第3話 飲食店の店員が、お客さんに「お会計3,000円です」と言うと、客が「こんな高い金を払えるか!」と店を飛び出す。

六本木の喧騒から一歩奥に入った路地裏、こじんまりとした飲食店「ごはんや花子」。ランチタイムのピークも過ぎ、店内には数組の客がまったりと食後の余韻を楽しんでいた。店の隅のテーブルで、最後の一口を頬張った若い男がそろそろと立ち上がる。仕事の合間に立ち寄ったという風情で、スーツの襟元にはわずかに汗が滲んでいる。

彼は新卒の社会人で、今年の春から大手広告代理店に勤め始めたばかりだった。今までは学生時代、親元で過ごしており、生活費や学費の心配をすることなく過ごしてきた。両親が細心の注意を払って、何不自由なく育ててくれたおかげだ。それが当然だと思い込んでいた彼は、金の心配など一度も考えたことがなかった。

「ごちそうさまでした。お会計、お願いします」

カウンター越しに笑顔を浮かべた店員が、手慣れた動作でレジを操作する。やや不安げな表情の彼を一瞥し、にこやかに告げた。

「お会計3,019円でございます」

「なに!?」

彼は思わず声を上げた。顔から血の気が引き、目を丸くする。額に汗が滲み、ポケットをまさぐり始める。彼の手のひらには、くたびれた革の財布が握られていた。

中を覗き込むと、そこには僅か1,000円札一枚がぽつんと横たわっている。彼は絶句し、何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこない。周囲の視線を感じながら、彼はその場に突っ立ったままだった。

「申し訳ありませんが、消費税が100%に引き上げられたものでして…」

店員の説明は彼の耳には届かない。現実がじわじわと押し寄せ、彼の膝が徐々に震え始める。まるで力が抜けたかのように、彼はゆっくりと膝から崩れ落ちていった。

床に膝をついた彼の姿は、まるで絵に描いたような哀愁に満ちていた。周りの客たちも一様に驚きの表情を浮かべるが、誰一人として動けない。

「すみません、少々お待ちください…」

店員が困惑した様子でバックヤードに消える。その背中を見送りながら、彼はただ無力に膝をついていた。初めて金の重みを実感し、親の苦労を思い知る瞬間だった。現代日本が迎えた新たな時代の洗礼を、彼は全身で受け止めていたのだった。

彼の脳裏には、今まで意識していなかった数々の思い出が急速に浮かび上がってきた。大学の学費を払ってくれた両親、毎月送られてきた仕送り、そして社会人になって初めての給料で贈った小さなプレゼントに大喜びしてくれた母親の笑顔。彼はその全てが、当たり前ではなかったことに気付く。

「すみません、お待たせしました」

店員が戻ってきた。彼はようやく現実に引き戻され、目の前の店員に視線を合わせた。

「お支払いの件ですが、分割払いにできます。今日は1,000円で大丈夫です」

店員の優しさに、彼の胸は締め付けられるようだった。かつての自分なら、この親切を当然のことと思ったかもしれない。しかし今の彼には、その申し出がどれほどの慈悲に満ちているかが痛いほどわかった。

「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」

震える声で感謝を述べながら、彼は財布から1,000円札を取り出し、店員に手渡した。店員は微笑んで受け取り、レシートを差し出した。

「こちらがレシートです。次回ご来店の際に、残りのお支払いをお願いしますね」

彼は深く頭を下げ、店を後にした。外に出ると、初夏の柔らかな陽光が彼の顔を照らし、少しだけ心が軽くなったように感じた。それでも、彼の胸の中にはまだ重い何かが残っていた。

「どうやって、親に恩返ししよう……」

自問自答しながら、彼はふらふらと歩き始めた。無意識のうちに、実家へと続く電車の駅へと向かっていた。

夜、彼は実家のドアをノックした。驚いた顔で迎えた母親と父親に、彼は何も言わずに深く頭を下げた。

「ごめんなさい、今まで本当にありがとう……」

その言葉に、母親は優しく微笑み、父親は静かに頷いた。彼の心に積もっていた重荷が、少しずつ解けていくのを感じた。家族の温かさが、再び彼の心に灯をともしたのだった。

「これからは、ちゃんと自分の力で生きていくよ」

その決意と共に、彼は新たな一歩を踏み出した。消費税100%の時代を迎えた日本で、彼は少しずつ、大人としての責任と自覚を持ち始めるのだった。


次の日、彼は早朝に目覚め、職場に向かう電車の中でスマートフォンを見つめていた。ニュースサイトには、消費税100%の影響がますます深刻化しているという見出しが並んでいた。生活費が急騰し、倒産する中小企業が相次いでいる。彼の心は再び重く沈んだ。

会社に到着すると、オフィス内の雰囲気もどこか張り詰めていた。上司の顔は険しく、同僚たちもどこか落ち着かない様子で作業に取り組んでいる。

「おい、聞いたか? 今月のボーナス、カットらしいぞ」

隣のデスクから漏れ聞こえる囁き声に、彼の心はさらに重くなった。ボーナスがカットされるとなると、家賃や生活費をどうやりくりすればいいのか、不安が頭をよぎる。

昼休み、彼は同僚たちと近くのコンビニで弁当を買おうとしたが、どの弁当も高額になっていて、手が出せない。結局、パン一つとペットボトルの水を買うだけで済ませた。

「これが現実なんだな……」

職場に戻り、デスクに座ってパンをかじりながら彼はため息をついた。仕事の合間にも、家計の見直しや支出の削減について頭を悩ませる日々が続いた。

数週間後、彼の生活はますます厳しくなっていた。給料日が近づくにつれ、彼の心は不安と緊張でいっぱいだった。家賃の支払い、光熱費、食費……全てが彼の負担となってのしかかってくる。

「これじゃ、どうにもならない……」

ある夜、彼はベッドに横たわりながら天井を見つめた。親に頼るわけにもいかず、彼は孤独感に苛まれていた。翌朝、出勤するための力がどうしても湧いてこない。

その日、彼は仕事を休んだ。上司に電話で「体調が悪い」と嘘をつき、自宅で一日中悩み続けた。社会人としての重責と、現実の厳しさが彼を追い詰めていた。

夕方、スマートフォンに母親からの着信があった。彼はためらいながらも電話に出た。

「もしもし、元気にしてる?」

母親の声はいつもと変わらない優しさに満ちていたが、彼はその声に応えることができなかった。涙が頬を伝い、声が震えた。

「母さん……俺、もうダメかもしれない……」

その言葉に母親は驚き、しばらく沈黙が続いた後、静かに語りかけた。

「大丈夫、私たちはいつでもあなたの味方だから。どんなに辛くても、諦めないで」

彼はその言葉に僅かな希望を見出したが、暗雲は依然として彼の頭上に垂れ込めていた。消費税100%の時代、彼が立ち向かうべき課題はまだ山積みだった。

夕暮れの街並みが薄暗くなる中、彼は再びベッドに横たわっていた。母親の言葉が胸に響くものの、現実の厳しさに変わりはなかった。消費税100%という異常事態に、彼の心は日に日に摩耗していくのを感じていた。

次の日、彼は出勤しなければならなかった。職場に向かう足取りは重く、同僚たちの顔も疲れ切っていた。会社に着くと、上司からの呼び出しがあり、会議室へ向かう。

「佐藤君、少し話があるんだ」

上司の厳しい表情に、彼は不安を抱きながら席に着いた。会議室のドアが閉まると、上司は静かに話し始めた。

「今の経済状況を考えると、会社も大変な状況にある。経費削減のために、どうしても人員整理が必要なんだ」

その言葉に彼の心は一気に沈んだ。上司の説明が続く中、彼は自分の名前がリストに載っていることを理解した。

「申し訳ないが、佐藤君もその対象になってしまった。詳しい手続きは人事から説明がある」

上司の言葉は冷たく響き、彼は何も言えなかった。退職を告げられたその瞬間、彼の頭の中は真っ白になり、ただうなずくことしかできなかった。

会社を後にした彼は、途方に暮れて街を歩いていた。頭の中では、今後の生活や仕事探しについて考えようとするものの、不安と恐怖が押し寄せ、何も考えられない。夕暮れの街灯がぼんやりと灯る中、彼の影は長く伸びていた。

「どうすればいいんだ……」

声に出しても、答えは見つからない。再び実家に戻る勇気もなく、彼は公園のベンチに腰を下ろした。冷たい風が彼の頬を撫で、涙が静かにこぼれ落ちた。

夜が更けると共に、彼は公園で一夜を過ごすことに決めた。家に帰ることもせず、ただ無力感に打ちひしがれていた。翌朝、薄明かりの中で彼は目を覚ました。周囲には数人のホームレスが寝ており、彼もまたその一員になってしまった現実を受け入れざるを得なかった。

日々は過ぎていくが、彼の状況は一向に好転しなかった。アルバイトを探そうとしても、消費税100%の影響で求人は少なく、面接に行っても断られることが続いた。食事もままならず、痩せ細っていく自分の姿に絶望を感じた。

ある日、彼は公園で偶然再会した古い友人に声をかけられた。その友人も同じように仕事を失い、路上生活を送っていた。

「お前もか……」

友人の言葉に、彼はうなずいた。二人で身の上話をしながら、未来の見えない暗い夜を過ごした。友人の存在が少しの慰めにはなったが、彼の心は依然として重く沈んだままだった。

消費税100%の時代、彼のような若者が増えていった。社会はますます不安定になり、人々の生活は厳しさを増していく。彼はその波に飲み込まれ、もがきながらも前に進もうと必死だった。しかし、その先に光が見える日はまだ遠かった。


ある寒い朝、彼は公園で友人と別れを告げ、新たな希望を胸に再び職探しを始めた。消費税100%の影響で、求人は依然として少なかったが、彼は諦めなかった。数日後、ようやく小さなコンビニエンスストアでアルバイトの面接が決まり、期待と不安が入り混じる中、面接会場に向かった。

面接では、彼の真剣な姿勢と、切実な思いが店長の心を動かしたのか、無事に採用されることになった。彼はその知らせを受けた瞬間、涙がこぼれそうになったが、ぐっと堪えた。ようやく始まる新しい生活に、少しずつ希望が芽生えた。

初出勤の日、彼は緊張しながらも意気込みを持って店に向かった。制服に着替え、先輩スタッフの指導を受けながらレジ打ちや商品陳列、清掃業務などの基本的な仕事を学んだ。最初は戸惑うことも多かったが、彼は一つ一つの作業を真剣にこなした。

「お客様、こちらのお釣りです。ありがとうございました!」

笑顔で接客する彼の姿は、周囲のスタッフからも好感を持たれた。彼は、どんなに小さな仕事でも全力で取り組むことで、自分の存在価値を見出していた。

次第に彼の仕事ぶりは評価され、シフトも増えていった。早朝から深夜まで働くこともあり、体力的には厳しかったが、彼は決して弱音を吐かなかった。生活は依然として厳しかったが、少しずつ貯金もできるようになり、心に余裕が生まれ始めた。

ある日の夜、店長が彼に声をかけた。

「佐藤君、最近頑張ってるね。君のおかげで店も助かっているよ」

その言葉に彼は感謝の意を込めて深く頭を下げた。自分の努力が認められたことに、彼の心は温かく満たされた。

月日は流れ、彼の仕事ぶりはますます安定していった。新たに入ってきたアルバイトスタッフに教える立場となり、彼は自信を持って指導に当たった。以前の自分が苦しんでいた日々を思い出しながら、彼は新人たちにも親身に接した。

「大丈夫だよ、最初はみんな戸惑うけど、少しずつ覚えていけばいいんだ」

その言葉に、新人スタッフたちは励まされ、彼の存在が頼もしいと感じるようになった。

一方で、彼の生活も徐々に改善されていった。節約を心がけながらも、少しずつ安定した収入を得ることで、食事もままならない日々から抜け出すことができた。親への恩返しのために、少しずつ貯金を増やし、いつかしっかりとした形で感謝を伝えることを夢見ていた。

彼の努力は、消費税100%の厳しい時代においても希望を見出し、自分自身の力で生き抜く強さを育んでいた。どんなに困難な状況でも、彼は決して諦めず、前を向き続けた。その姿勢が、彼自身だけでなく、周囲の人々にも勇気を与えていたのだった。

季節が巡り、彼はコンビニでのアルバイトを始めて一年が過ぎようとしていた。厳しい生活の中でも懸命に働き続けた彼は、少しずつ生活を立て直しつつあった。仕事も安定し、貯金も増え、何より自分に自信が持てるようになっていた。

ある日、彼は久しぶりに実家に帰ることにした。両親に少しでも恩返しをしたいと考え、少しばかりの贈り物を用意した。電車に揺られながら、彼はこれまでの苦労を振り返り、これからの未来について思いを巡らせた。

実家のドアをノックすると、母親が笑顔で出迎えた。

「おかえり、元気だった?」

「うん、なんとかね。今日は少しだけど、贈り物を持ってきたんだ」

彼はそう言って、母親にプレゼントを手渡した。母親は驚いた様子で、それを受け取り、涙ぐんで彼に感謝の言葉を述べた。

「ありがとう、本当に立派になったね」

父親も静かに頷き、彼の肩を叩いた。その夜、家族は久しぶりに一緒に食卓を囲み、温かい時間を過ごした。彼は改めて、家族の愛情に支えられてきたことを実感し、これからも努力を続ける決意を新たにした。

翌日、彼は再びコンビニでの仕事に戻った。新しい一週間の始まりに、彼は店内をきれいに掃除し、棚を整え、お客様を迎える準備を整えた。彼の仕事に対する姿勢は変わらず、毎日を全力で取り組んでいた。

ある日の午後、彼は店長から突然呼び出された。何事かと不安に思いつつも、店長のオフィスに向かった。

「佐藤君、君の働きぶりを見て、店長補佐としてのポジションを提案したいと思っているんだ」

その言葉に彼は驚き、目を見開いた。

「店長補佐、ですか?」

「そうだよ。君の真面目な態度とリーダーシップを評価しているんだ。君なら、この店をもっと良くできると信じている」

彼はしばらく考えた後、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、精一杯頑張ります!」

新しい役職に就くことで、彼の責任はさらに増えたが、それ以上にやりがいを感じていた。彼は新人スタッフたちの指導に力を入れ、店の運営に積極的に関わっていった。仕事は忙しくなったが、彼の心には充実感が満ちていた。

月日が流れ、彼は店長補佐としてますます成長していった。店の売り上げも向上し、スタッフたちからの信頼も厚くなった。彼の努力は実を結び、生活も安定し、再び明るい未来が見えてきた。

ある日、彼は夜遅くまで残業し、店を閉めた後、一人で店内を見回していた。消費税100%という厳しい状況の中で、ここまでやってこられた自分に誇りを感じつつも、まだまだ挑戦は続くのだと心に誓った。

「これからも、頑張っていこう」

彼は静かに呟きながら、夜の静寂に包まれた店を後にした。未来に向けて、彼の歩みは止まらない。どんな困難が待ち受けていようとも、彼は前を向き続ける覚悟を新たにした。


彼の生活が少しずつ安定し、希望が見え始めた頃、再び暗雲が垂れ込めてきた。ある日、彼は店長から呼び出され、事務所に向かった。そこには厳しい表情をした店長と、見慣れない男性が座っていた。

「佐藤君、ちょっと座ってくれるか」

彼は不安を抱きながら椅子に座った。店長が深いため息をつきながら話し始めた。

「実は、このコンビニの運営会社が経営不振で、多くの店舗を閉鎖することになったんだ。ここもその対象になってしまってね……」

彼の心は一気に沈んだ。ようやく安定してきた生活が、一瞬で崩れ去るような感覚に襲われた。

「閉店……ですか?」

「そうだ。君の頑張りは認めているが、経済状況があまりにも厳しくてね」

彼は何も言えなかった。再び仕事を失う恐怖が胸を締め付けた。新しい仕事を見つけるのがどれほど困難かを痛感していた彼には、今後の見通しが全く立たなかった。

コンビニの閉店が決まり、彼は再び職探しを始めた。しかし、消費税100%という異常な経済状況下では、求人はほとんどなく、面接に行っても落とされるばかりだった。生活費を切り詰める日々が続き、再び食事を満足に取れない日々が戻ってきた。

ある日、彼は友人に誘われ、夜の居酒屋で会うことになった。友人もまた、同じように仕事を失い、厳しい生活を送っていた。

「俺もさ、何とかやってるけど、もう限界かもしれない」

友人の言葉に、彼もまた自分の苦境を吐露した。

「わかるよ。俺もコンビニが閉店してから、次の仕事が見つからなくて……」

二人は互いの苦労を分かち合いながら、わずかな慰めを見つけた。しかし、その夜の飲み代さえも彼にとっては大きな負担だった。

日々が過ぎるにつれて、彼の貯金は底を突き始めた。家賃や光熱費を払うために、彼は手元に残った少ないお金でどうにか生活を繋いでいた。再び公園で夜を過ごすことも増え、彼の心は次第に疲弊していった。

ある晩、彼は再び公園のベンチで一夜を過ごすことに決めた。冷たい風が吹きつけ、薄いコートでは寒さを凌ぐことができなかった。空を見上げると、星が僅かに輝いていたが、彼の心には光が見えなかった。

「どうすればいいんだ……」

呟く声が風に消えていく。彼は未来への希望を見失い、ただ暗闇の中で途方に暮れていた。

次の日、彼は一縷の希望を胸にハローワークを訪れた。長い列に並び、ようやく順番が回ってきた時、担当者は申し訳なさそうに言った。

「現在、求人は非常に少なく、特に正社員のポジションはほとんどありません。アルバイトも競争が激しくて……」

その言葉に彼は肩を落とした。再び社会の荒波に揉まれながらも、彼は諦めずに生きていかなければならなかった。消費税100%という異常な時代に生きる彼の戦いは、まだ終わらない。厳しい現実に直面しながらも、彼は希望を捨てず、前を向き続ける覚悟を新たにするしかなかった。


中野さんは小さな子供を抱えた母親から、泣きながら生活保護を求められた。

「お願いです...家に帰っても冷蔵庫に何も入っていません。子供にパンすら与えられない……」

しかし制度は限られており、中野さんは心を痛めながらも頭を横に振らざるを得なかった。

「残念ですが、現在のご家庭の状況では基準を満たしていません……」

母親は崩れ落ち、子供の手を引きながらも、必死でした。

「ひとりの母子家庭にもっと光を……我々の生活が……」

その日から数週間が過ぎた。中野さんは相変わらず、窓口で切実な要請を受ける日々が続いていた。制度の狭間にある国民の姿に、胸が痛んだ。

ある日の昼休憩、中野さんは同僚の田中さんとお茶を啜りながら、最近の窓口での出来事について語り合った。

「あの母子家庭のケースは本当につらかったよ。基準に達していないというだけで、門前払いにするしかなかった」中野さんは溜息をつく。「でも、その子供の目は本当に痛ましかった。飢えに苦しんでいるのがよく分かった」

田中さんも頷いた。「私も同じような経験があるよ。法律に基づいて判断せざるを得ないのは分かるけど、人道的な助けが必要な人もいる。ルールだけでは対応しきれない」

二人は暫く黙り込んだ。最前線の公務員として、国民の実態と制度のギャップに日々直面する辛さを、お互いよく理解していた。

「でも、私たちには声を上げる義務がある」中野さんが切り出した。「このままでは、本当に助けを必要とする人が見過ごされてしまう。上層部に、現場の実情を伝え続けなければ」

田中さんも同意した。「そうだね。制度は国民のためにあるべきなのに、現実とのギャップが開きすぎている。我々から上層部に働きかけ、改善を求めていかなければならない」

そこで二人は、所属部署の同僚たちにも呼びかけ、実情を把握し、提言をまとめていくことにした。ささやかな動きからだったが、次第に、より多くの職員たちが名を連ねていった。

中野さんたちは、現場で出会った具体的な事例を持ち寄り、制度の課題点を分析した。そして、提言書としてまとめ上げた。その内容は、国民に寄り添った支援策が求められるというものだった。

数ヶ月後、中野さんたちが提言書を上層部に提出した結果、一定の関心を集めることができた。しかし、制度変更には時間がかかることが明白だった。その間にも、中野さんの窓口には切実な要請が絶えず続いていた。


ある日、中野さんは再び窓口にやってきた母親を見つけた。彼女は以前の母親とは違うが、同じように疲れ果てた表情をしていた。

「お願いです、どうか助けてください。仕事が見つからず、家賃も払えなくなってしまいました」

中野さんは心を痛めながらも、冷静に状況を確認した。彼女の収入状況は基準に達しておらず、再び支援を拒否せざるを得なかった。

「申し訳ありませんが、現時点では支援の対象にはなりません……」

その言葉に母親は絶望の表情を浮かべ、中野さんの前で泣き崩れた。その光景は、中野さんにとって見慣れたものになっていたが、それでも毎回心に重くのしかかった。

提言書の提出から半年が過ぎたが、目に見える変化はほとんどなかった。制度の改善は進まず、現場の公務員たちのフラストレーションは溜まる一方だった。中野さんと田中さんは、上層部への働きかけを続けていたが、彼らの声はなかなか届かなかった。

ある日の夕方、中野さんは仕事を終えて帰宅途中、街角で以前支援を断った母親と子供を見かけた。母親は路上で物乞いをしており、その子供は薄汚れた服を着て震えていた。彼の胸に痛みが走った。

「どうしてこんなことに……」

中野さんは自責の念に駆られたが、個人の力ではどうにもならない現実に直面していた。

数週間後、中野さんは職場で田中さんから深刻な話を聞いた。

「中野さん、あの提言書についてだけど、上層部からの反応は芳しくないみたいだ。予算も削減される方向で、支援策の拡充どころか、現状維持すら危うい状況なんだ」

中野さんは言葉を失った。彼らの努力が無駄になり、さらに多くの困窮者が見過ごされることになるのではないかという不安が募った。

「それじゃあ、私たちはどうすればいいんだ……」

田中さんも沈痛な表情を浮かべた。「分からない。でも、諦めるわけにはいかない。何か方法を見つけなければ」

それから数ヶ月が過ぎたが、状況は一向に改善されなかった。中野さんは依然として窓口で切実な要請に対応し続けていたが、その度に心は傷ついていった。

ある日、中野さんはまたしても窓口で泣き崩れる母親と対峙していた。彼女もまた、制度の狭間に落ち込んでしまった人々の一人だった。

「お願いです……もう限界なんです……」

中野さんは無力感に打ちひしがれながらも、冷静な対応を続けた。

「申し訳ありませんが、現在の基準では支援を提供することができません……」

その言葉を発するたびに、中野さんの心はさらに重くなった。しかし、彼にはその言葉を繰り返す以外に選択肢はなかった。

中野さんと田中さん、そして同僚たちが続ける努力にもかかわらず、制度の壁は高く、現実は厳しかった。彼らの声がいつか届くことを信じて、彼らは日々の業務に取り組み続けたが、その道のりは果てしなく遠く感じられた。

彼らの前に立ちはだかる現実は、依然として冷酷で無情だった。支援の必要性を訴える声が消えない限り、彼らの戦いもまた、終わることはなかった。


年月が過ぎても、中野さんたちの状況は変わらなかった。日々の業務の中で、多くの人々が支援を求めて窓口を訪れるが、制度の狭間に落ちてしまう現実は変わらなかった。上層部への提言も再度行われたが、結局、具体的な改善策は講じられなかった。

ある雨の日、中野さんは窓口に座り、次の相談者を迎え入れた。濡れた髪の毛を拭きながら入ってきた女性は、怯えた表情で書類を差し出した。

「どうか、助けてください。家賃が払えず、もうすぐ追い出されてしまうんです」

中野さんは女性の書類を確認しながら、心の中でため息をついた。彼女もまた、制度の基準を満たしていなかった。

「申し訳ありませんが、現在の基準では支援を提供することができません……」

その言葉を発するたびに、中野さんの心は重くなった。女性は絶望の表情を浮かべ、ゆっくりと窓口を後にした。

その日の昼休み、中野さんは田中さんと一緒に食堂で静かに食事を取っていた。二人とも、疲れ果てた顔をしていた。

「中野さん、いつまでこの状況が続くのかな……」

田中さんの言葉に、中野さんは深く頷いた。「分からない。でも、私たちはこの仕事を続けるしかないんだ」

「そうだね。現実は厳しいけど、少しでも多くの人を助けるために、できることをするしかない」

二人はしばらくの間、黙って食事を続けた。言葉にはできないが、互いの心の中には同じ無力感と悔しさが広がっていた。

それから数年が過ぎたが、状況は依然として変わらなかった。中野さんも田中さんも、現場での仕事を続けながら、多くの人々の切実な要請に対応し続けていた。制度の改善は依然として遅々として進まず、彼らの声もなかなか届かなかった。

ある日、中野さんはふと窓の外を見つめながら、これまでのことを振り返った。多くの人々が支援を求めて訪れ、多くの人々が無力感に打ちひしがれて去っていった。彼の心には、数え切れないほどの苦悩と葛藤が積み重なっていた。

「でも、諦めるわけにはいかない」

中野さんは自分に言い聞かせるように呟いた。どんなに厳しい現実でも、少しでも多くの人を助けるために、彼は日々の業務に全力を尽くす決意を新たにした。

窓口に訪れる人々の顔は変わらない。生活に困窮し、必死に支援を求める人々が、今日も中野さんの前に立つ。その度に、中野さんは制度の厳しさに心を痛めながらも、冷静に対応を続ける。

「申し訳ありませんが、現在の基準では支援を提供することができません……」

その言葉を繰り返すたびに、中野さんの心には新たな痛みが生まれる。それでも、彼は自分の仕事を全うするしかなかった。どんなに厳しい現実でも、彼の前には助けを求める人々が続く限り、中野さんの戦いもまた、終わることはなかった。

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