20,亡霊

「君のその眼に、この領域はどう映るのかな。……また聞かせてはくれないか」

「――うん!」


 吉岡と茜の足音が遠くなってく。

 二人を軽く見送った魔使が前方へと視線を戻すと、崩壊した瓦礫を押しのけて、飛樽が立ち上がっていた。


「それが本来の姿か? 怪異らしくなったじゃないか」


 地に付く程だらんと伸びた手。

 全身を覆い隠す黒い髪。

 顔は暗がりに閉ざされ、全てを吸いこまんほど大きな眼孔が魔使を覗いている。

 そこに、先程までピアノを演奏していた爽やかな青年の面影はなくなっていた。


「ところで『理性』は残っているかな? もしないのなら計画の変更を余儀なくされるのだが――」

「二つ」


 動じない魔使の言葉を遮るように、飛樽は言葉を紡ぐ。


「一つ、神たる俺様に愚かにも牙を突き立てた事。一つ、己が分を弁えていない事。合わせて二つ、貴様が犯した罪の数だ」


 厳粛な声が響く。

 真っ直ぐに突きつけられた言葉を、魔使はニタニタと笑いながら聞いている。


「理性があるのか分からんが、その話は興味があるぞ。それで? 罪を犯したという私に、一体どんな処罰が下ると言うんだ?」

「……三つ目だ。己が愚行を悔い、俺様に赦しを乞いながら無様に死ね」


 厳かな口調は崩さず、されど燃えたぎる怒りが溢れ出す。

 その激情に呼応するかのように、飛樽の髪が鞭のようにしなり狂う。

 髪が触れた壁や瓦礫は、いとも容易く両断されていく。

 無差別に切り裂く鋭利な刃物と化した髪は、空気を割り、音を置き去りにし、そして。


「――……」


 魔使の左胸、心臓を貫いた。

 濁流のように吹き出した血が、服を赫く染め上げ、足下に血溜まりを作り出す。

 だらりと口から逆流した血を吐き出した。


 けれども。


 べちゃり、赫く染まった脚で一歩、飛樽に向けて踏み出した。

 そんな魔使の姿を見て、飛樽は大きく顔を歪ませる。


「矮小な牙は俺様には届かんと言うのに、無駄なことを……。その歩みは意地故か? 怒り故か? 俺への恨み故か?」


 飛樽がニタニタと嗤うのは、経験から来る確信があったからだ。

 今まで多くの人間を殺してきた。

 その中で、せめて一矢報いようと向かってくるバカは何人も居た。

 バカ共は致命傷を喰らってもなお歩みを止めず、搾りカスのような力を込めた拳を振るうのだ。

 大半は拳が届く前に力尽き、例え届いたとしても、死に損ないの攻撃が飛樽に通用するはずが無い。

 死に間に突きつけられた力の差を、ココで死ぬ現実に晒されて浮かべる絶望を何回も見てきた。

 きっとこいつもそうだ。そう言う経験から来る確信があったからだ。


 べちゃりべちゃりと血を吹き出しながら向かってくる魔使がいつ絶望を浮かべるか、楽しみに飛樽は待っていた。


 しかしその裏で、一抹の不安がよぎっていた。


(――おかしい)


 何故奴は、心臓を潰されたのにまだ歩けている?

 何故、膝すらつかないのか。


 奴の左胸は大きな風穴が開いている。

 手応えはあった。抉る感触も確かにあった。

 幻覚などではない、と確信を持って言える。

 それなのに奴は何故倒れない?


 噴き出す血は明らかに致死量を超えている。

 だと言うのに、奴の歩みは止まらない。勢いが緩まない。

 真っ直ぐ、こちらに向かってくる――……。


 そんな不安は、魔使が一歩踏み出すごとに積み重なっていく。

 あれだけ矮小なゴミの一人だと思っていた魔使が、分からなくなっていく。

 閉ざされた闇のように何も見えなくて、むしろ自分がそこに呑み込まれてしまいそうな――。


「――!」


 気がつくと、飛樽は髪を振り下ろし、虫を潰すように魔使の頭蓋を叩き潰していた。

 その一撃は首をも抉り、周囲の床や天井はその襲撃で音を立てて崩れていく。


「ハァ……ハァ……」


 飛樽の呼吸は荒く、指は微かに震えていた。

 直に死ぬとわかっていても、核がある限り自身にダメージはない事はわかっていても、今すぐに殺さずには居られなかった。

 それほどまでに、今までの無能ゴミ共とは違う異質さを感じ取っていた。


「……は、ははは」


 だがもう心配する必要は無い。

 心臓だけで無く、頭も、首も潰したのだから。


「――は」


 起き上がった。

 首をも抉り取ったにも関わらず、魔使は立ち上がった。

 血が吹き出し、風穴が開いた胸からも漏れ出ている。

 それでも、何事も無かったかのように悠然と一歩を踏み出してくる。

 何も見えないはずなのに、コチラを真っ直ぐに見据えながら……。


 一歩、こちらに向かってくる。

 大丈夫、核がある限り俺様は死なない。


 一歩、さらに向かってくる。


 こいつの攻撃が俺様に届くことはない。



 一歩、手を伸ばせば触れられる距離。



 ――……本当に?




 手を伸ばす。その手は飛樽の顔に向けて伸びていく。





 心臓も頭も砕いても向かってくるこいつの牙は、本当に俺様に届かないと言えるのか?







 その手が飛樽に触れる――。








「――!」


 魔使の手は、空を掴む。

 目の前に居た飛樽は横に飛びのき距離を取っていた。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 荒い呼吸。滝のように滴る汗。

 飛樽の心を埋め尽くしていたのは――。


「逃げた……いや、何故回避した?」


 投げ変えられた問いかけに、飛樽は顔を上げる。

 そこには、魔使が握った手を開きながらこちらを向いていた。


 いや、そこじゃない。

 ぐちゃぐちゃに抉られた首から骨が、肉が、皮が精製されていく。

 潰したはずの眼球が、ぎょろりとコチラを覗く。

 左胸の風穴も塞がっていただけでなく、服に染み付いた血も綺麗さっぱり消えている。

 そこには、何事も無かったかのような、元に戻った魔使が立っていた。


「……お、お前は、お前は何だ⁉」

「ほぅ、未知による恐怖が理由か」


 震える指で問うてみても、返ってくるのは不気味な笑顔だけ。


「お前は何だと聞いている⁉」

「あぁ良かった安心したよ。恐怖を感じるという事は、少なからず理性があるという事だ。計画を変更しなくて済みそうだ」


 話が通じない、で終わらせれる程、飛樽の心に余裕は無い。

 こいつも俺様となのか?

 それともそれ以上のバケモノなのか?

 今、俺様の目の前にいるアイツは、一体何なのだ。


 巡る思考に答えを出さなければならない。


「お前は何なんだ⁉」

「さっきから何度もくどいな」


 ハァと大きなため息をついて、魔使は飛樽に向き直る。


「私はただの魔術師で、知を求めて彷徨う亡霊だ。今は『魔使恵』と名乗っている」

「……魔使、恵」


 この程度じゃ足りない。

 それだけの情報で、頭も首も心臓も潰されてなお生きている事の説明にならない。


 ……だが、もうこれ以上の情報は出ないだろう。


 奴……魔使はまるで虚空だ。

 知りたいと覗いてみても、そこには何も無く、あちらが提示したモノしか知ることが出来ない。

 それ以上のモノを知ることは出来ないし、踏み込むことも――。


「だから飛樽」


 呼びかけられたその声に、飛樽は肩をビクつかせる。


「君の持てる全てをくれ。出し惜しみはしてくれるなよ」


 ニタリと嗤うその顔は、虚空へと引き摺り込む災いそのモノに感じられた。

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