第4話―サゲ―
その夜。
鈴木が暮らすアパート脇の電柱で、こっそりと息を潜める人影が一つ。佐藤です。何も知らずに帰って来た鈴木の前に、ぬっとその姿を現しました。
怪しげな影に飛び上がらんばかりに驚いた鈴木ですが、その正体にすぐに気付きます。
「あっ、先輩! 急に会社から居なくなって、何してたんすか! 電話もガン無視だし、皆ですげー探したんすからね」
「…………」
「マジでどうしたんすか……取り敢えず、家に来ます?」
「…………」
溜息を吐いて歩き出す鈴木の後を、佐藤は黙って付いて来る。何やら剣呑な様子に、鈴木は声を掛けたことを後悔しましたが、今更「やっぱ、なしで」とも言えません。仕方なく部屋に通します。
「ただいま、リアちゃん。今日はお客さんが居るんだよ……あーやっぱ、隠れちゃってますね」
「……どこに居るんだ?」
「多分クローゼットっす。人見知りなん……ちょちょちょ、先輩、何してんすか! やめて下さいよ!」
ずかずかと上がり込み、クローゼットに手を伸ばす佐藤に、鈴木が追いすがります。
「獏は臆病なんすよ、止めて下さい! いくら先輩でも、失礼じゃないす……」
ぐさり!
憤慨する鈴木の顔が歪みました。その腹には深々と包丁が突き立ってる。柄を握っているのは勿論……
「お前のせいだぞ」
獏が手に入る当てがあるなら、お前から取り上げる必要なんて無かったのに……と呟き、包丁をじりじりと鈴木の腹に押し込んでく佐藤。やがて鈴木は頽れ、動かなくなりました。
静かになった部屋で、佐藤の耳に、キュウキュウとか細い鳴き声が聞こえてきます。リアちゃんの声でしょう。血で染まった両手でクローゼットの扉をそうっと開くと、隅っこで小さなパンダみたいな毛玉が震えてる。
「おいで」
手を伸ばす佐藤の脇をすり抜け、獏はクローゼットから飛び出します。と、部屋の惨状に気付いたのでしょう、血の海の中でこと切れた飼い主の周りをうろうろとして、鳴き声を上げます。
その隙に、背後から獏を掴み上げる佐藤。獏はその手を思い切り齧り逃れると、暴漢から庇う様に鈴木を背に、激しく唸る。再び掴みかかる佐藤の手。鋭い爪を立てる獏。
暫く一人と一匹は格闘してましたが、目玉を狙われた佐藤が思い切り腕を振ると、思いの外力が強かったんでしょう、ふっ飛ばされて壁に激突した獏は「ギュッ」と一声上げ、それきり動かなくなっちまいました。
佐藤はへなへなと座り込みました。
獏が死んでしまったら、今度こそ本当に、二度と、あの快感は味わえない。後輩を手にかけてまで欲しかったものは、もう手に入らない。深い悲しみと喪失感に、とめどなく涙を流す佐藤。
騒ぎに気付いたご近所さんの通報で警察が踏み込んだ時も、佐藤は鈴木の亡骸の傍で座り込んだまま。そのまま敢え無くご用となったのです。
さて、警察署の取調室では、刑事さん達が何やら困ってます。
佐藤は取り調べに素直に応じるものの、バクのせいだの、悪夢を食うだの、その言動は一向に要領を得ません。後輩を刺したことは理解している様だが、「あいつが悪い」の一点張り。ですが、被害者に落ち度があるとは到底思えず、捜査本部の面々はげんなりしております。
刑事さんの一人は薬物検査キットを取りに行ってるようです。佐藤がヤク中だと疑ってるんでしょう。
「ねえ、刑事さん」
「なんだ」
「獏はどうなりました? やっぱり死んでましたか?」
取り調べの間、佐藤はどろんと淀んだ目で、時折そんなことを聞いてきます。被害者の飼っていたペットだって言うんですが、お上が踏み込んだ時から今の今迄、鈴木の部屋では犬猫どころか、ゴキブリ一匹見掛けてません。
自分が刺した後輩の事ではなく、飼われてたペットの事ばかり訊ねる佐藤に、刑事さんが険しい顔になります。
「あのね、何度も聞くけど、『バク』ってのは何なの?」
「獏は獏ですよ。悪夢を食べる獏。ああそうだ、刑事さん、獏のブリーダーがどこに居るか調べて下さい」
「……それ聞いて、どうする心算だ」
「貰いに行くんですよ、俺だけの獏を。ああー、気持ち良いだろうなあ」
刑事さんの額に青筋が浮きます。
――そんなのこっちが聞きてえよ。例え知ってても教える訳無いだろ、お前みたいなジャンキーに――そんな言葉をぐっと飲み込み、刑事さんは無言で取調室を後にしました。
目の下を真っ黒な隈で染め、濁った瞳で柵に囲われた窓を見上げる佐藤は、もう何日もまともに眠れてません。ただぼんやりと、天井を見るともなく見てます。
寝れば悪夢に怯え、目覚めれば鈴木を刺した感触が甦り、自由の無い状況に放心する。ここが何処か、あれからどれ位経ったのかも分からない。絶望すら感じなくなった頭で分かるのは、全てを犠牲にしても手に入れたかったあの快感は、二度と味わえないだろうということだけ。
どうしてこうなった。
あれは本当にあったことなのか。
今は何時なのか。
夜なのか朝なのか。
ここは何処だ。
分からない。
やがて、ぶつぶつと呟き続ける佐藤は、誰も居ない閉ざされた部屋で一人頷きました。
ああそうか、分かったぞ。今、俺が居るのは……
「悪夢の続きに違いない」
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