ヤンデレ女神の巫女 〜前世で助けたヤンデレ女神に取り憑かれましたが、使い魔にして魔法学校に通います〜

雲湖淵虚無蔵

第1章 魔法学校入学編

第1話 霊媒魔法

 七月のこと。静かな団地の一室で、少女が黙々とゲームをしていた。彼女は高校に行っていない十六歳。


 四月に高校に入学したものの、人見知りで引っ込み思案な少女は学校に馴染めず、不登校になってしまった。

 少女は小中学校の頃に、くせ毛や細身といった身体的な特徴を理由にいじめられていたことがあり、そのせいで人間が怖くなっていた。


 家の外に出ることもできず、十六歳の七月をゲームで消費している。

 ゲームの世界では自分の好きな容姿になって魔法や剣を使って自由に冒険できた。ゲームに没頭していれば、将来の不安やどうしようもない現在のことを忘れられた。


「お腹減った」


 もう午後二時になるが、まだお昼ご飯を食べていなかった。

 網戸から陽炎揺らぐアスファルトを覗く。外は蝉の鳴く炎天下。

 家族は出払っているし、家に食べ物もないから買いに行くしかないが、外に出るのは怖い。

 知っている人と出会うのが怖いし、知らない人でも自分のことを変だと思っているんじゃないかって怖くなる。

 

 しかし背に腹はかえられない。何か食べないと体調が悪くなるし、これ以上痩せるとそれこそ変な人だって思われてしまう。

 昼間に同中の人と会う確率は低いはずだ。意を決して、目立たないスウェットで外に出る。


「……暑い」


 影になっている階段の踊り場でさえ、熱気で蒸していた。階段を下りると、厳しい夏の太陽が、滅多に外に出ない引きこもりを迎えた。


 太陽と人の視線から隠れながら、木陰を辿って近所のドラッグストアに向かう。

 騒がしい学生の姿もなく、街の中は平穏だった。彼らを見ると背中や手足の皮膚がピリピリと痛んだり、身体が熱くなったりする。

 

 早歩きで俯いて、ドラッグストアの自動ドアをくぐると、そそくさとあらかじめ決めていたカップ麺を手に取ってレジに向かう。


「レジ袋は入りますか?」


 店員のおばさんに聞かれて、ビクリとする。


「あ、い、いらないです」


 キョドりながら、小さい声で俯いて答える。

 お金を払うとペコペコおじぎをして足早に退店した。


「はぁ」


 なんとか買い物を乗り切って、ため息を吐く。安堵と疲弊のため息だった。


 家に帰る途中のこと。横断歩道の信号が変わるのを待っていると、少女の横に黒猫がちょこんと座った。紅白の組紐でできた首輪をつけた赤目の黒猫だった。お金持ちの飼い猫だろうか、信号が変わるのをお利口に待っている。


 程なくして信号が変わり、猫が横断歩道を渡り始めた時だった。

 猛スピードのトラックが横断歩道に向かって走行してきた。まだギリギリ間に合うと思ったのか信号が黄色になった瞬間にスピードを上げたようだ。


 黒猫は人間や車に慣れているからなのか、信号が変わると車が止まると知っているようで、トラックを気にせずマイペースに歩いている。このままでは轢かれるだろう。


「あっ」


 少女は自分が思考する前に行動していたことに驚いて小さく声を溢した。猫を助けるために少女は横断歩道に飛び出していた。

 運動不足で弱った身体を無理やり叩き起こして、猫へと駆け寄る。躊躇や恐怖が挟まる余地のない反射的な行動だった。猫のお腹を両手で掴むと、安全な歩道へと優しく投げた。これで猫は助かるだろう。少女は安堵共に、寒気に似た恐怖を全身に感じた。迫り来るソレに、心が準備する時間もない。

 瞬間、少女はどうしようもなく苛烈な衝撃を全身に浴びて、その意識を失った。



 気がつくと少女の視界には青空が広がっていた。心地良いそよ風の吹く草原にいるようで、緑の匂いがしてくる。

 少女は仰向けになって倒れているようだが、身体が妙に動かし難く、声も思うように出せない。


 そういえば猫を助けた時にトラックに轢かれたことを思い出した。だとするとここは死後の世界だろうか。

 楽になった、というのは語弊があるかもしれないが、とても安らかな気持ちだった。


 何かやることでもないのかと、できる範囲で身体をジタバタさせてみる。すると、思いの外、短くて小さい手足が視界に入った。

 自分が赤ん坊になっていることに気がついた。つまり少女は───


『これってもしかして、異世界転生!?』


 声は出ないので、驚きの気持ちを心の中で思い切り叫んだ。トラックに撥ねられて異世界に転生するなんて、まるでネット小説みたいだ。


 死んだことも、転生したことも、まだ整理がついていないが、別の疑問が湧いた。

 何故、生まれたばかりの赤ん坊なのにこんな草原の真ん中に放置されていて、近くに親らしき人がいないのだろう。もしかしたら捨て子なのかもしれない。


 いじめられて、引きこもって、トラックに轢かれて死んだ少女は、今度は捨て子に生まれ変わった。

 こんなのは不公平だ。元少女の赤ん坊は、あまりの不幸に泣いた。泣くしか機能のない体ではどうせこれしかやることはなかった。


 しばらくすると誰かの足音が聞こえてきた。拾う神か、それとも獣か悪人か、転生者の赤子は身構えた。


 修道女だった。目の前に現れたのは、十代半ばほどの若い修道服の少女だった。慈愛に満ちた穏やかな表情の美人で、ベールの隙間から栗色の髪のおさげを垂らしている。

 

 修道女は赤子をゆっくりと優しく抱くと、その透き通る青海のように綺麗な声で、子守唄を歌い始めた。

 この世界の言葉の意味は理解できないが、彼女の無償の愛は感じ取れた。これまでのあらゆる不幸が浄化されたような心地だった。

 赤子は生まれて初めて見たものを親だと思いこむらしい。だから、この修道女が赤子にとっての母となった。

 そのまま子守唄に誘われ、転生者は母の胸の中で眠りに落ちた。


 ◇


 魔法世紀105年 


 転生から五年が経ち、転生者は五歳に成長した。

 転生者は修道女に拾われたその後に孤児院へと預けられた。あの修道女は多忙で、すぐに離れ離れになることとなったが、別れの前に名前をつけてくれた。

 

「アンナ、お昼ご飯の時間ですよ」


 孤児院の院長に名前を呼ばれて、読書をしていたアンナは顔を上げた。『アンナ』。それが、転生者に与えられた名前だった。


「は、はい。今行きます」


 吃りながら返答する。アンナには前世の記憶があるため、人見知りな性格も継続中だ。

 アンナは痩せっぽっちで黒い癖っ毛の女の子だった。前世と似ていて残念だ。できればサラサラの金髪のお嬢様に生まれ変わりたかった。


 ここは聖ジャンヌ孤児院。アンナの前世でいうところのフランスによく似た国『オルレアン共和国』にある孤児院だ。院長のマザーラドリエルがシスターたちと共に身寄りのない子供の面倒を見ている。マザーはアンナにとってはおばあちゃんのような存在だった。

 

「皆さん、ご飯の前に神様にお祈りを捧げましょう」


 マザーラドリエルの号令で子供たちとシスターたちが目を瞑り、手を合わせてお祈りをする。オルレアン共和国の人々の多くはエクレシア教という宗教を信仰している。


「アンナ、遠慮せずに食べていいのですよ」


 マザーは少食のアンナを気にしてくれる。捨て子に生まれ変わったのは不幸だが、この孤児院に来られたのは幸運なことだった。


「あら? アンナ、指を怪我していませんか?」


 マザーに指摘されて指を見ると小さい切り傷があった。先程の読書の際に紙で切ったのだろう。


「あ、大丈夫です。これくらい」


「ダメですよ。ばい菌が入ったら大変です」


 マザーは手を取ると、指揮棒のような小さい杖を取り出して、アンナの切り傷の上に掲げた。すると杖先に白い光が灯り、切り傷が忽ち治癒した。

 これは『魔法』というこの異世界に存在する技術だ。魔法は傷を治すだけでなく、人間単体では不可能な様々な現象を発生させることができる。杖を振るだけで、火を起こしたり、水を発生させたりできるのだ。


「あ、ありがとうございます」


 魔法を間近で見て恍惚としてしまう。前世の頃から魔法には憧れがあり、自分にも魔法が使えたら楽しいのだろうと空想することがある。しかし実際に使うことはできなかった。


 この異世界では、全人類に魔法能力があるのだが、魔法能力に目覚める年齢は人それぞれで、まだ五歳のアンナにその兆しはなかった。

 いつ魔法を使えるようになってもいいように、図書室の魔導書を読むことが今の楽しみだ。


 食事を終えると、子供たちは孤児院のグラウンドに外遊びへと向かって行く。

 アンナはというと再び図書室で本を読み始めた。

 内向的で人見知りなため、家族同然のシスターたちや子供たちとも深く関わることができなかった。里親も見つからず、いつも一人で読書をしていた。

 そのおかげか、他の子供よりも読み書きが上手で、世の中の情勢の知識もあった。


 現在は魔法世紀百五年。魔法世紀とは全ての人類が魔法を使えるようになった時から使われるようになった暦だ。魔法世紀以前は、一部の魔法使いだけにしか魔法は使えなかったのだという。


 アンナの住むオルレアン共和国は前世でいうところのフランスに似た国で、付近の国もヨーロッパのような国々だ。


 魔法のある世界だが、近代程度には科学技術が発展しており、パソコンや携帯電話はないが、鉄道や飛行船、電話機はある。孤児院にはないが分厚い箱みたいなテレビは開発されているらしい。

 しかし科学技術よりも、アンナの関心は魔法にあった。

 魔導書を読みながら、自分が魔法を使う空想をしていると、マザーラドリエルが図書室にやってきた。


「アンナ、あなたを養女にしたいというご夫妻がいらっしゃっていますよ。少し話をしてみませんか?」


 運の良い孤児院の子供はお金持ちの家の養子になることができた。アンナにもそのチャンスが到来したようだ。

 驚きと不安と少しの期待で体が熱くなる。お金持ちの家に貰われたいが、知らない人と話すのは怖い。

 マザーに連れられて面会室に入ると、身なりの良い三十代半ばほどの男女二人が待っていた。


「こんにちは、アンナちゃん。私はウィリアム・ボールス。彼女は妻のマーガレットだ。君はまだ五歳なのに、もう読み書きができる賢い子だと聞いているよ」


 優しそうな笑顔で挨拶してくれる男性。人見知りなアンナはペコペコとお辞儀をしながら挨拶を返した。


「こ、こんにちは」


 二人は嬉しそうに頷きあうと、今度は女性の方がアンナに声をかけた。


「私たちはアンナちゃんと家族になりたいと思っているの。私たちのことをアンナちゃんに知って欲しいし、私たちもアンナちゃんのことを知りたいから、少しお話ししましょう」


「は、はい」


 それからボールス夫妻は自己紹介をしてくれた。夫のウィリアムは富豪の息子で、貿易関係の仕事をしている。妻のマーガレットもまた裕福な家の出身で、古い貴族の血筋らしい。二人の家はお城のように大きく、迷うほど広い庭がついているのだという。

 順風満帆な人生を送っているように見える二人だが、子宝に恵まれず、こうして養女を探していた。

 

「アンナちゃんのことも教えて欲しいな。何か好きなことはあるのかい?」


「……読書が好きです」


 口下手ですぐに会話が終わる傾向にあるアンナ。質問には答えられても、自分から新しい会話を作ることはできない。それを見かねて、隣に座っているマザーラドリエルが話を膨らませてくれる。


「最近は魔導書も読んでいて、魔法に興味があるみたいなんですよ」


 それを聞いて、夫妻は目を輝かせた。なんだか、それまでと雰囲気が変わった気がする。

 

「アンナちゃんはもう魔法は使えるのかい?」


「い、いえ、まだ使えません」


「せっかくの機会だからアンナちゃんの魔法能力を調べてみないかい?」


 ウィリアムは鞄から水晶玉を取り出してテーブルの上に置いた。アンナはこの水晶玉が、魔法の能力を調べる道具だということを魔導書を読んで知っていた。とても高価なもので、清貧がモットーの孤児院ではお目にかかれない代物だ。自分の魔法の能力がわかるなんて、とてもワクワクした。


「これは魔法の才能や得意な魔法を教えてくれる魔法道具なんだよ。この上に手を置いてごらん」


 言われた通り、水晶玉に手を置く。すると、水晶玉が仄かに白く光った。


「すごいぞ。この光は魔法が使える者への反応だ。アンナちゃん、気がついてなかっただけで、君はもう魔法が使えるんだよ」


 興奮しながらウィリアムが教えてくれる。アンナも自分がいつのまに魔法が使えるようになっていたようだ。聞いて、アンナは早く魔法を試してみたくなる。一体自分はどんな魔法の才能があるのか、水晶玉の判定を今か今かと待つ。

 程なくして、透明だった水晶玉の中に文字が浮かび上がった。


 魔力量 F

 属性 無

 適性魔法 霊媒れいばい


 それを見て、ボールス夫妻は落胆した。先程までの嬉しそうな表情は、冷たく、怒りを内包したものに変化した。


 アンナの魔力の量は最低クラスのFランクで、適性属性は無し。更に適性がある魔法が『霊媒魔法』というあまり耳にしない魔法だけだった。つまり、アンナは魔法が使えるようになっていたが、魔法能力が弱すぎて、魔法が発現していなかったのだ。


「なんだこれは。マザーラドリエルはこんな失敗作を我々に寄越すつもりだったのか?」


 ウィリアムはアンナを指差して、怒りに満ちた強い言葉を使った。先程の紳士的な男性と同一人物とは思えない、もはや豹変だった。マザーラドリエルはすぐにアンナを守るように立ち上がった。


「子供に対して何てことを言うのですか!」


「子供だと? これはそもそも人間ですらない。こんな魔法能力の低いやつに人間としての価値なんかはない。これはゴミだ。よくもこんな出来損ないを押し付けようとしてくれたな」


 凄まじい罵倒を目の前で浴びせられて、アンナは自分の頭の中が冷たくなっていくのを感じた。ゆらゆらと恐怖で震える目でマーガレットを見ると、彼女はアンナに、それこそ汚いゴミを見るような嫌悪の視線を向けていた。


 彼らのように魔法能力で人間の価値を決める思想を『魔法至上主義』というと、本に書いてあったことを思い出す。最近はこの思想が上流階級で蔓延しているのだとか。

 まさかそんな人たちに初めての縁談で出会ってしまうなんて不幸すぎる。


「マザーラドリエル。別の子供はいないのか? できれば魔法の才能がある子供が欲しい。こんな魔法弱者ではなくてな」


 偉そうに要求してくる男に、ついにマザーの堪忍袋の緒が切れた。


「もう二度と、あなたたちのような魔法至上主義者に子供たちを会わせたりしません。早くここから立ち去りなさい」


 マザーラドリエルの強い語気にボールス夫妻は怯み、そそくさと孤児院を立ち去っていった。

 嵐の後のように静かになった面会室で、マザーラドリエルが、放心しているアンナを抱きしめた。


「ごめんなさいアンナ」


 マザーラドリエルはアンナのために親になってくれる人を探してくれていたことは知っている。彼女は何も悪くない。あんなに善い人たちに見えたのに、まさか魔法至上主義者だったなんて、わかるはずがない。


「大丈夫です。マザー、わたしは」


 マザーを安心させようと気丈に振る舞うが、アンナはどうしようもなく、知らない人が怖くなった。修道女と子供に囲まれて育ったため、人間が悍ましい欲望と悪意の存在であることを忘れていた。アンナは異世界でも人間は人間なのだと知った。魔法が使えるようになったのに、人間は何一つ進化しちゃいなかった。



 ボールス夫妻との縁談の後、アンナは再び図書室に戻ると魔導書を読み始めた。魔法を使うためだ。


 魔法の才能がないことが判明したり、大人に罵倒されたりしたが、今はとにかく自分の魔法を試してみたかった。


 魔導書の基礎魔法という項目にある四大属性魔法を試してみることにした。四大属性とは火、水、風、土のことだ。アンナにはこの四大属性の才能すらないが、ものは試しだ。魔導書にある通りの『発火魔法』の呪文を唱えてみる。


「火の精霊よ、気と熱の元素よ、我が声に応えよ」


 詠唱を終えるが、なんの現象も発生しない。炎どころか火花さえ起こらなかった。他の属性を試したり、念入りに魔法陣を敷いてみたりするが、結果は変わらない。

 本当に才能がないのだ。魔法が使える状態にはあるのに、才能がないから魔法を使えない。


「そうだ。霊媒魔法?を試してみよう」


 唯一才能があるという霊媒魔法について魔導書のページをめくって調べる。


 霊媒魔法───霊との交信や、降霊を行う魔法。アンナの前世でいうところの巫女の神託や口寄せのことだろう。つまりアンナは巫女の才能があるということだ。


 魔法世紀以前、霊媒は霊能力者等の魔法能力の低い者が扱う魔法だった。物質的な現象を発生させることのない非生産的で低俗な魔法として扱われている。死者の魂を愚弄し、異教の神を呼び出すとしてエクレシア教においても忌み嫌われる。


 本の解説すらディスるほどの魔法らしいが、要は霊を操る魔法のようだ。


 霊媒魔法を行うには霊が必要だ。その霊を呼び出す降霊術という、いわゆる霊の召喚魔法のやり方が魔導書に記されていた。その通りに八芒星の魔法陣をチョークで床に描く。


 正式な魔法陣には動物の血や高価な宝石や金属が必要だが持っていないので省略する。

 触媒───その霊と縁のある物品があると呼び出す霊を限定的にできるがそれもない。触媒なしの降霊となると、召喚者と縁のある霊が呼ばれるという。

 アンナは前世の記憶を持ち、死を体験しているため、なんらかの霊的な縁があってもおかしくないと自己分析した。


 さて、降霊術の準備が完了した。あとは詠唱を唱えれば霊が召喚されるはずだ。

 重たい魔導書を五歳の小さな手で持ち上げて、お願いするように呪文を紡ぐ。これが、アンナにあるたった一つの魔法だ。


現世うつしよの門をここに。

 天空の聖神、炎獄の亡者、異界の御霊。星を巡る無名の魂たちよ。血肉の骨器、廻天輪のえにしを手繰りて我が呼びかけに応えたまえ。

 降りよ、我は霊界を繋ぐもの。

 従え、我は現世の楔。

 その魂が再び現世の糧となることをここに誓う。

 門よ開け。招来せよ、世界に刻まれた魂の証印アルカシヤ・レヴナント


 言い終えて、刹那の静寂の後、八芒星が真紅に発光した。血脈を流転する魔力が騒ぎ出すのを感じる。興奮と歓喜で鳥肌が立つ。アンナの魔力が起動したのだ。初めての魔法の行使だった。

 

 次の瞬間、魔法陣の上に、赤い花模様の和服を着た黒髪の少女が立っていた。アンナの顔を嬉しそうに覗き込んでくるその瞳の色は彼岸花のように真っ赤だ。


 彼女は『蛇』だ。人間の本能が危険だと告げていた。良くないものを呼び出したとすぐにわかった。


「ふふ、やっと会えたね、アンナちゃん」


 黒髪の少女が囁く。その眼はアンナのことをじっと見ていた。いや、アンナのことしか見ていなかった。


「……どうして、わたしの名前」


「アンナちゃんのことは全部知ってるよ。私がアンナちゃんをこの世界に転生させた神様だからね」


 なんでもない世間話をするように、おっとりとしたお姉さん口調で、十代半ば程の少女にしか見えない神様は言った。すぐに理解できずにポカンとしてしまう。


「私は『伊吹大明神いぶきだいみょうじん』。気軽にイヴって呼んで欲しいな〜。アンナちゃんは私の命の恩人だからね」


「命の恩人? わたしがですか?」


「あれ、前世の記憶はあるはずなんだけど、覚えてない? そっか、この姿を見るのは初めてだもんね。ほら、私のこと助けてくれたでしょ」


 自称『伊吹大明神』は手を曲げて猫のポーズをとる。


「もしかして、あの時の黒猫?」


「ピンポーン! 恩返しに来たよ。あの時は私なんかを助けるために命をかけてくれてありがとうね。お詫びとしてこの世界に転生させたんだ」


 まさか助けた猫が神様で、アンナを異世界に転生させた張本人だったとは驚きだ。しかもその神様が召喚に応えて現れた。

 

「それと、お礼に霊媒魔法っていうすごい魔法の才能をプレゼントしたよ〜」


「え? 霊媒魔法ってすごいんですか?」


 魔導書にはボロクソ書いてあったし、ボールス夫妻も霊媒魔法を低く評価していた。


「すごいよ。だって、この世界で一番魔法が得意なこの私がアンナちゃんの使い魔になるんだからね。アンナちゃんの言うことならなんでも聞くよ〜」


 腰を抜かしているアンナの膝に擦り寄ってくる神様。上目遣いでアンナの顔を見つめると「これでずっと一緒にいられるね」と、小声でボソッと囁いてきた。


「え、えっとじゃあ、伊吹大明神さま」


「畏まらないで、イヴって呼んで欲しいな〜」


「……イヴ」


「きゃー!」


 ちょっと面倒なタイプだ。それはそれとして、神様が言うことを聞いてくれるなら是非頼みたいことがあった。


「魔法を教えて欲しいんだ。わたし、まだ全然魔法が使えなくて」


「いいよ〜。いっぱい教えてあげる。私、この世界で一番魔法得意だからね〜」


 イヴは快諾してくれる。

 アンナに霊媒以外の魔法の才能はないが、逆に今日から魔法の練習がたくさんできるならば、それはとても幸福なことだと思えた。


「それとね、と、友達になって欲しいんだ。わたし、前世の頃から友達いなくて」


 目を泳がせて、キョドりながら頼む。するとイヴは満面の笑みで答えた。


「もちろんだよ。私もずっとアンナちゃんと友達になりたかったんだ〜」


 その日、アンナは初めて魔法ともだちを手に入れた。


 ◇


 魔法世紀115年 7月


 イヴを召喚してから十年の月日が経ち、アンナは十五歳になった。身長も百五十センチ半ばほどまで伸びていた。

 この十年間、イヴに魔法を教わり、才能はないなりに上達した。基礎となる四大元素魔法も、マッチや団扇の代わり程度にはできるようになり、適性のある霊媒魔法もそれなりに使えるようになった。


 アンナは自分の将来を考える年齢になっていた。孤児院の子供は十五歳になると、奉公に出るか、修道院に入ることになっている。ほとんどの子供がそれまでに養父母が見つかるのだが、アンナは魔法能力が低く、人見知りなのもあって、養父母は見つかっていない。


 今は修道院に入る方向で話が進んでいて、見習いの修道女として修道服を着てシスターたちと同じ生活をしていた。

 このまま修道院に入って、静かで質素な生活をするのも悪くないが、実はアンナにはやりたいことがあった。


 叶うのなら『魔法学校』に入学して、魔法の勉強をしてみたかった。学校に行きたくなくて引きこもっていた前世とは真逆に、学校に行きたくなっていたのだ。


 しかし、魔法学校に入学するにはお金が必要だし、入学試験に合格する実力が必要だ。実力に関してはわからないにしても、お金がないのは事実だ。マザーに魔法学校に入学したいと打ち明けることもできていなかった。


 そんな将来への不安を抱えながら、今日も朝からアンナは魔法の練習に取り組んでいた。

 孤児院のお局となったアンナは一人部屋を与えられており、修道女見習いの活動や訓練の時以外は前世同様に引きこもって、魔法の練習に明け暮れている。

 

「よし、上手くできた」


 アンナは手を広げた人の形の紙『式札』に五芒星の魔法陣を書き込む作業をしていた。これは『式神』という霊の容れ物になるお札だ。式神はイヴから教えてもらった陰陽道という魔法体系の使い魔である。この異世界には『ヤマト帝国』という日本とよく似た国があり、陰陽道はその国の術師が使う魔法だ。


「どうですか、軍曹さん」

 

 完成した式札に話しかけると空中に飛び上がり、縦横無尽に動き、敬礼のポーズをとった。


『ありがとうございます、巫女様。とても動きやすいです』


 式札に宿っているのは軍曹というニックネームの霊だ。アンナの前世の世界で亡くなった人で、元々軍隊にいて、階級が軍曹だったらしい。

 アンナは彼のような下級の霊たちと契約を結んでおり、式神として使役できる。


 霊たちはアンナにとっては大切な友達だった。そもそも孤児院の外に出たことのないアンナには、霊たちしか友達がいないのだが。


 その友達の一人であるイヴがアンナの背後に姿を現した。


「だいぶ様になってきたね〜。もう晴明より上手だよ」


 流石に安倍晴明より上手いわけがない。自分の実力がどの程度か知りたいが、物差しがレジェンドと神様ではまともに計測できない。それにイヴの教えてくれる魔法のジャンルには偏りがある。だから魔法学校に行きたかった。


 日課の式札作成と魔法の反復練習を終えて、孤児院の廊下を歩いていると、マザーラドリエルが声をかけてきた。

 

「アンナ、少しいいですか」


 孤児院に隣接する修道院の礼拝堂に連れて行かれる。静謐で薄暗い礼拝堂の光源は、壁面のステンドグラスからわずかに注ぐ、虹色に屈折した朝日だけだ。


「アンナ、あなたの将来のことですが……何かやりたいことがあるのなら、遠慮せずに言ってください」


 悩みを見抜かれていたようだ。流石、長年子供達の面倒を見ているマザーだ。

 しかし、『学校に行きたいからお金を出してください』などと言えるはずもなかった。遠慮するなと言うけれど、アンナは自分の欲望に他人を巻き込める人間ではなかった。

 

「───魔法学校に行きたいのでしょう?」


「えっ」


 マザーラドリエルは少し申し訳なさそうな顔をしていた。もしかしたら、マザーはアンナが将来のことを自分に打ち明けてくれないことが悔しかったのかもしれない。

 

「……でも、学費が」


「優しい子ですねアンナは。しかしお金の心配なら大丈夫ですよ。知り合いに魔法学校の先生がいるのですが、その方があなたを養女にしたいと言っています。孤児院に寄附をしてくれている方で、学費もその方が出してくださいます。アンナさえ良ければ会ってみませんか」


 五歳の時に魔法至上主義者の養父母候補と会ってから、知らない人に会うのが怖くなった。

 しかし、魔法学校に行けるチャンスだ。マザーもアンナのことを考えてくれているし、無碍にする訳にはいかない。


「会ってみたいです」


 返事を聞いて、マザーの安堵の表情を浮かべた。


「では早速会いましょうか。マリア、いいですよ」


「え?」


 マザーの呼びかけに反応するように、礼拝堂の床に百合の紋章の魔法陣が浮かび上がった。それが空色の光を放つと、次の瞬間、その上に修道女が立っていた。高難度魔法の転移魔法だ。


 その女性の名前はわからないが、誰なのかはわかった。転生したばかりのアンナを見つけて、子守唄を歌ってくれたあの時の修道女だ。二十代後半ほどの大人の女性に成長しているが、その温かく優しい微笑みは間違いない。魂に刻まれた記憶が彼女が自分の母だ認識していた。


「おはようアンナ。私は『マリア・フルルドリス』。あなたの名付け親なのだけれど、覚えていないわよね」


 その声はアンナが異世界に転生して最初に聞いた声だった。忘れられるわけがない。赤子の頃の記憶は消えるというが、その声は魂に焼き刻まれていた。

 アンナは突然の再会に、放心して動けなくなった。


「大丈夫?」


「ひゃ、ひゃい!」


 まじまじと見つめられて爆発しそうなくらい顔が真っ赤になってしまう。アンナは包容力や母性のある女性が好きな、所謂マザコンだった。

 転生して初めて見た人が優しいお姉さんだったり、召喚した女神様がおっとりしたお姉さんだったりしたせいで、性癖を破壊されてしまったのだ。


「マリア、この子は人見知りなんですよ」


「あら、そうなのね。突然ごめんなさい」


 マリアはアンナの前に屈んで、目線を合わせてくる。彼女の目は魔眼ではないし、魅惑の魔法を使っているわけでもないのに、人の目を見れない人見知りのアンナが目を逸らせなかった。


「マザーから霊媒魔法の才能があると聞いているわ。神霊を操ることができるなんてすごいわね」


「……い、いえ、わたしは全然すごくないんです。使い魔がすごいだけで」


「強い使い魔を使役できるのは、術者の魔力操作能力が優れているからよ。あなたは神霊に認められた。それは紛れもない事実で、アンナはすごい子なのよ」


 マリアはアンナの魔法を認めてくれる。十年前、ボールス夫妻に魔法能力を馬鹿にされてからずっと開いたままだった深い傷が、癒え始めるのを感じた。


「アンナ、あなたさえ良ければ私の養女にならない? あなたを魔法学校に行かせてあげたいの」


 お金の心配もないなら断る理由なんてない。勿論、学校で魔法を学んでみたいし、マリアみたいな優しい人の娘になりたい。だけど、自分がこんな幸運に巡り会えていいのだろうかと不安になる。マザーラドリエルを見ると優しく頷いてくれた。

 

「わたし、魔法学校に行きたいです!」


 前世で人が怖くて学校に行けなくなり、引きこもっていた少女の決意の言葉だった。

 それを聞いて、マリアとマザーラドリエルは安堵して微笑んだ。


「いい返事が聞けてよかった。これからよろしくねアンナ」


「よ、よろしくお願いします」


「今から私たちは家族なんだから、そんなに畏まらなくていいわよ。でも、お母さんとかママって呼ばれるのは恥ずかしいから、マリアでいいわ」


「……マ、マ、マリア」


 緊張で裏返った声で憧れの人の名前を呼ぶ。「うふふ」と微笑みながらマリアはアンナの頭を撫でてくれた。頭を触られると気持ちよくてなんだか気分がフワフワしてしまう。


「よかった。仲良くやっていけそうですね。ようやく肩の荷が降りましたよ」


 マザーラドリエルは一歩引いて、安心した様子で二人を見守っていた。マリアの養女になって、魔法学校に行くということは、マザーラドリエルとはお別れしなければならないということだ。


「アンナ、早速支度してくれるかしら。明日、首都ダルクで魔法学校の入学試験が行われるの。急でごめんなさい」


 転移魔法でいきなり現れたりするあたり、マリアはかなり多忙なようだ。魔法学校の先生だけでなく、『魔法騎士』という人々を守る職業にも就いているらしい。


 アンナは十五年間、自分を育ててくれた、紛れもない母であるマザーラドリエルに向き合った。彼女の目は見ることができる。


「マザーラドリエル、わたしを育ててくれてありがとうございました。十五年間、お世話になりました」


 お辞儀をしながら、アンナは自分が泣いていることに気がついた。


「いってらっしゃい、アンナ。立派な魔法使いになるのですよ」


 マザーはいつも通り変わらず、優しく微笑む。彼女はいつも笑顔で子供たちを送り出してくれることを、アンナは知っていた。ついに自分の番が来た。マザーを安心させたくて、泣いたまま笑うと顔がぐちゃぐちゃになって恥ずかしかった。


 この聖ジャンヌ孤児院から離れることは不安だが、それ以上に外の世界と、魔法学校への好奇心が大きかった。

 シスターや子供たちとも別れの挨拶を済ませたアンナは荷物をまとめて、マリアと共に孤児院を後にした。


 初めて、孤児院の敷地から外に出る。

 子供たちを守る壁の向こう側は、なだらかな丘の上だった。丘の麓には西洋の街並みが広がっている。

 これから二人は麓の街から鉄道に乗り、首都ダルクを目指す。転移魔法は法律による規制が強く、長距離間の使用は禁止らしい。


「それじゃあ、行きましょうか」


「はい……あの、なんでしょう?」


 歩き出すとマリアがアンナのことを微笑みながら見つめてくる。


「なんだか、楽しいなって。それだけよ」


 まるで無邪気な少女のように、純粋に、悪戯っぽく、マリアは笑った。


 街や学校に行けば知らない人は沢山いる。怖いけれど、魔法を学びたいという欲求は止められない。学校に行くのが怖くて引きこもっていた少女はもういない。

 生まれ変わった少女は最初の一歩を踏み出した。



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