持った存在が、女が、いる。あの場には、もう一人いたのだ。


 どうやって、お兄ちゃんはこの部屋から出たのか。

 どうやって、あの時ナイフは私の防御を貫通したのか。


 いや、正確には貫通ではない。貫通ならば、膜を通して私は感じるはずだ。ならば、私の防御はのだ。


 今までそんなことはなかった。私の防御は自動で起動する。死角からでも、意識の外からの攻撃でも、膜は自動的に私を護る。制限はなく、四方から攻撃されても全てを防ぐ。私にはその衝撃すら届かないが、攻撃されたということには気付くことができる。

 しかし、あの時は膜が反応せず、私は頬を走る微かな痛みによってナイフの存在に気付いた。


 ──私を、傷付けることが出来る異能?


 一人が複数の能力を持つことはありえない。そして、姿を消す能力が、私に攻撃を届かせることに役立つとは思えない。

 だとすると、あの場には一人ではなく複数人が存在していたのか。姿を消す能力は自分だけでなく、他者にも適用することが出来るのか。


 私はあの時、ナイフの飛んできた方角一帯を薙ぎ払っている。一瞬で離脱しない限りは防ぎようもない。しかし、あの場では死体は一つも見ていない。


 姿を消す異能。

 私に傷を付けられる異能。

 一瞬で離脱、或いは私の攻撃を防ぐ異能。


 考えられる限りで、三つの異能が存在している。そうでなければ成し得ない。

 違う。もし姿を消す能力がものなのであれば、二つでも成り立つ。

 ただ、姿を消せるのであれば、何故あの女は馬鹿正直に正面から私に挑んだのだろう。両者は連携していた訳ではなく、偶然同じ場に居合わせただけなのか。または、姿を消すことに何か条件があるのか。


「……まどろっこしいわね」


 可能性を考えたらキリがない。事実、思考の渦に飲み込まれていた。いくら可能性を考えても憶測に過ぎない以上は意味を持たない。


 結局のところ、私にとって重要なのは、お兄ちゃんが居なくなったという一点だけ。


 それなら、すべきことは決まっている。ここで思考を続けることに意味はない。

 私が今までどうやって生きてきたかと言えば、感情のままに行動してきただけ。お兄ちゃんと二人きりになりたくて、その邪魔になる存在を殺してきた。それだけ。


「許さない」


 許してなるものか。私から、私のお兄ちゃんを奪った存在を。私だけのお兄ちゃん、という事実に泥をかけた存在を。


 気付くと、私は右手の親指の爪を噛んでいた。爪を噛む癖なんてなかった。お兄ちゃんの為の大切な体だ。それと単純に、好きな人の前では常に綺麗でいたい。自分で自分を損なうなど、愚かな行為でしかない。

 直ぐに爪を口から離す。幸い、噛んでいた爪の先端は削れてはいなかった。


 人生で初めて感じた苛立ちと怒り。それがこの行動を誘発したのであれば、余計に許せない。癖にならないように気をつけなければ。


 そう思いながらベッドから下りて立ち上がる。お兄ちゃんを取り戻さなければならないという明確な使命を持って。


 ならば、最初にするべきは──




「お風呂、入ろ」


 こんな汚い姿で会えない。何時いつお兄ちゃんと再会できるか分からないのだから。好きな人と会うのだから。

 心は、苛立ちと怒りと嫉妬に塗れていても、体くらいは完璧にしたい。


 早く、お兄ちゃんに会いたい。

 早く、お兄ちゃんが欲しい。


 お兄ちゃんと出会ったら、体を重ねてしまおう。けだもののようになってもいい。お兄ちゃんに私を刻み込んで、私にお兄ちゃんを刻み込んでもらおう。


 それは神聖な行為。神聖で、けれども何処までも背徳的な行為。甘美なる頽廃たいはいに溢れてしまう。達してしまう。


「……っと、いけないいけない」


 頭を振って溺れかけていた妄想を払い、私は幾分か軽やかになった足取りでお風呂場へと向かった。


 ──待っててね、おにいちゃん。

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