Ⅰ
Girl
「そういえば、アンリ様ってご結婚されないのかしら」
麗らかな昼下がり。庭先で机を囲む女性のひとりが、そんなことを言った。
「確か今年で23になられるのよね?」
彼女の何気ない一言で、あたりが色めき立つ。アンリはこの国の王子で、次期跡取りだ。その端麗な容姿に魅了され、多くの女性が彼の虜になっている。
「わたしのところにも案内が来るかしら」
「馬鹿ねぇ…ありえないわ。
一国の王子なのよ? 別の国の王女と結婚するに決まってるじゃない」
浮ついた会話が空気を温める。ふと、ひとりの女性が扇子で口元を隠しながら、静かに切り出した。
「アンリ様の結婚の話って、実は何度か出てるらしいの」
彼女のひっそりとした声に、机を囲む全員が身を乗り出す。
「でも、彼の婚約者に選ばれた人は、全員奇怪な死を遂げるそうよ」
一瞬辺りを沈黙が包む。しかし次の瞬間には笑いが渦巻いていた。
「何その話!」
「馬鹿馬鹿しいわよ、ねぇ?」
彼女たちの鼻につく笑い声が響いて、空に消えた。
❦
「…父上、お言葉ですが、結婚する気はありません」
神と見紛うほど美しい青年は、彼女を一瞥すると呆れたようにそう告げた。蒼玉を閉じ込めたかのような美しい瞳が、困ったように揺れている。ノースはその貌に息を吐くと、ぎゅっと拳を握りしめた。
「彼女は隣国の王女、ノース・スカーレット嬢だ。
別に悪い縁談ではないだろう?」
ノースをここまで連れてきた男はそう言うと、紫煙を吐き出す。その刺激の強い香りさえ、今の彼女には届かない。彼女の視線はただ一点、目の前の青年に釘付けになっていた。
噂には聞いていたが、想像を遥かに凌駕する美貌。彼が自分の夫になれば、どれほど幸せだろう。
齢17の少女はそう考え、目の前の王子に語りかける。
「確かに結婚のお話は気が早いですわ。
だって私たちはまだお互いに知らないことが多いですもの」
彼はその言葉に眉根を寄せた。彼女が不快を示すその表情に気付く前に、隣の男が口を開く。
「では、部屋を用意しよう。
アンリ、自分の部屋から一番近い空き部屋に彼女を案内してやれ」
アンリはまだ何か言いたげだったが、少女から視線を逸らし静かに頷いた。
❦
王宮の長い廊下を進む。ノースは先を歩くアンリに追い付くと、何気ない動作でその手に触れた。
「私の王宮とは比べ物にならないくらい大きくて、迷子になってしまいそうで」
付け足すように言い訳を述べると、彼は少女の手をそっと握る。手袋ごしに伝わる彼の手は、温かく滑らかだった。
「……バズビーズチェア、という話を知っていますか」
ノースがその温もりに心を奪われていると、そう声が聞こえた。先を進む彼の貌は、よく見えない。
「いえ…どんな話でしょう?」
「昔、とある国に存在していた椅子にまつわる奇怪な噂話です。
それは呪われた椅子で、座った人間を死へと導く───」
アンリはそこまで話すと、口を閉ざした。廊下の先に誰かいる。ノースはアンリの陰から、そっと覗き見た。
「……ノエル」
「アンリ様、その方は?」
どうやら使用人の一人のようだ。今まで使用人になど目もくれずに来たが、彼はノースの目を惹いた。長く艶やかな黒髪に、紅玉のような瞳。アンリに比べたら多少見劣りするかもしれないが、暗闇に佇む青年は妖艶な美しさを放っていた。
「…父の意向だ」
短い言葉で、彼は全てを理解したようだ。ノエルと呼ばれた使用人はノースに近づくと腰を屈め、彼女を見上げた。
「ここから先は私にお任せください」
「私でも構いませんか」と丁寧に尋ねられ、ノースは頷く。少なくとも一週間はこの屋敷にいられるだろう。その間アンリにアプローチできる時間はたくさんある。それよりは今は、目の前のミステリアスな青年のことをもっと知りたいような気がした。
不思議だ。先ほどまでアンリに向いていた興味が、いつの間にか彼に移っている。
「…では、あとは任せた」
アンリはそう呟くとノースの手を解き、廊下の奥へと溶けていった。その姿を見送ると、ノエルは少女の手を取った。
「申し訳ございません。
愛想の欠片もありませんが、悪い方ではないんですよ」
廊下の先を進んでいく。握られた手はアンリよりも大きかったが、氷のように冷たかった。
「…いえ、先ほどまで私の手を取って歩いて下さいました。充分優しい方です」
口から声が漏れる。彼の手がその言葉に反応するかのように、微かに震えたような気がした。
「…そうですか」
廊下はしんと静まり返っていて、月の淡い光だけが漏れている。ノエルは少女を部屋まで案内すると、今日は遅いから眠るように伝え扉を閉めた。
ひとりきりになったノースは、柔らかいベッドに腰掛けながら今日の出来事を思い返す。悪くない出来だった。明日には従者たちも到着するだろう。国の未来のためにも、この機会をものにしなくてはならなかった。
ふと、アンリが話が蘇る。バズビーズチェア、といったか。彼はなんであの話をしたのだろう。少女はベッドの中でしばらくそのことを考えていたが、やがて眠りに落ちた。
次の朝眼醒めた頃には、呪われた椅子の話など、脳裏からこぼれ落ちていた。
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