第7話 職場の女帝

 瑞沢奏。


 それが透の前で、なおも衰えぬ激情で目つきを厳しくしている女性の名だった。


「君がお父上の隠し子の面倒を見ることになった。勤務時間などに関して、申し出があれば可能な限り対処してあげてほしいだそうだ。私の母も大概だが、君はその上をいっているな。一周回って尊敬するよ」


「尊敬の念を感じないんですが」


「皮肉だよ。まったく君は恐ろしいな。勤務前から私をこんなにイラつかせるとはね」


 奏のこめかみに青筋が浮かぶ。


 仕事でミスをしても、ここまで機嫌を悪くしたりはしない。透も初めて遭遇する反応だ。


「君も知っているだろうが、私の母は離婚経験者だ。従って私はシングルマザーの家庭環境を良く知っている。最初に直面するのは金銭的な問題。それをクリアするために働けば、今度は子供の寂しさという問題が待っている。親の立場からすれば働かざるをえないが、小さな子供に心情を理解するのは不可能だ」


「でしょうね。正直に言えば、俺もとんでもない厄介事を抱え込んだと頭を悩ませてます」


「改めて理解できないな。では何故、君は訪ねて来た少女を追い出さない。傍目には厳しく見えるかもしれないが、その子たちの将来を考えれば君が男手一つで育てるよりもずっと健やかな成長が期待できる」


「身体的には、ですね」


 どういう意味だと奏が目を細める。


「言葉通りです。肉体的には問題なく成長できても、引き取り先で虐めなどがあれば精神的に歪んでしまう。何より彼女らは姉妹で生きていくことを望んでいます」


「被害者には酷な物言いかもしれないが、虐めという問題はどこであってもついてまわる。自らの力で難局を打破する術を覚えるのも人生勉強だ」


「中にはそれができない人間もいるんです。彼女らがそうとは言えませんが、少なくとも俺はそちらの類に入りますかね」


「話にならないな」


 吐き捨てるように言ったあと、ようやく奏は透のネクタイから手を離した。


「……君はパート社員だ。時間の融通はある程度きかせよう。ただしパートとはいえ長時間の契約者だ。生じる責任については理解してもらいたい」


 開店も間近に迫り、売り場の確認と準備を行う奏が離れると、入れ替わりでひょろ長い男性がやってきた。


「お疲れ様っス。透さん、何やらかしたんスか」


 馴れ馴れしさ全開の男がニヤケる。


「何もしてねえよ。それより、配置につけよ。お客様のお出迎えの時間だぞ」


「もうちょっとあるっスよ。それに朝から来店する客の目的なんて、食品売り場のセールに決まってるっス」


 実際にその通りで、全国展開している大手のチェーン店とはいえ、都会と違って田舎はそう混まない。


 開店した当初は違ったらしいが、十年以上も営業を続けていると物珍しさも失せて客数は落ちる。


 とりわけ郊外に広大な敷地を活用した競合店がある場合は尚更だ。


 食品売り場だけはいまだに盛況だが、ポツポツと撤退の話も出てきているみたいだった。


「秘密にしないで教えてくださいよ。あの女帝と顔を近づけて、何をしてたっスか。ムフフな感じっスか」


 にししと笑う男に、透は売り場へ来た直後に奏から言われた台詞を送ることになる。


「お前は阿呆か。二十一歳にもなって、中学生みたいなことを言ってんじゃねえよ」


「甘いっスね。男はいつまでも少年の心を忘れない方がモテるんスよ」


「それはよかったな。だがせっかく女が寄ってきてもお前や俺みたいに、アルバイトやパートだと逃げてくぞ」


「またまたっスね。逆にバイトだからこそ、母性本能をくすぐるんスよ」


 会話が成立しているかどうか怪しいが、この男とはいつもこうなので透はさほど気にしない。


 話ながらも売り場内で商品の欠品がないか見回り、通路に面した商品棚の間に立ち、一つ隔てた隣には会話中の男が陣取る。


 開店直後はこうして通りかかるお客様に「いらっしゃいませ」と声をかけるのが決まりになっていた。


 家電売り場の奥に食品売り場があるので、意外に開店直後から透が立つ前を歩いていく客もちらほらといる。


 しかしながら店舗の入口は二つあり、もう一つは食品コーナーに直結しているので、そちらを利用する客が大半だった。


「バリバリ仕事をしているキャリアウーマンほど、バイトで汗を流すか弱き少年を保護したくなるもんなんスよ。透さんにはわからないかもしれないっスけどね」


「生憎と私にもわからないぞ、戸松修治。私は君を一切保護したくはならないからな」


 透の正面、医療品や化粧品を売ってるコーナーに背を向ける形で立つ奏が言った。


「フルネームで呼ぶのは勘弁っス。それに奏さんはほら、女帝っスから」


「……君も私に奇妙な呼称をつけるのはやめてもらえるか。大体何だ、その女帝というのは」


「言葉通りの意味っス。男子社員の間で有名っスよ。男を寄せ付けない孤高の女帝。触れる者は皆殺しって。実は同性愛者なんスか?」


「君はよくもまあ、失礼な言葉を躊躇いなくそこまで並べられるな。感心するよ」


「どもっス。これが俺の取り柄なんス」


 親指を立てる男に、疲れ切った様子で奏は軽く額を押さえる。


 もう付き合っていられないと言いたげだったが、修治は尚も執拗に下劣な質問を浴びせた。


「実は処女じゃないかって噂もあるんスけど、事実っスか?」


「答える理由も義務もないな。ところで、噂を流しているのが誰か教えてくれないか? 本日の我が社のセクハラ相談室は大忙しになりそうだ」


「げっ! と、透さん、助けてくださいっス」


「こっちを見るな。俺が仲間だと思われるだろ。自業自得なんだから、土下座でもしてお前が自分でなんとかしろ」


「主任代行は薄情っス。わかったっス。主任の女帝を相手に責任を取ってみせるっス」


 いつになく真剣な顔をしたと思った直後、修治は胸を張って奏に宣言をした。


「俺は童貞っス。これでおあいこっスね」


「何がだ!」


 声を荒げる奏を、慌てて透が宥める。


 すでにスピーカーからは開店を告げる音楽とアナウンスが流れていた。





 昼休憩を経て、夕方に近くなったくらいの時間だった。


 忙しなく売り場を動き回る透の前に、二人の少女が顔を出した。里奈と奈流である。


 二人には勤務先を教えておらず、何かあったら携帯電話に連絡しろと伝えていた。


 驚いた透が事情を聞く前に、種明かしがされる。


「今日も頑張っているわね」


「綾乃さんですか」


 姉妹を追うように歩いてきたのは綾乃だった。


 昨夜のカジュアルな服装とは違ったブラウンのスーツ姿で、下半身はスリットの入ったタイトスカートに包まれている。


 どうしてここへと尋ねる透に、綾乃が心外だと腰に両手を当ててため息をつく。


「一緒に生活するのであれば、彼女たちの下着類も必要になるでしょう。それらを買いに来たのよ。それとも透君が一緒に選んであげるの?」


「いや、それは勘弁してもらいたいです」


「でしょう? だから自宅を訪ねて、透君に頼まれたからと連れ出したのよ」


 にっこり笑う綾乃に、里奈がひん剥いた目を向ける。この驚きようからして、どうやら言葉巧みに騙されてしまったらしい。


 怯えるように里奈が聞く。


「も、もしかして私、早速迷惑をかけてしまったんでしょうか?」


「身の回りの物が必要なのは確かだし、男の俺じゃ頼りにならないこともあるだろ。綾乃さんなら信用して大丈夫だ。気にするな。ただし、知らない人にはついていくなよ」


「うんうん。透君も一日でずいぶんとお兄さんっぽくなったわね」


「冷やかすのはやめてください」


 立ち話をしていると、同じ売り場で勤務中の奏も綾乃に気がついた。


「買物に来たんなら彼の仕事の邪魔を――おや?」


 真っ直ぐに母親へ歩み寄った奏が、足元にいる二人の少女を見つける。


「なるほど。これが立花君が引き取ったという少女か。勤務中に遊びに来て、彼に迷惑をかけたら駄目だぞ」


 にこりともせずに奏が注意を与えたせいで、姉妹は揃って瞳に怯えの色を宿らせる。


 威圧感たっぷりというわけではないが、好意を抱かれてないのを敏感に察したのだろう。


 奈流を守るように前に出た里奈が、ごめんなさいと頭を下げる。


「いい大人が虐めたら駄目でしょ。それにここには私が連れてきたのよ。まったく何をプリプリしてるのかしら、この子は」


「プリプリって……。私はただ、売り場主任としての務めを果たしているだけです。彼には仕事がありますから」


「透君を主任補佐に抜擢しただけあって、かなりお熱ね。奏が独占欲の強い女性だったとは驚きだわ」


「違います!」


 ピシャリと否定したあとで、頭痛がするとばかりに奏はこめかみを押さえた。

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