Purple haze (2)

 平太郎、二十六歳。目を血走らせ、ギリギリと拳を握りしめていた。

 保健室の扉を開けた平の目に飛び込んだのは、慣れ慣れしくクズハの膝にじゃれつく篠田の姿だった。クズハは困り顔ながらも、優しく少年のことをあしらっている。

――あの野郎、殺してやる!

 その辺を飛び交う羽虫やゴシック様式の建造物にまでムラムラする十四歳という年頃のくせに、無邪気な子どもを装って目一杯に甘える狡猾さ。平は沸き上がる殺意を必死に押し殺した。

――いやいや、何を中学生相手に嫉妬しているのだね、平太郎君。そう、君はオトナだ。彼とは一回りも離れた成人男性だ。フン、ここは愛しのクズハ先生に大人の余裕というやつを見せつけてやろうじゃあ……っぱり殺す!

 妄想の中で篠田にテッカンコーを喰らわせると、成人男性は何とか平常心を取り戻した。まったくこちらに気付く気配のない少年に、渾身の咳ばらいをお見舞いする。篠田はハッと顔を上げると、わざとらしく天井や部屋の隅をくまなく見渡してから、ようやく平に目を向けた。

「あ、平先生じゃないですか! また会ったね。お元気?」

「また会ったね、じゃない。相変わらずだな」

「へへ、どうも」

「褒めてないよ」

 会話の最中もじゃれつきを止めない篠田に対して殺意が再燃しかけ、平はまた一つ咳払いをした。

「あー、お、お前にいろいろと聞かなきゃいけないことがある。ええと、その、なんだ……取り敢えず、上体を起こそうか」

 平の口調に篠田は何か勘付いたようだ。ニヤリと口角を上げるとクズハの膝にひしとしがみつき、これみよがしに甘えて見せた。

「えー、別にこのままの体勢でいいじゃーん。僕ちん怪我人なんですけどー」

 平はもはや怒りを通り越して敗北感さえ覚えつつあった。どこか満更でもなさそうなクズハの表情が、さらに二十六歳成人男性の心を浸食していく。

「あ、あのですね、クズハ先生……その、僕はそのクソガ、もとい、少年と二人でお話がしたくてですね。ええ、それはもう、積もりに積もった話がこれでもかというくらいありましてですねぇ……」

 クズハは平の言葉に頷くと、「ほら、平先生がああ仰ってますから」と篠田を宥めすかし、ベッドから降りた。すれ違いざま、平に一つ会釈をして保健室を出ていった。

 保健室に二人が残され、どこか気まずい沈黙が流れた。平はしばらく突っ立っていたが、ベッド脇のパイプ椅子に座ると、静かに切り出した。

「篠田、すまなかった」

「ほんとだよ。せっかくのモフモフ膝枕だったのに」

「ああ、せっかく楽しんでいたのにな」

「まったくだよ」

「……いや、そうじゃなくてだな」

 変わっていなかった。この少年は「真面目な話」の雰囲気を察すると、すぐに茶化して話を逸らす。ペースに呑まれないよう、平はじっと少年の茶色がかった瞳を見つめた。

「すまなかった。僕は、ずっと後悔しているんだ。篠田の変化に気付いていながら、何もしてやれなかったことを。あのとき、ちゃんと話を聞いていれば、お前が退塾することは無かったかもしれない。学校に行かなくなるようなことも無かったのかもしれない」

 平の真摯な口調に、さすがの篠田も真面目な顔になる。

「思えば、僕は逃げていたのかもしれない。茶化すようなお前の態度を言い訳にしていたんだ。その剽軽な態度の裏に、辛いことを抱えていたかもしれないのに。いや、表面では明るく振る舞っていただけ、裏に隠していたことは深刻だったんだろう。僕はそれに気付いていながら、気付かない振りをしていたんだ。汚い大人だよ」

 篠田は俯き、肩を震わせ始めた。小さくしゃくり上げるような声も聞こえてくる。平はそっと彼の肩に手を置いた。

「なあ、篠田。本当に今さらかもしれないが、話してくれないか? お前に何が……」

 言い終わらぬうちに、篠田は顔を上げて堰を切ったように笑い出した。腹を抱え、ベッドの上を転げまわる。少年はポカンとしている平を尻目に心ゆくまで笑うと、涙を拭いながら体勢を立て直した。

「ちょ……いきなりなんすか。えーと、もしかして、僕が塾を辞めたの、自分のせいだと思ってるとか?」

 平は目を点にしたまま、無言で頷く。

「ないない! 全然関係ない! 相変わらず真面目だよなぁ、平先生は」

「いや、だが……僕が直接的な原因じゃないにしろ、やっぱり話を聞いてやれば何か変わっていたかもしれないし」

「だからそんなの関係ないって。そんなんだから足下見られるんだよ?」

「え? 足下って?」

 瞬間、篠田の表情が一瞬固まったのを平は見逃さなかった。が、すぐに少年はいつもの飄逸な表情に戻る。

「いや、だからさ、居眠り動画なんか取られて、SNSに晒されてたでしょ? あれで馘首クビになっちゃったらしいじゃん」

 パシッと、乾いた音が響く。

「そうか、知ってたのか。あのこと」

「まあ、ずいぶん炎上してたからね」

 平は首をすくめて苦笑いしてみせた。篠田も肩をすくめる。

 しばらく安穏な沈黙が流れて、次に口を開いたのは信太だった。

「で、今度はここで先生やってるんだ」

「ああ、まあな」

「はは、懲りないよね。それも妖怪の学校だなんて」

「最初はいろいろと大変だったけど、みんないい奴だよ。まあ悪ガキもいるけど、人間とさして変わらない」

「ふーん、そっか」

 篠田が気のない返事を返して、また会話は途切れた。

 平は敢えて黙っていた。この少年の悪い癖を引き出すために。

「僕さ」

 長い静寂を経て、篠田が切り出した。

「実は、昔っから、いわゆる『見える』体質なんだよね」

 パシッという音が、また響いた。

「で、もしかして自分にはそういう力があるんじゃないか、とか思っちゃってね。ネットでいろいろ呪術とか退魔術とかを調べてやってみたら、なんか軽く出来ちゃってね」


   パシッ

         パシッ


「じゃあ、勉強なんかするよりも、妖怪退治する方が楽しいしかっこいいじゃん、とか思っちゃってね。それで、塾にも学校にも行かなくなったってわけ」


      パシッ   パシッ   パシッ……


「お前、そんな理由で妖怪退治なんかしてたのか?」

「そうだよ」


 パシパシパシッ……


 平はいかにも驚き呆れたという顔になった。正確には、そういう演技をした。

「お前は妖怪に何か恨みでもあるのか?」

「別に……」

 篠田はそこで少し言葉に窮しかけたが、すぐに続けた。まるで、静寂が語る何かを隠そうとするように。

「まあ、害獣駆除的な? それなら一般市民の役にも立つでしょ?」

 パシッと、とりわけ大きな音が響くと同時に、保健室の扉が外れんばかりの勢いで開かれた。

「てめぇゴルアァ! 言わせておきゃナメたこと吐かしやがって! 俺らが害獣だと? 楽しいしかっこいいだと? そんなくだらねえ理由で、チビやワッカに手ぇ出しやがったのか!」

 ヨルが目を血走らせ、保健室に押し入ってきた。

――本当に聞いてたのか……

 保健室の前で聞き耳を立てているヨルの姿を想像してドン引きした平だったが、それどころではない。今にも飛びかからん勢いで息まいているヨルを止めにかかる。が……

「おお、夜行君じゃないか。昨日はどうも。しかし盗み聞きとは趣味が悪いなぁ。あ、そもそも君はそれが本業だっけ?」

 篠田が煽り、事態は悪化した。

「んだとゴルァ!」

 怒号を飛ばして信太に掴みかかろうとしたヨルの前に、平が立ちはだかる。

「どけや先公! 今度こそこのクソガキの息の根止めてやらぁ!」

 怒鳴り散らかすヨルを抑えつつ、平は篠田に向き直った。

「なあ、篠田……」

 少年が無邪気に首を傾げる。

「なんでさっきから嘘ついてるんだよ、お前」

「へ?」

 首を傾げたまま、少年は固まった。

「昔から、お前の癖なんだよ。沈黙が続くと急にペラペラと喋り出す。それはたいてい、嘘や言い訳を考えているときだ。宿題を忘れると、途端に口数が多くなってたからな。で、決まって妄言を広げ過ぎて、収集がつかなくなってボロを出すんだ」

「え? 宿題やってない言い訳、嘘だってバレてたの?」

「逆にバレてないと思っていた図太さは賞賛に値するよ」

「マジか」と信太は頭を掻き毟った。

 実のところ、これは平の嘘……というより、誰にでも当てはまることなのだ。人は誰でも、嘘や言い訳を言うときには口数が多くなる。何かを見透かされているようで、沈黙に耐えられなくなる。だが、これは飽くまでそういう傾向があるというだけの話であって、それだけで確実に嘘を見抜けるわけではない。平は知っていたのだ。信太にはもう一つ、非常に分かりやすい癖がある。

――嘘をつくとき、左手の中指と薬指が手のひらを打つんだよな、コイツ……というのは、まだ本人に種明かししない方が良さそうだな

 平は改めてパイプ椅子に座りなおすと、未だ鼻息の荒いヨルを脇に呼び寄せた。しぶしぶやってきたヨルが少し落ち着くのを待って、平は切り出す。

「お前、本気でやってなかったんだろう」

 信太の表情があからさまに強張った。

「まあ、僕には妖怪退治が強い弱いだの上手い下手だのは分からない。だけど、派手にやっていた割に、ワッチ……あの輪入道な……あいつはピンピンしていた。クーちゃんの時だって、本当はわざと外したんじゃないのか?」

 俄かにヨルが色めき立ち、平の胸ぐらを掴む。

「先公! てめえ、そいつに都合のいい解釈してるだけじゃねぇか! やっぱりグルなんだな、てめえら!」

「違う! 僕は篠田のことを小学生のときから見てきたんだ。嘘を言っているかどうかくらい分かる」

「なんだぁそりゃぁ! そんなもん、何の根拠もねえだろうが!」 

 一気に剣呑になった空気を、篠田がさらに刺激する。

「お! 喧嘩と花火は江戸の華ってやつですか。いいねぇ、やれやれ!」

「てめぇなぁ!」「お前なぁ!」と組み合ったままの二人が信太ににじり寄ったところで、保健室の扉が開かれた。

「タイラのいう通りだよ」

 二人が振り向くと、クーちゃんが立っていた。

「チビ、てめぇ、何しに来たんだよ」

 ヨルの言葉を無視して、クーちゃんはすたすたと入ってくる。ベッドを挟んで平たちの対面まで来ると、篠田を醒めた目で見下ろした。

「本気とか何とか以前に、昨日の形代はそもそも軌道が逸れてた。顔の横で炸裂したからビックリして気絶しちゃったけど、なんていうか、光と音だけって感じ。咄嗟に庇ってくれた十二号と三十五号もピンピンしてるよ」

 どうやら眷属を番号で呼んでいるらしい。

「あっちゃ~、外しちゃったか~」

 篠田が苦笑いしながら額を抑えた。またパシっと音が響いた。呼応するように、蜻蛉玉がチリ……と鳴る。

「ふーん、本当に外しただけなんだね。それじゃ聞くけど、君は昨日、ちゃんと用意してたのかな?」

「用意してたって、何を?」

「ウチみたいなのを退治しに来る奴はさ、必ず持ってくるものがあるんだ。口にするだけで吐き気のするような代物をね。お金貰って妖怪退治を請け負うくらいなら、それくらい知ってるよね?」

 信太が黙り込む。表情から飄とした色が無くなりつつあった。

「持ってなかったんだ。そんなんで本気だったなんて言うのなら、退魔師として未熟なだけじゃなくて、オツムの方も相当よわよわだね」

 平は感心していた。篠田は飄々とした性格ではあるのだが、妙にプライドが高い。とりわけ、地頭のことに触れられると道化になり切れないきらいがあるのだ。

――さすがはクーちゃん、いろんなパパを見てきた中で磨かれた観察眼ってやつか……

 すっかり黙りこくってしまった少年の目を、平はもう一度まっすぐに見た。

「なあ、篠田。頼む。話せることだけでいい。あんなことをした本当の理由を、聞かせてくれないか?」

 窓の外では、すっかり日が暮れていた。

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