LIFESTORY -Short Story Collection -
幻中紫都
The optimist sees the doughnut, the pessimist sees the hole. ―― Oscar Wilde
Building Blocks
目を覚ますと、空に淡い桃色が堕ちていた。
サクラはゆっくりと体を起こすと、近くの時計を見る。4時37分。秒針が12を刺して、38分。
朝と呼ぶには未だ早いほどだったが、夏の空は茹だるほど明るい。部屋の中が蜃気楼のように揺れて、床に散らばるシャツ、汗ばんだスーツの染みさえもが、まざまざと白日のもとに晒されていた。
静かな朝の空気に纏わり付く不快感を振り払うと、ベッドから身を起こす。隣の女は目を覚まさない。昨日の出来事が脳裏を過っていって、また少し不快感が膨らむ。じっとりとねっとりと、心の量がが増えて、カランと音がする。心に墜ちた積木を拾って、空白に積み上げていく。全てはまた、振り出しに戻っていた。
ベランダに出て、煙草に火を付ける。外の世界に身を乗り出して、自然が生み出す幻想に浸る。桃色の空。視界の隅でほんのりと彼女の香りがして、また乾いた音が心の奥底で響いた。
昨日───今となっては一昨日かもしれないが、夕方の陽が傾いた頃家を出た。早めに帰るだろうと同居人に、そこはかとなく、微かに浮き足だった気持ちも込めて伝えてみたところ、彼女は顔を綻ばせ待っていると微笑んだ。ぱっちりとした瞳が嬉しそうに細まって、頬に赤みが差す。これから君だって仕事のはずだろう。そう言い掛けて辞めておいた。純粋な彼女の心を奪うことはしたくない。例えそれが嘘であったとしても、少女が夢見るには充分すぎるほど甘美であるだろうから。
玄関先で、彼女はもう一度「待ってるからね」と呟いた。その言葉に微笑んで、彼女の額にそっと口付けを落とす。赤らんだ彼女の貌をはっきりと切り取って、扉は閉まった。いつも通りの風景に、不釣り合いな言葉だけがぶら下がっていた。
その日の仕事は、至極簡単なものであった。一言で表すのであればそれは「破壊」。今まで自分が積み上げてきたものを一瞬にして壊す、淡々とした失望の作業。心に積み上げてきた「嘘」という名の木の延棒。それは今日の今日まできっちりと、隙間なく詰め込まれていた。完璧で間違った言葉。満ち足りた空白の慈愛。それらは中身がなく、墜とすと甲高い音で鳴きよく響いた。だから、落すことは赦されない。自分が積み上けているのは、一つ失えば全てが崩れる瓦礫の山であった。
壊すときは思いっきり、持てる気持ち、心、感情全てをして、一思いにやるのが良い。激しい音を轟かせ崩れる山の中に、聞きたくない声は掻き消され、同時に胸の奥が空くような感覚に笑む。誰かの絶望が、不幸が、一抹の貧しい快楽を運んでくる。その狂気に溺れ、目を覚まし、また木を積み上げ始める。今度は天にまで届くほどまで行こうかと無謀なことを一人でに呟いて、苦い笑みが空に消えていく。刹那の快楽を貪るのだ。また不毛な行動を繰り返して、見たくない景色の解像度だけが高まっていく。しかしもう自分は、その快楽に群れるしかない。天に届いた黒は、いつか地獄に帰る。
その日の仕事は標的の射殺。そして組織の壊滅であった。
サクラはどこまでも淡々と、しかし丁重に仕事を熟す男であった。どんな痕跡も糸口も残さない彼は諜報員としての才能に秀で、嘘を吐くことを生業としていた。捲っても捲っても現れない彼の素顔は、未だ誰も知らないまま。彼は政府に言い付けられた情報を思慮深く集め、目的の品を丁寧に回収し、そして諸悪の根源となる組織の存在を世界から消し去る。貧しさと傲慢さの上に成り立つ組織は皆、一本の糸のように脆く、柔軟性に欠けていた。その糸さえ切って仕舞えば、全員が芋づる式に堕ちていく。
彼はいつだって、組織の中心人物に重宝された。容姿を買われ、能力を買われ、身体を買われ、誘惑と甘美の中に堕ちていく。理由はなんでも良かった。ただ引き金を引く数秒と、それを許す隙が欲しい。ただそれだけのために、彼は嘘を積み重ねる。溢れた木の山にその姿は埋もれ、もう見えない。
標的のいる部屋の前に辿り着くと、カランと音がして、またそれが落ちてくる。静かに拾い上げ誰もいないことを確認すると、そっと最後の枠に埋め込んだ。綺麗に整った木の棒は黒ずんで、今にも胸から溢れ出しそうだったが、何とか耐えて扉を開ける。銃声が響いて、心がまた一つ、砕け散った。
煙草を口から離して、一つ息を吐く。少しずつ灰になって焦げていく紙切れが、酷く無価値なものに思えてきて、静かに笑った。眠る女は目を覚さない。そしてもう二度と、目覚めることはないだろう。女は彼の手の中でこと切れた。千切れた蜘蛛の糸だけが、ただ静かに揺れている。「待っている」と微笑んだ無邪気な貌を、ふと思い出した。赤らんだ頬の色が、空に溢れていた。結局また嘘を吐いた。カラン。音がする。墜ちてきた木の棒を拾い上げる。握った手に角張った感触と、冷たい温度。中身のない、酷く軽いもの。蹲み込んで、重ねる。無意味な時間に、溜息だけが募る。紫煙が揺れて、空に消えた。
帰路に着く。歩を進める度に心が軋んで、墜ちてきたものを拾う。今日は酷く、憂鬱な感情に囚われていた。積み木は一層軽々しく、小さく、それでいて嵩張っていた。体積は同じなのに、質量はなく、密度が大きい。細やかな震えで壊れてしまうような脆さと、胸を埋め、締め付ける圧迫感があった。溜息を零せば、振動で木が堕ちる。それを拾い上げてまた重ねる。カタカタと鳴る玩具に目をやれば、重ねた手が引き攣っていた。彼も人間だ。心の容量を超えれば、それは身体に現れる。昨日の香りが消えなかった。あの女の温度が身体に残っている。呻いて、また一歩進む。蝉の鳴き声が、胸を焦がし続けていた。
家の近くはまだ清閑としていて、寝静まっている。彼女ももう寝てしまっているだろう。そう思って、鍵を開ける。扉が開く音がして、自然と心が緩む。
その胸に、誰かが飛び込んで来た。
「………え」
傾いた心から、積み木が数本、地面に散った。甲高い音が響いて、頭痛が脳を焼く。
それを拾おうと慌てて手を伸ばす。しかしその手は柔らかく、温かい人の外郭をなぞっただけだった。胸に飛び込んで来た彼女は、震えながら彼を抱きしめしている。
「叶愛……?」
最初に感じたのは、疑問。そして敷しい吐き気だった。あの日の言葉が、笑っていた。
喉が震えて、声が出ない。口を抑え下を向けば、また一本、それは堕ちる。乾いた音が、何重にも、聞こえる。
あれは、本当の言葉だった。自分が吐いた言葉だけが、嘘だった。
心が高張る。雨のように降る木の棒に打たれて、全身が痺れた。惨めな思いを抱いたまま、それを一本ずつ拾い上げ重ねる。しかし夥しい数のそれは、あっという間に彼を押し潰した。上手く言葉が出てこなくて、ただ喘いだ。震える手で彼女の腕を掴む。そのまま押し倒すと、冷たいタイルの感触と温かい肉の感触が胸の内をなぞった。バラバラと積み木が崩れて、辺りを埋めていく。不恰好な瓦礫の山を、早く壊してしまいたかった。
この肉を食い千切って、彼女の全てを奪ってしまおう。そうすれば、この苦しみからも解放される。彼女は自分を捨て、また一人という孤独を手に入れる。それでいいだろう。
何を躊躇する必要がある?
自分は今まで、たくさんの女に逢ってきた。彼女のよりも美しい者は山のようにいたし、頭の切れる者も腐るほどいた。しかしどれだけ魅力があっても、自分はどこまでも冷酷にその命を屠ってきた。それなのに、今は誰よりも惨めで幼気な女一人に惑わされている。その事実が、自分の完全を否定している。雫が、視界に散った。酷く、気持ち悪かった。木の山が、崩れていく。中途半端な、歪な形を象っていく。でも壊せない。
嫌なのに、壊せない。完璧に詰まった嘘が、少しずつ解けていってしまう。それは、怖い。でも自分はそれ以上に、彼女を壊してしまうことに慄いていた。
「嗚呼、音が……」
昔は鳴り止まなかった。どんどん崩れていく。その上に考えもせずに「嘘」を重ねていく。もうボロボロだった。全てが虚しくて、哀しい。
「音……?」
そう呟いた彼女の頬に、白いガーゼが充てがわれていることに気付く。一体いつ、彼女は帰ってきたのだろう。鼻腔をくすぐる優しい香りが、彼女がここにどれだけ座っていたかを告げていた。きっと客を怒らせたはずだ。暴力を振るわれたかもしれなかった。
それでも自分の嘘を信じて、今の今まで一睡もせずに待っていた。
カラン。音がする。
虚しい、空白の感情。
「………かないで、お願い。聞かないで」
必死に嘆願する。また積み木が堕ちてくる。その不快感の先に、本当の言葉が見える。
不意に笑えてきた。軽く息を漏らすと、少し咳き込む。冷静になって、また一個積み木を手に取った。片付けなくてはと思う。
強く抑え込んでいた手を離す。呆然としている彼女に少し微笑んだ。
「もう寝るね、ごめん」
自分は、上手く笑えているだろうか。不器用に積み上がったその隙間に、本当の自分が見える。
忘れていた感情を、ふと思い出した。その隙間にまた甲斐甲斐しく、「嘘」を詰めていく。
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