ラヴ・マーシー・ヤサイマシマシ

@okurayamanoue

ラヴ・マーシー・ヤサイマシマシ

 背脂の溶けた熱々のスープに、ぼくは勃起したちんぽを向けていた。

 口の中には一人前の麺が詰め込まれている。わしわしとした幅の広い麺で、まだ茹でられていない。小麦の味がする。

 向こう側では乾が無防備に眠っていて、周りを全裸のヤクザが取り囲んでいた。


 乾と出会ったのは、ぼくがまだ高校生だったころだ。

 ぼくは地域で名の知れた不良で、小、中と学校を牛耳っていた。そのころのぼくは、校長とのタイマンに勝利して、学生の身でPTAの会長に就任したりしたものだ。

 ぼくは命令されることに耐えられない人間で、命令を蹴飛ばすだけの力を持っていた。それは高校生になっても変わらないはずだった。

 桜に覆われたアスファルトを、上級生から注がれる畏怖の視線を浴びながらぼくは歩いていた。入学式の時点で上級生五百人全ての第二ボタンを奪い取っていたぼくは、初日から全校生徒に勝利していたのだ。

 しかし、そこには乾が居た。大きなカバンを提げて、チェーホフ全集の第十二巻を読みながら、ぼくに目もくれずに歩く男が。

彼は度の強い眼鏡をかけ、髪とシャツをくしゃくしゃにしたまま、なにかブツブツと独り言を漏らしていた。そいつは入学式には出ていなかったようで、見覚えがなかった。もしも見かけていたら、決して忘れなかっただろう。なぜなら、そいつは美しかったからだ。

身なりを全く整えていないにも関らず、そいつの髪はそれまで見たことのあるどんな髪の毛よりも美しい黒色で、肌は剥きたてのゆで卵のようにつるつるとしていた。身長は百六十センチもないくらいだったが、足は長く、スラリとした体型をしていた。

 まるで女の子みたい、と形容することをためらうほど美しい。

 冷たい風がぼくの首筋をなで、続けて桜を舞い上がらせた。ぼくは立ち止まって、そいつが電柱にぶつかるところを見ていた。

 我に帰ったぼくはそいつに歩み寄り、名前を尋ねる。

「乾」

 そいつは鼻を抑えながら、小さな、幼い声でそう答えた。鼻血が乾の手を汚していた。ぼくのことを睨むその目は、泉に映る星影のようだ。

「金出せよ」

 ぼくは混乱していて、人生で最も口に出した言葉を、もそもそと言い放った。

「ねえよ」

 そいつは、なおも美しい声でそう言い返した。

「じゃあ、なんならあんだよ」

「美しき魂」

 乾は真顔で言った。

「嘘つけ」

 ぼくは乾のカバンのファスナーを開けた。

 そこには、チェーホフ全集が全巻セットで入っていた。信じられない。

「なんでこんなもん持ち歩いてんだよ」

 ぼくは間抜けな声を上げた。

「美しいから」

 その瞬間、ぼくは乾に参ってしまった。

「ティッシュならあるぞ」

 ぼくは自分の懐のポケットティッシュを乾に差し出した。彼の鼻血は、すでに止まっていた。

「どうも」

 乾は無感動にそれを受け取り、手と口元を拭った。白い肌、赤い血、白いテッシュ。彼はそのテッシュで鼻をかみ、また鼻血を出した。

「バカじゃねえの」

 乾はなにも言わず、ただぼくを睨んだ。その睨みかたは、春の朝焼けのように優しかった。

「学校サボろうぜ」

 ぼくは言った。乾のことをもっと知りたかった。

「断る」

 乾は赤く染まったテッシュで鼻をおさえていた。

「なんでだよ」

 ぼくは乾の胸ぐらを掴んだ。

「君がエラそうにしているから」

 ぼくは手を離した。

「サボることには反対してねえのかよ」

「していない」

「おれとサボるのが嫌なのかよ」

「ぼく」

 ぼくは目を見開いた。こいつはぼくに命令しているのだ。

「ぼ、ぼくとサボるのが嫌なのかよ」

「お願いですからぼくと一緒にサボってください」

 ぼくは歯ぎしりした。頭がくらくらし、めまいがしていた。ぼくは一体どんな顔をしていたのだろう?

「お願いですから、ぼくと一緒にサボってください」

「断る」

 ぼくらは一緒に登校し、一緒に遅刻した。


 ぼくと一緒に行動していた乾に、周囲の人間は興味を持っていたようだ。あるいはただのパシリだと思われていたかもしれない。どう見たって乾はひ弱そうだったし、声も小さいし、積極的に行動することはなかったし、ずっと本を読んでいたからだ。ぼくは校内では乾に話しかけなかった。というより、どうやって話しかければ良いか分からなかったのだ。

 乾とぼくは同じクラスで、やはり本を読んでいた。ぼくはぼくの舎弟を名乗る男たちを追い払い、ただ乾の横顔を眺めていた。乾の隣の席を強奪して。

 授業が始まると、舎弟を名乗る男たちは騒ぎ立て、くだらない話で教室を埋め立てはじめた。こういうやつらはどこに居てもこうだ。そしてぼくもそれに加担していた。ぼくが奴らの話に、にやりと笑いでもすれば、それが正義になるのだ。授業を進める側が悪であるかのように身を縮めていた。乾は本を読んでいた。

 と、乾が本を閉じ、ノートをちぎってなにかを書きつけて、ぼくに手渡した。そこには「やかましい」とだけ書かれていた。

「やかましい」

 ぼくはただそれを読み上げた。教室はシーズンオフの軽井沢のように静かになった。教師すらも黙ってこちらを向いている。乾が本のページをめくる音だけが聞こえた。

 昼休みになり、各々が教室から飛び出していった。ぼくは乾にささやく。

「どこかに昼、食べに行きませんか」

 乾は本を閉じ、厳かにうなずいた。

 ぼくらは教室を出て、靴を履き、学校を出た。

「ラーメン食べに行こう」

 乾は言った。彼はぼくの手をとり、ぼくを導く。早足で。彼の手は冷たく、ぼくの手はとてつもなく熱かった。柔らかい皮膚の感触は、そこにぼくの心臓があるように思わせた。

 乾はぐんぐん進んでいき、路地裏のある店にたどり着いた。「らあめん 無頼庵」と書かれた黄色い看板が煤けている。迷うことなく戸を開けると、乾はぼくを引っ張って中に入れた。にんにくと豚骨の臭いがキツイ。

 カウンター席のみの狭い店内には券売機が置かれて、奥の席には常連らしきおっさんが座って、山盛りの野菜と麺を吸い込んでいた。

「特製らあめん大盛り」

 乾が言った。「じゃあぼくも」と言いかけたが、乾が券売機を指さしたから、ぼくは財布を取り出し、何枚かの千円札と引き換えに何枚かの食券を手に入れた。乾はいくつかのトッピングを追加していた。

「ニンニク入れますか」

 食券を受け取った店主が尋ねる。

「ヤサイマシマシ、ニンニク、アブラマシ、カラメ」

 乾が奇妙に平坦な声でそう答え、店主はうなずいた。

「そっちのお兄さんは」

 ぼくはうろたえ、「じゃあぼくも同じで」とだけうなるように言った。

 乾はどこからかペットボトルの黒烏龍茶を取り出し、黙っていた。一文字に結ばれた唇をじっと見ていると、ぼくたちの目の前に、どんと山の乗った丼ぶりが置かれた。もやしとキャベツの山に、肩身の狭そうなチャーシューが添えられている。

 ぼくは箸を持ってそれを切り崩しにかかったが、乾はレンゲとは箸を流麗な動作で操り、野菜の底からスープを掬い出しては飲み、麺を引っ張り出してはすすっていた。器から立ち上る湯気で、彼の眼鏡は白く曇っている。

 ぼくたちは完食し、店を出た。なんとか気合で食べきったものの、あまりにも満腹だった。ベルトを緩められるだけ緩めたほどだ。昼休みはすでに終わっていた。

「どこに向かってるんだ?」

 乾がぼくの後ろを歩きながら尋ねた。ぼくは自分の家に向かって歩いていた。どこでもいいから落ち着ける場所で座っていたかった。

「学校じゃないことは確かだね」

 ぼくはうなずいた。脇腹が痛いから答える気力もなかったのだ。ぼくは乾のぶんのカバンも持っていて、それはけっこうな運動になっていた。

 目の前にぼくの家があった。いつの間にかたどり着いていたのだ。鍵を開け、乾を招き入れる。

 それは二階建ての、ごく一般的な新築の住居で、ぼくとぼくの家族が住んでいた。親父と母さんは働きに出ていて、六時くらいまでは自由に使うことができた。別に二人が居ようと自由に使うことはできたのだが。

「なんか面白いことしてよ」

 カバンからチェーホフ全集を取り出し、勝手にぼくの本棚に並べていた乾が言った。

「ショートコント、佐渡ヶ島」

「つまらん」

 ぼくが渾身のショートコントを披露する前に、乾はばっさりと切り捨てた。

「ショートコント、小豆島」

「たのむからショートコント以外で」

 そう言われると、ぼくはなにも言えなくなってしまう。この世にショートコント以外で面白いことって、片手で数えるくらいしかないじゃないか。

「炭酸水ある?」

 ぼくは自分の部屋にある小型冷蔵庫から、ウィルキンソンの炭酸水を取り出し、コップに注いだ。

「ここにちんぽを浸すんだよ」

 乾が嬉しそうに笑った。

「ぼくが?」

「他に誰がいる?」

「そんなことが面白いわけがあるか」

「見てる分には面白いさ」

 ぼくが嫌がるほどに乾の広角は上がり、そして目が爛々と輝きはじめた。

「分かった。やるよ」

 乾の目が見開かれた。

「本気?」

「お前が命令するからには、ぼくとしてはやらざるを得ない」

 ぼくはズボンとパンツを下ろした。

「けっこうデカいんだね」

「ただし」

「はい」

 ぼくの決意に満ちた声に、乾は姿勢を正した。

「生きて帰ったらぼくにキスしてくれ」

「バカじゃねえの?」

 ぼくは炭酸水に突入した。

 百万匹のアリに噛みつかれたような、あるいは体内から二十万匹のアニサキスが這い出ようとしているかのような痛みが走り、喉に息がつまり、全身の筋肉という筋肉が硬直して、ぼくの脳漿が全て炭酸になった。

「バカじゃねえの?」

 乾はぼくの頬に口づけし、心底面白そうに声を震わせた。その唇の感触は一瞬でぼくの神経を伝い、そしてそれは痛みにハイジャックされ、記憶に定着する前にぼくの体から抜け出してしまった。

 こうしてぼくたちは友だちになった。もしくはそれ以上に。

 ぼくたちは日々喋り、命令され、時にラーメンを食べに行った。一年生の間にぼくはチェーホフ全集を二度読破し、二年生の間にドストエフスキー全集を三度読破し、三年生の間にチェーホフ全集を五度読破した。ぼくの本棚は、乾が持ってきた本で埋め尽くされていた。元々並んでいた『ギャグマンガ日和』や『角川日本地名大辞典』なんかは全て持ち去られていた。

 ぼくらは映画館に行き、カフェに行き、古本屋に行った。映画館で乾が選んだ映画は大体がアタリで、ぼくが選んだ映画は外れだった。面白いものを選ぶ勘のようなものが、乾に備わっていた。

 同じように、彼の選ぶカフェは美味いコーヒーを出した。あるいは、趣味の良いジャズを聴かせた。彼が古本屋で見つけてくる本はほとんど全て面白く、滋養に満ちていた。そういった本を、そういったカフェで読むのは素敵なことだった。

 乾はぼくの家に度々遊びに来て、あらゆる意見を交換した。チェーホフの戯曲が持つ喜劇性や、短編小説との比較。映画字幕と吹き替えにおける翻訳の違い。外国語のユーモアをいかに翻訳するのか。ナチス・ドイツによる言語統制の傾向。ベトナム戦争と戦争映画について。肛門括約筋を鍛えるべきか否か。ウォシュレットの功罪。ミネラルウォーターを買うかどうか。ジミ・ヘンドリックスがジャズに与えた影響。学校内でいかに露出するか。などなど、あらゆることについて。しかし、将来のことについてはなにも語らなかった。お互いに示し合わせたかのように。

 ぼくは文系の大学に進学し、乾はフリーターになった。ぼくたちは卒業式に出席しなかった。

いつしかぼくたちは会わなくなっていた。どうしてか、ぼくたちは一切の連絡先を交換していなかったのだ。ぼくは乾の住処も知らなかった。ぼくは暴力と支配から足を洗い、つまらぬ日々を過ごしていた。


 ぼくは生唾と麺を飲み込んだ。意識が現実に戻る。

 全裸のヤクザたちがぼくを見つめている。

「なにに勃起してんだよ」「ドMかテメエコラ」「そのラーメン、メスなのかよテメエ」「ラーメンうまかったかコラ」「そんなにデケえと器に入んねえだろうが」「むしろよくパンツに入ってたなテメエコラ」「なにやってんだアホ」「殺されてえのかテメエ」「なにがしてえんだコラ」

 ヤクザは口々に怒声を上げ、眠っている乾のすべすべとした肌や黒檀のような長い髪にベタベタと触れていた。彼は黒いレースのついたランジェリーと、安っぽい生地のセーラー服を身に着けていて、さるぐつわを噛まされていた。

「馬鹿どもが、おれは乾に興奮してるんだよ」

 ぼくは呟き、湯気の立つスープに突入した。

 こんな状況になったのは乾のせいだ。

 乾と会わなくなってからも、ぼくは「らあめん 無頼庵」に通っていた。そこはいつもほとんど客が入っていなかったし、その内に乾と再会できるかもしれないと思っていたからだ。

一年間、ぼくと乾が出会うことはなかった。周りの人間も乾の近況を知らなかった。というのも、乾と親しかったのはぼくだけだったからだ。ぼくは何度か乾で自慰できないか試してみたが、どうしてもできなかった。だからと言って、他の人間を相手にすることも考えられなかった。

 それで、今日も昼はラーメンを食べに行った。店先には、いかにもチンピラっぽい風貌の男が立ちふさがっていて、ぼくは音も立てずにそいつの首を締め、気絶させてから入店した。ぼくの戦闘能力は一切衰えていなかった。

 店内には全裸のヤクザと乾が居た。とりあえず、ぼくの望みは叶ったようだ。乾と再会できた。ぼくは機械的に食券を買い、カウンターに差し出したが、店員が居なかった。

「すいませーん」

 ぼくは店の奥に向かって店員を呼んだ。ヤクザの一人の目が光り、全員の視線がぼくに向けられた。

「兄ちゃん、今日は貸し切りだよ。さっさと帰りな」

「そこで眠りこけてるのは、ぼくの友だちなんだ」

「それで?」

「ちょっと見てろ」

 ぼくはカウンターの内側に回り込み、器を取ってかえしを注ぎ、スープで割った。麺の束を一つ掴み、口に含んだ。器をカウンターに置く。ぼくはズボンを下げながらカウンターから出てくる。

 このようにして冒頭に戻る。

 口の中は粉っぽい味で満たされ、ちんぽを熱々のスープに挿入する。

 ヤクザの口から苦痛への共感と畏怖の吐息がこぼれ、彼らの意気とちんぽが一斉に萎えた。それは見事な光景だった。しかし、ぼくにとってその行為は、なんら痛みを伴わなかった。何度となく強炭酸水にさらされてきたぼくは、もはやぼくの意思よりも頑強になり、なおかつぼくの手足よりも自在に操ることが可能になっていたのだ。

 ぼくは涼しい顔で、六十秒以上そのままの姿勢でいた。ヤクザたちの意識は完全にぼくに向けられ、乾のことを見ているのはぼくだけになった。恐らく世界中でぼくだけに。

 器から身を引き、スープを滴らせたまま、ぼくはヤクザたちに向かって行った。

 彼らは呆気にとられ、あらゆる防御反応を忘れていた。ヤクザは九人居て、ぼくは零コンマ五秒の左ショートフックでそれぞれのアゴを撃ち抜いて、それでもなお倒れない相手のテンプルに、右フックを叩き込んだ。記憶が飛んでしまうことを期待して。

それで全ては終わった。

ぼくは乾のさるぐつわを外し、ビンタした。そうして乾は目を覚ました。

「なんだこの服装」

 乾はぼやいた。

「なんだこの状況」

 ぼくはぼやいた。

「ヤクザにエラそうにされたからさ」

 乾は言った。

「ヤクザにエラそうにしたからか」

 ぼくは言った。

「なんでそんなにちんぽから湯気が立ってるんだよ」

「ちんぽをスープに漬け込んだから」

「バカじゃねえの?」

 乾は笑い、ぼくの唇に口づけした。

 ぼくはその感触を楽しんだ。それは素敵なことだった。

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