籠の鳥
桜田 優鈴
第1話
五月になりやっと都会に住み慣れた頃。気温が上がり過ぎたその場所は、もう自分にとって暮らしやすいところではなくなってしまった。長い長い旅を経て、ようやくたどり着いた新たな住処は、都会とは正反対な、のどかな森林だった。そこは喧騒とは無縁のようであった。引っ越してきた始めの数日こそ、静かな雰囲気を気に入っていたが、それまでたくさんの人にちやほやされて育ってきたので、すぐに寂しさという感情に押し潰されるようになった。毎晩鳴きながら人間の気配を求めて飛び続けた。しかしなかなか見つからない。ひと月もふた月も探し求め、両の翼は今にも千切れそうだった。
もうここには人間なんて居やしないのでは…そう諦めかけたとき、どこからか綺麗なピアノの音色が、風にのって運ばれてきた。痛む翼に力を込めて、音のする方へと向かう。そうしてやっとの思いで見つけたのは、一件の白いコテージだった。美しい音楽は、そこから漏れ聞こえている。期待に胸を膨らませ、二階のバルコニーに降り立つと、窓辺に鳥籠が見えた。もしかして、仲間だろうか。もう一度翼を広げ、窓枠に足を掛けた。中を覗き込んだ瞬間、胸の辺りがきゅぅ、と締め付けられて、危うく窓枠から落ちそうになった。慌てて畳みかけていた羽をばたばたさせてバランスをとり直す。乱れた心を落ち着かせ、再び顔を部屋の内に向けた彼の瞳には、もう彼の心を掴んだ存在しか映っていなかった。そこにいたのは、美しい、真っ白な小鳥だった。宙を見つめる瞳は麗しく澄み、毛並みは整い汚れひとつなく、真っ直ぐなくちばしは品の良い桃色をしていた。ぼーっと見とれていると、不意に彼女が振り向き、こちらの存在に気がついた。
「こ、こんにちはっ」
間抜けにも今更、挨拶をしていなかったことに気づく。咄嗟に出した声は、裏返った。
「こんにちは」
それに対して彼女の声音は、見た目通りで綺麗だった。
「あの、勝手にお邪魔してしまってごめんなさい。人間を探していて、飛んでいて、ピアノが、見つかって、綺麗で」
「まぁまぁ。落ち着いてください」
チュチュチュ、と笑う彼女は、愛くるしく小首を傾げた。「私は文鳥のチュンと申します。貴方のお名前は?」
「な、名前…えーっと」
問われて初めて、自分に名前が無いことに気がついた。
「貴方のお姿は、以前ご主人さまが見せてくださった図鑑で拝見したことがありますわ」
困り果てていると、チュンが助け舟を出してくれた。
「確か“ルリビタキ”という種でしたよね」
「ん、えと、…そうだよ」
るり…何とかという名称は初めて聞いたが、多分合っているのであろうし、チュンに薄学だと思われたくはなかったので、とりあえず肯定しておいた。
「写真で見たよりも綺麗な青色…まるで幸せの青い鳥が、絵本の中から出てきたみたい」
“幸せの青い鳥”がどんな鳥なのかはやっぱりよくわからなかったが、チュンにうっとりとした表情で見詰められ、どぎまぎしてしまう。
「貴方のお名前、私がつけてもよろしくて?」
「も、もちろん」
「じゃあ…『アオ』というのはどうでしょう」
「素敵です、アオ、本日たった今から、僕はアオと名乗ります。ありがとうございます」
どんな名前かなんて、正直関係なかった。それがチュンにつけてもらった名前であること。それこそが重要なのであった。
「気に入っていただけて、嬉しいですわ」
本当に嬉しそうに笑うチュン。もうこの笑顔ほど美しいものなどこの世界に無いのではないか。
「チュン」
突然、部屋の扉が開いた。
「ご主人さま」
現れた人間の少女に、チュンがその綿毛のような翼をはためかせる。―――嗚呼。知りたくはなかった、更なる可憐さ。もうその瞳に、アオの姿など欠片もなく。
「あら、小鳥…」
少女と目が合うと、アオは慌てて飛び上がった。
「お邪魔のようだから、僕は行くよ。さようなら、チュンさん」
「またいらしてねアオさん。さようなら」
また、という言葉に胸を高鳴らせつつ、アオは森の中の巣へと帰っていった。
「チュン、お友達ができたの?」
「そうなのご主人さま」
籠越しに頭を撫でてくれる細くて白い指に、すり寄って鳴く。
「そっか、良かったね。これでもし…もしも私がいなくなっても、チュンは寂しくないね」
「違うよ、私はご主人さまがいなかったら生きていけない。ご主人さまがいないと駄目なの」
いつになく切なげな声音を出した主人に、大慌てで羽をバタバタさせる。その様子を見て、主人はくすっ、と小さく笑った。
「ありがとう。そうね、悪い想像をしたらダメね」
「うん。私、ご主人さまがだーいすきなの」
気持ちを伝えようと一生懸命鳴いた。でも。
「どうしたの、お腹空いた?ごはんにしようか」
「違うの」
「はいはい、わかっているからね、ちょっと待ってね」
「ちがうのに…」
チュンはとても悲しくなった。人間である主人に、文鳥である自分の言葉がわかってもらえないのは仕方のないことだとわかっているつもりではあるが、こうして想いが伝わらないのを目の当たりにすると、どうしたって切なくなってしまうのだった。人の言葉を覚え話せるようになれればいいのだが、文鳥という種の鳥はお喋りな鸚鵡たちとは異なり、会話はあまり得意とは言えない。訓練すれば多少発話できるようにならなくはないが、主人はチュンに言葉を覚えさせようと考えていないようで、練習させてはくれなかった。
「はい、ごはん」
「…ありがとう」
お腹は空いていなかったけれど、主人の好意を無駄にしないべく、無理やり餌を飲み込んだ。
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