Purple haze (1)

 篠田晴は、平の勤めていた学習塾「メキメキ☆エデュケイション」の生徒だった。「だった」というのは他でもない。彼は今年に入って退塾していた。

 篠田が「ひこばえ」だったのかもしれない。思えば、塾生たちの急変は彼の退塾を皮切りにしていた。

 剽軽ではあるがどこか斜に構えていて、掴みどころがない。そのくせ、平には妙に懐いていた(ナメられていただけかもしれないが)。真面目とは言い難いが地頭は良く、勉強はサボっているのにテストは何とか切り抜ける。が、決して上位には食い込まない、食い込む気もない……そんな生徒だった。

 だが、今年の三月、学習塾における新学期が始まってしばらくすると、篠田の様子がおかしくなった。それまではサボるといっても、大人の堪忍袋をよく心得ていて、今度こそは叱ってやろうと思っているタイミングで突然真面目になるような狡猾さがあった。だが、その頃から宿題は一切やってこなくなり、これみよがしに居眠りをするようになった。怒鳴られようが詰問されようが上の空。そしてとうとう塾に来なくなり、ある日彼の両親が退塾の手続きをしていった。噂によると、学校にも行かなくなったらしい。

 平は篠田の急変が単なるサボりやモチベーションの低下ではない気がしていた。確証はない。思い過ごしかもしれないし、記憶違いなのかもしれない。だが、彼が何かに怯える素振りを見せていたのを、平は見逃していなかった。


 いつぞやの自分と同じように、篠田はクズハの膝枕でスヤスヤと眠っている。どうやらクズハには傷病を癒す力があるらしい。昨晩は見るも無残な状態だった少年の顔が、もうほとんど原形を取り戻していた。背中の傷跡にそっと触れながら、平は考える。

――あのとき、真正面から篠田と向き合っていれば……

 身を挺して彼のことを守ったのは、ただただ元生徒だからという理由からだけではない。生徒と腹を割って向き合えなかったという後悔の半分以上は、篠田に対するものだといっても過言ではなかった。

 篠田は時おり何やら譫言を呟いていたが、なかなか目覚める様子が無かった。平はしばらく彼のことを見守っていたが、やおら立ち上がり、保健室を後にした。

――今度こそ、向き合わないと……

 その足で屋上へ向かう。平とすれ違いに、ミサキが保健室に向かっていった。


 扉を開けて屋上に踏み出した途端、平の視界が遮られ、肩に衝撃が走った。どうやら誰かと入れ違いでぶつかったらしい。

「ああ、すみません」

 反射的に謝ったが、返答は無かった。恐る恐る見上げた平は息を呑む。ドレッドヘアの隙間から二本の角を生やした大男が、平のことを睨みつけていた。ワッチと同等か、それ以上の体躯だ。彼は一通り平のことをねめ回すと、何も言わずに階段を下りて行った。彼の後から数名、見たことのない異形の者がついていく。

――あれがヨルの言っていた「パイセン」たちか

 平はしばらく彼らの去った後を見つめていたが、気を取り直して歩き出した。

 ヨルは仰向けになって煙草をふかしていた。ワッチはいない。ヨルと一対一で話が出来るのは、平にとって好都合だった。

「良いのか? 学生が煙草なんか吸って」

 ヨルは平を一瞥すると、すぐに視線を戻してフンと鼻を鳴らした。

「うっせぇ。俺らに未成年もクソもあるか」

「まあ、そりゃそうだな」と呟いて、平はヨルの脇に腰を下ろし、足を投げ出した。しばらく沈黙が流れる。意外にも、ヨルが拒絶の色を見せることはなかった。

 平の目の前にスッと何かが差し出された。見覚えのある白地に緑のパッケージ。

 ハイライト・メンソール。

「悪かったな。アンタの教え子、ボコしちまってよ」

 ヨルは宙を見つめたまま、不愛想に言った。平は一本飛び出た煙草をごく自然に引き抜くと、床に落ちていたライターで火を点ける。塾で働き始めてからすっぱり禁煙していたから、一口吸っただけで頭がクラクラした。眩暈が少し落ち着くのを待って、平は口を開く。

「いや、こちらこそすまない。結果的に無事だったとはいえ、信太がクーちゃんを危険な目に遭わせたことには変わりない。その信太を僕は庇ったんだ。怒るのも当然だろう」

 管狐は七十五匹の眷属を連れている。そのうちの何匹かが咄嗟にクーちゃんを庇ったらしい。彼女が倒れたのは、単に大きな音と光による気絶だったのだ。

「ハッ! あいつがあんなことで殺られるタマかよ」

 涼しい顔で言うヨルを見て、平は笑いを噛み殺した。

――あの時はあんなに狼狽えてたくせして……

 再度、暫時、沈黙。

 次に口を開いたのは、平だった。

「好きなんだな。 クーちゃんのこと」

 ヨルがむせ返る。

「な、何言ってんだバカ野郎! ぶっ殺すぞ」

 顔を真っ赤にしたヨルを見て、平は思わず噴き出した。

「……んだよ。モクなんかくれてやるんじゃなかったぜ」

 ぞんざいに煙草を揉み消すと、ヨルはゴロリとそっぽを向いた。

 三度、沈黙。

「俺はただ……」ヨルが訥々と始める。

「チビが人間に媚売ってるのが気に食わねえんだよ。まあアイツはそうやって人にオマンマ食わせてもらうタチだから仕方ねえんだけどよ。でもな……」

 ヨルの声音が一つ下がる。平は思わず彼を見た。ヨルは相変わらずそっぽを向いている。

「チビに憑かれたニンゲンはよ、始めはそりゃもうアイツのことを大事にするんだ。そりゃそうだろう、飯さえ食わせてやれば何もかもが上手くいくんだから。だけどな、いつかは必ずバランスが崩れる。ニンゲンってのは馬鹿だから、次第に勘違いし始めるんだ。自分の人生が上手くいってるのは、自分自身の力によるものだってな。その結果、取る行動は二つだ。アイツをぞんざいに扱うようになるか、自分の方が上の立場だと勘違いしてより多くを求めるようになるか。チビはそういうのに敏感だから、そのうちに見限って自分から離れる。そんで、見限られた野郎はアッという間に破滅するんだ。そんなことを繰り返していれば、逆恨みする奴だって出てくるだろう。今回みたいに、誰かに頼んでアイツを退治しようなんて恩知らずが出てくるだろう。ニンゲンに媚売った挙句、ニンゲンに退治されるなんざ、お笑いにもなりゃしねぇよ」

 終始ぶっきらぼうな口調ではあったが、いつもの冷笑めいた印象はなかった。平はその冷静な洞察ぶりに驚いていた。否、彼の悪ぶった言動の裏に真逆の一面が隠されていることは、平も薄々理解していたのだ。逆にいえば、そのヨルが一切の理性を忘れて怒り狂った昨夜の光景は、彼の中でクーちゃんがいかなる存在なのかを物語っていた。

 ヨルが再び煙草に火を点ける。平はまだ残っていた煙草を静かに揉み消すと、意地の悪い口調で言った。

「じゃ、真面目に勉強して、クーちゃんを養えるくらい偉くなればいいじゃないか」

 ヨルが再びむせ返る。

「ブッ……だから、そんなんじゃねえって言ってんだろうが!」

 むくりと起き上がって詰め寄るヨルを、平がまあまあと掌で制する。

「あら、楽しそうですね。お二人とも」

 頭上からの声に二人が振り向くと、すぐ後ろにミサキが立っていた。ニコニコと二人のことを眺めている。ヨルはブツブツと口籠りながら、平から離れた。

「篠田君が目を覚ましました。行ってあげてください」

 平は一つ頷いて立ち上がる。歩き出そうとした彼をヨルが止めた。

「待ちな。俺も行く。アンタのこと、まだ信用したわけじゃねぇ。それに、俺だってあの餓鬼には聞かなきゃならないことがある」

 だが、平は譲らなかった。

「すまない。君の気持ちはよく分かる。だけど、これは僕と篠田の問題なんだ。僕は彼に対して、いろいろと後ろめたいところがある。そして恐らく彼も僕に対して、何か隠している。だからこそ、二人で話させてほしいんだ。ちゃんと報告すべきことは報告する。何なら、保健室の外で聞き耳を立てておいてもらっても構わない」

 ヨルは表情を険しくしたが、それ以上何も言わなかった。平はもう一度「すまない」と口にすると、屋上を後にした。

 すれ違いざま、ミサキがやけに明るい笑顔で見送るのが気になったが、平にその理由を考える余裕などなかった。

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