第5話 違和感

 それから数日間、どのように過ごしていたか記憶は曖昧だった。終始ご機嫌なアイツの姿しか思い出せるものはなかった。


「じいちゃん、ばあちゃん、とうさん、かあさん、にいちゃん、ごめん⋯⋯俺、おれ⋯⋯」


 布団の中で丸まって懺悔の言葉と共に涙を流す。あの日の光景、あの日の悪夢、それに憤怒して、直後に悲しみに襲われる。流れる涙は止まることがない。


 アイツの力が視える。

 それで、どうやってアイツを殺すことができるというのか。


 アラームが鳴った。一日の訪れを知らしめる音。無為な一日が始まる音。

 絶望と僅かな苛立ちのままに音の元凶、スマートフォンを壁に向かって投げつけるも、それが壁に届くことはなく、ぶつかる直前で止まり、ゆっくりと床に置かれる。


「⋯⋯⋯⋯あ?」


 何かが引っ掛かった。


 微かな、違和感。


 それが何から生まれたものなのかは分からない。鉛のように重い体を動かしてベッドから出る。スマートフォンを拾う。ベッドに戻って壁に向かって腕を振り抜く。同じ。壁から少し離れた所で止まって、床に置かれる。


 二度、三度、同じ動作を繰り返してみる。今度は壁ではなくて窓の方へも投げてみるが、結局そこへ届くことはなく、中空で静止したスマートフォンはゆっくりと床に着地する。


 違和感の原因が、分からない。けれど、頭の中で何かが引っ掛かっている。


 なんだ。何かがおかしい気がする。いや、何もおかしくはない。

 例えば、バットは処理されようと、スマートフォンは同じ結末は辿らない。壊されることはない。

 けれど、それは当たり前と言えるだろう。スマートフォンは貴重品だ。アイツは俺を大切に思っているのだから、それが丁重に扱われることは不自然なことではない。


 部屋の隅に置いてある新品の金属バットを持って、自室の何も無い空間で床に向かって振り下ろした。何の抵抗もなく床に当たったバットは鈍い音を立て、俺の手にその反動がきた。

 もう一度同じ動作を繰り返しても、結果は同じだった。バットの先端が床を叩き、再びの反動に僅かな痺れを覚えるだけ。そのまま手を離すと、重力のままにそれは床に落ちて転がった。スマートフォンのように、中空で止まることはない。


 ──扱いが違う?


 ベッドに座って考える。

 それが違和感の原因だろうか。いや、それは違う。さっき考えた通りのスマートフォンとバットの貴重性の違い。実際、バットなんて何本目か分からない。ここ数日はしていなかったが、背後から襲いかかることは日課となっていたのだから。


 バットを見つめる。

 普段、アイツに襲いかかる時のようにへし折られることも潰されることもなく、転がるバットはそのままだ。それが、違和感の原因なのだろうか。

 いや、そうではないと直ぐに結論は出た。今は何も無い空間に向けて振り下ろしただけだ。アイツに向かって振り下ろしたわけではない。バットが新品のまま転がっていることに、俺の無意識もまた違和感を訴えかけることはない。


 おもむろに、スマートフォンを手に取って床へと落とす。床にぶつかる前に静止して、音を立てることなく床へと置かれた。

 この程度の距離や勢いならそのまま落ちるかと思っていた部分もあったが、そうではないらしい。ただ、想定内の結果ではある。特に驚くこともなく、やはりそこに何か引っ掛かりを感じることはなかった。



 スマートフォンと金属バットの二つを持って部屋から出ると、いつも通りのセーラー服を着ている姫華の後ろ姿が見えた。俺が部屋から出る時には、いつも無防備に背中を晒している。

 まるで背後から襲いかかるのを待っているかのように、誘っているかのように。

 いつもなら何も考えることはなく殴り掛かるところを、数日ぶりに感じたその衝動を抑えて、スマートフォンを投げつけてみる。


 姫華にぶつかる手前で、透明な膜から俊敏に伸びた触手がスマートフォンを受け止めて包み込み、その後に触手は俺の方へと伸びてくる。手渡そうとしているような動きを無視して見つめていると、やがて触手はそれを包んだまま床へと向かい、足元に置いて戻っていった。

 先程と同じだ。強いて言うならその場ではなく、目の前まで運ばれてきた程度。だが、それは近くに俺がいるからだろう。


「ダメだよー、スマホを乱暴に扱ったら。壊れちゃったらどうするの?」


 くるりと姫華が腰に両手を当てながらこちらを振り返り、俺の足元を指差した。俺はそれを無視してじっと見つめる。睨みつける。

 姫華はそれを柔らかな微笑みで受け止めた。


「なにー? もしかして私に見蕩れちゃってる?」


「黙れ」


 苛立ちを覚えた俺は再燃する苛立ちと憎悪に突き動かされるまま、バットを振り上げて近づき、躊躇無く振り下ろす。

 姫華は笑みを浮かべたまま微動だにすることはなく、透明な膜はグミのような弾力で衝撃を吸収した。たった二センチメートルの距離。それが俺の殺意を阻んだ。

 直後、接地面から透明な膜が包み込み始めるのを見て、バットを持ったまま距離を取る。しかし、膜は俺の動きに追従してゴムのように伸び、俺からバットを無理矢理に取り上げる。

 そして、俺の目の前で鉄の塊になるまで握り潰された。普段は無音なのに、今日は金属のひしゃげる音が響き渡った。俺の殺意を削ぐかのように、その光景を見せつけられた。


「飽きないね、毎日。でも、嬉しいんだよ? だって、それだけお兄ちゃんが私の事を想ってくれてるってことだもん。それがどんな感情であっても、ね?」


 その声色は甘く粘着質で、微笑みは蠱惑さを滲ませたものへと変わっていく。ちろりと、突き出された舌の先端が唇をなぞる。


「ご飯、食べよー?」


 蠱惑さは直ぐに霧散して無邪気なものへと戻った。リビングの机の上に乗っているのは、白米と味噌汁と焼き鮭。そして、その脇にはヨーグルトが添えられている。

 いつも通りの朝食。俺はそれを、殺意を持ちながらも日々食べている。それが歪であることを自覚しながら。

 ここ数日の記憶は曖昧だったが、違和感が俺の意識を目覚めさせ、殺意は再び形作られていた。


 そうだ。そうだとも。異能が何であったとしても、目的は変わらない。手段の一つが失われた。だから、どうしたというのだ。

 考えてみれば、この力だって決して無意味なものではないはずだ。些細なものであれ、以前とは状況が変わったのだから。進んだのだから。一歩か、半歩か、そんなものはどうだっていい。

 さっきの違和感の原因はまだ分からずとも、それもきっと、いや、必ず一助になるはずだ。


「殺す。殺してやる」


 怨嗟の声を、零す。


「うん!」


 無邪気な声が、返ってきた。

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