It is not half so important to know as to feel. ​─── Rachel Carson

fairy

 懐かしい声が聞こえた。木立の隙間を、あの日の笑い声が駆け抜けていく。もうそんな季節か。夕雨は懐かしい音に瞳を細めると、近くにあった木の幹をそっと撫でる。桜の古木はあの日と変わらず、美しい色を天高く伸ばしていた。永く生きた木には魂が宿るという。この木は古の記憶を切り取り、守ってくれているような気がした。もし自分が忘れてしまっても、この木が枯れない限り生き続ける記憶がある。太く角張っている幹は、永年の戦禍の跡を鮮明に物語っていた。あの日。彼が死んでしまった日。つい二、三年前のことなのに、もう断片的にしか思い出せない自分がいた。あの人の声、温もり、柔らかな笑み、全てが遠い。まるで深い海の底へ沈んでいるようだ。記憶という光はもう、夕雨の心には届かない。今聞いた笑い声は、一体誰のものだったか。なぜ笑っていたのか。もう、何も、思い出せなかった。


「…今年も綺麗に咲いたね」


 柔らかい声が響いて、振り向く。旧友は丘の麓から夕雨を見上げ、待っていたかのようにシャッターを切った。世界が切り取られて、思い出が画面に遺る。


「…蒼牙」


 夕雨は青年の名前を呼んだ。口の中で確かに響いたその音に、胸を撫で下ろす。まだ憶えてる。彼の名前は、まだ───。


「カメラ、って言うんだって。

 仕事でお世話になった人がくれたんだ」


 蒼牙はそう話しながら、首から掛けた機械を翳してみせた。夕雨は丘を駆け下り、画面を覗き込む。そこには美しく花を咲かせた木と、ひとりの青年が写っていた。


「綺麗だね」

「うん」

「…桜の妖精みたい」

 

 自分のことを言われてると気付き、こそばゆくなる。画面から視線を逸らすと、彼と目が合った。風が吹いて、青みを帯びた黒髪が揺れる。青空によく似た瞳に、桜の花弁が舞っていた。


「僕たちってここではじめて出逢ったんだ、憶えてる?」


 どう返答したら良いのかわからなくて、曖昧な相槌を打つ。蒼牙は視線を外すと、桜の木を見つめた。


「君に出逢ったとき、この桜には魂が宿ってるんだって思った…

 君が、まるでこの木に宿る神様のように見えたから」


 先ほどよりも強い風が吹いて、花吹雪がふたりの隙間を縫う。その音が笑い声のようにこだました。


「そのことを伝えたら、君は声を立てて笑ったんだ」


 しみじみとした面持ちで、彼は言葉を紡いでいた。耳をそっと撫でていく笑い声に身を預けながら、そんなこともあったのかも知れないと思う。もう白紙になってしまった自分の記憶に、桜の淡い色が散った。


「…綺麗だったな」


 懐かしむような声は、心をそっと包み込むような温かさがある。その温もりを逃したくなくて、彼の手を握った。これから先、自分はさらに多くのことを忘れていってしまうだろう。いつか大切な友の名前すら、思い出せなくなる日がやってくる。でももし自分がこの人生で、誰かの記憶に残ることができたなら。彼らはまた思い出してくれるだろう。自分と過ごした、遠く懐かしい日々を。何気ない日常の隙間で。巡り来る季節の中で。何度も、何度も、思い出してくれる。それだけで、自分は充分だと思えた。


 いつの間にか自分よりも大きくなってしまったその手に、想いを乗せる。僕の記憶がなくなってしまうまではどうか。


 このまま手を繋いでいて。

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