人生に疲れたから隠居したいってそんなにダメなことですか?
斎藤 正
第1話 隠居したい
人生に疲れたなって思う時が、人間なら誰にでもあると俺は勝手に思っている。もし思ったことがない人がいるのならばどんな人生を歩んできたのか聞いてみたいが、とにかく俺は今までの人生2回で何度も思ったことがある。でも、大抵そう思う時ってただ疲れて思っているだけで、実際には寝て起きたらそんな気持ちも吹っ飛んでいることの方が多いのだが……今回はなにかが違った。
例えるのならば、張り詰めていた糸が経年劣化でいきなりプツンと切れるような感覚。ずっと愛用していた物が、突然いきなり壊れるような現象。そんな日常の中で唐突にやってくるような気持ちの切れ目が、俺の2回目の人生にやってきた。
疲れたからもう隠居しよう、と。
ヨハンナとは、俺が2回目の人生を送ることになった国の名前である。古の女傑ヨハンナの名前からつけられた国の名前らしく、100年以上前は国王がトップとして君臨する王政だったらしいけど、王族の求心力が低迷していたこともあって革命で殺される前にさっさと民主化してしまおうと王族の立場を捨て、民主化した国。現在は評議会と呼ばれる偉い人たちが7人ぐらいで最終決定をしている。
2回目の人生なんて言っているが、俺には前世の記憶がある。普通の家庭に一人っ子として生まれ、普通に学校に行って、なんか普通に就職して……なんか生活習慣病で普通に死んだ。女性と付き合った経験はあるけど結婚はしたことがなく、特に熱中していた趣味もある訳でもなく……振り返ってみればつまらない人生だったと、思ってしまうような50年程度の人生。しかし、何が原因なのか知らないけど俺はいつの間にかこのヨハンナという国に転生していた。
異世界転生という小説ジャンルが、前世の世界には存在していた。交通事故にあった主人公が神様のミスだったみたいな話でいきなり異世界に転生させられて、そこで色々とする小説だったりするのだが……俺はこれに似たような状態なんだと思う。違うことと言えば、別に交通事故とかでもなくただの生活習慣病で入院して死んだこととか、そもそも神様になんて合っていないこと。転生特典みたいなチート能力なんて持っていないこと。いや、もしかしたら自覚がないだけでチート特典貰ってたのかも……ないわな。
俺は現在25歳になるが……こちらの世界でも女性とは何回かいい雰囲気になって肉体関係まで持っていった女性もいるが、結婚はしていない。この国では一夫多妻制が認められているが、俺にはそもそも1人目の妻がいない。恋はできても、愛することはできないんだなって……難しい。しかし、前世も含めると既に70を超えたおじいちゃんである……もう恋愛するのも疲れたし、そろそろ人間としても隠居でもしてゆっくりと余生を過ごしたいなと思って、俺は仕事を引退することにした。
「と言う訳で、人生に疲れたから引退しようと思う」
「……ヘンリーさん、気でも狂ったんですか?」
返答がそれって酷くない?
受付に行って最初に話したのに、なんでそんな酷いこと言われないといけないの? 俺、自慢じゃないけど結構この場所に貢献してたと思うんだけどな。
俺が引退を告げに来たのは探索者協会の本部。ヨハンナの首都であるマグニカにある大きな建物なんだが……俺はそこに所属する探索者の1人だったのだ。
探索者とは、国を超えて様々な活動を行うことができる職業のことを指す。たとえば未開の地の開拓、踏破されていない迷宮の探索、人里近くにやってきて被害をもたらすモンスターの駆除……様々な分野で魔法と肉体を駆使して解決する人間のことを、まとめて探索者と呼ぶ。ちなみに一番人気は迷宮探索……だから探索者なんて呼ばれるんだけども。
俺はその探索者の中でも珍しい、開拓者として名を馳せていた。人がまだ到達したことのない未開の地を自分の足で踏み荒らす……これに勝る娯楽なんてないと思いながら俺は様々な道具を駆使して世界中を駆け回ったものだ。
「あのですね……貴方が引退したら未開の探索なんて誰もしませんよ。貴方がこれまでヨハンナにどれだけ貢献してきたのかを知っているからこそ言わせてもらいますが、まだ25歳なのに人生に疲れから引退するって馬鹿ですか?」
「だって本当のことだし……大丈夫だよ。最近は俺の背中を見て育った世代が開拓者になりたいって言ってこの探索者協会の門を叩いているんだろう?」
「25歳の有名人を追いかけて門を叩くのは、幼児ぐらいですよ」
マジで? もう10代半ばぐらいの少年少女が黄金郷を目指して開拓者になるために門を叩いてないの? もったいないなぁ……頑張れば迷宮探索者より儲かるのに。
「大体、引退してどうするんですか? 結婚もしてないのに」
「ちょっと森の方で畑でも耕しながら隠居しようかと思って……駄目なの?」
「引退するのは自由ってことになってますけど、多分ヘンリーさんぐらいの実力者になると、会長が出てきて止めると思いますよ」
「そうかなぁ……それは困るんだけど」
「そもそも、その年齢で隠居って流石に生き急ぎ過ぎじゃないですか? もっと現役を続けてから引退して畑でも耕せばいいじゃないですか」
「でも、もう土地は買っちゃったんだよね」
「なにしてんですか……」
呆れられちゃった……でも、前世の頃から畑を耕して働いた金を使って田舎で悠々自適な生活を送るの、夢だったんだよね。前世だったら田舎で引き籠っていればいいかなって思ったけど、この世界だったら色々と畑で育ててみたい植物とか、ペットとして飼ってみたい動物もいるし。
「とにかく、引退できなくてもいいけど、俺はもうこの街の協会には来ないと思うよ。完全に引き籠って余生を過ごすんだ」
「余生の方が長いじゃないですか!」
それはそうなんだけどね……でも、精神年齢からすると70まで働くって相当キツイよ。もう心はボロボロよ……若い肉体に引っ張られて結構若い感じに頑張れてたけど、もうちょっと限界かな。
「じゃ、じゃあ相棒さんはどうするんですか?」
「え、俺に相棒なんていないよ?」
ずっとソロで頑張ってきたし。
俺のその発言を聞いて、受付さんは動きを完全に停止させた。確かに、誘われる形で何度か一緒に行動した人はいたけど、基本的に俺は1人でしか活動してこなかったから相棒なんて1人もいないし。だからこそ、後腐れなく引退して隠居することもできるんだけどな!
受付さんがしどろもどろになってしまったので、結局引退の手続きはせずに自主的な引退ってことで、探索者としての資格を保有したまま隠居することにした。
それにしても、なんで相棒の話をしてから受付さんはあんなに動きが怪しくなって視線が泳ぐようになったんだろうか……不思議な人だな。
「おはようございます、ヘンリーさん」
「んー?」
もう夕方なんだけど、なんでおはようございますなんて挨拶してくるんだ? そもそも、俺に対してそんな挨拶してくるような人なんていたかな。声のした方へとゆっくりと振り向くと、そこには長い髪を揺らしながら女性が立っていた。
「あー……なんだ、アルメリアか」
淡い紫色の綺麗な髪をなびかせながら俺の背後に立っていた女性は、俺の知り合いだった。俺よりも少し若い年齢でありながら、俺と同様に実力者として有名な開拓者仲間だった。何度か危険な場所にも一緒に行ったことがある仲間だけど、どうして俺を呼び止めたのだろうか。
「ヘンリーさん、引退するそうですね」
「誰から聞いたの?」
「協会で貴方が受付の方に言っていると、他の探索者の方々が噂にしていましたよ」
「そっか」
そんな簡単に噂って広がるんだな……ネットがない世界だと、口伝えの情報が物凄い速度で広まる気がするんだけど、気のせいじゃないよな。
それにしても、太陽が沈んでいる方向にアルメリアが立っているので、逆光によってアルメリアの表情が見えない。まぁ、穏やかな声色してるから多分見惚れるような笑顔だろうな。
「……相棒なんて、いないそうですね」
「うん」
「ふふ、面白くない冗談ですね」
普通に頷いてから前を見たら、互いの息の音が聞こえそうなぐらいの距離まで詰め寄られていた。街中だから油断していたとはいえ、まさかこんな急接近されるなんて思っていなかったので、心臓が物凄い感じに跳ねるのを感じた。
こちらの瞳を覗き込むようなアルメリアの瞳は、真っ黒に淀んでいるように見えて……頭の片隅で生存本能が警鐘を鳴らしているのを感じる。口元はにっこりと笑顔なのに、全く笑っているように見えない。
「探索者として余りに脆弱だった私の手を取り、開拓者として育ててくれたのは貴方ですよ? ずっと私を見ていてくれると約束してくれたのも貴方ですよ? ヘンリー・ディエゴさん……貴方は私との約束を違えるつもりですか?」
「いや、ずっと見てるってのは、未熟な時はって意味で」
「面白くない冗談は相変わらずですね。将来を誓う以外の意味があるのですか?」
ひえぇ……なんで俺はこんなアルメリアに詰め寄られてるの!?
彼女の言う通り、探索者として芽が出ていなかった彼女を一人前の開拓者になるまで育てたのは俺だが、それは相棒って言わないじゃん。しかも、いつの間にか将来を誓った相手みたいな話にまで拡大してるし!
どうにかして逃げ出さなければと考えていたら、背後から思い切り引っ張られて俺はアルメリアと距離を取ることに成功したが、代わりに柔らかいものに後頭部が当たる感触がした。
「ヘンリー、開拓者辞めたんだって? なら私と一緒に探索者やらない?」
「ま、マリー?」
俺の頭の上から声をかけてくるのは、見る人を魅了する金色の髪と瞳を持つ美女。彼女の名前はマリー……俺と同い年の探索者で、元カノだ。
元々は俺と一緒に開拓者をやっていたが、迷宮探索の方が一つの場所に留まって活動することができるって理由で探索者になった元カノ。俺は未知の場所を冒険するのが好きなんだと、半ば喧嘩別れみたいな形で別れたんだけど……なんで俺に対してこんな友好的に接してくるのかわからない。ただ、俺はマリーと一時期同棲していたからわかるが……この目をしている時のマリーは危険だ。俺の身体が狙われている夜の時は、いつもこういう顔をしていたから……すぐに自分が今、危険な状態であることは理解した。
「ちょっと、ヘンリーさんを離してくれませんか? フラれた女が今更出てこないでください」
「あぁ、まだいたんだ。そもそも女として見られてないって気が付いた方がいいわよ」
「あ?」
逃げよう。
俺は女性との関係が上手くいかない人間であることは自覚している。それなりの数の女性と付き合ってきたのに、結婚は一度もしたことがないんだから疑いようのない事実なんだが……それにしたってこれはないだろ。
あんな感じの雰囲気の女性に迫られたのは、前世でも確かに何回かあったけども。ヤンデレって言うのだろうか……とにかく、今の俺にあんな感じの女性の相手はキツイ。もう精神的に隠居して静かな余生を送ってやるって思ってるのに、クソ重い感情を向けられても俺にはどうすることもできない。いや、相手が1人だったら覚悟を決めて想いに応えてやるのがいいんだろうけど、流石に2人は無理だって。しかも一瞬で喧嘩始まったんだぞ……地獄か? もしかして、俺が気が付いてないだけで転生した訳じゃなくて俺は地獄に落とされたのか?
「はぁ……これからどうしよう」
「あら、住む場所に困っているの? それともお金? 女かしら?」
冷たい路地裏うずくまってこれからの人生について絶望していたら、急に声をかけられて顔を上げたら……そこにはアルメリアとマリーにも劣らない美人の顔があった。しかし、さっきの2人とは違って俺はこの美人さんに対して特になにか思い出がある訳ではない……初対面だと思う。
「誰?」
「ふふ……サフラン、と名乗らせてもらうわね」
「偽名?」
「今は、嘘の名前で勘弁してちょうだい。私も色々と立場があるから」
ほぉー……明らかにツヤツヤな赤色の髪の毛、自己主張が激しくないけれど滅茶苦茶高そうに見える首物とネックレス、服だってよく見れば丁寧に仕立てられているし、肌も健康的に見える。つまり、この人は金持ちで偽名を名乗らないと即座に誰かわかってしまうような人間ってことだ。しかし、これだけの情報があれば普通の人は赤髪から誰かわかってしまうものなのかもしれないが……開拓ばっかりやっていた俺には全く見当が付かない。
「悪いけど、今は女の人に借りを作りたくなくてね」
「知ってるわ。だってさっきまでの、全部見てたもの」
逃げるしかないな。
「あ、ちょっと待ちなさいっ!?」
俺はもう逃げるぞ! 森の中に買った土地で、ずっと穏やかに過ごすんだ! 俺はもう、絶対に面倒ごとに関わらないで、この世からゆっくりとおさらばするんだからな!
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