第10話

 教室でカバンから荷物を取り出していると、妙にクラスメイトたちがざわざわと騒いでいるのが気になった。

 雑多なざわめきが、狭い教室の中をあちこち壁を反射して飛び回る。

 珍しくハルカとルカは私に構わず窓辺で楽しそうに話している。どうやらアミはまだ来ていないらしい。

 またなにかされるんじゃないかと思っていた憂うつ感のかけらが、ポロリと胸を蹴って落ちていった。その欠片は溶けることなく床をテンテン…と転がっていく。

 私はそれを戻ってこないように右足で軽く踏みつけた。

 「誰かに渡すの?」

 「ちょ、やめてよ。近いってば。」

 「もったいぶんなってー」

 するとすぐ後ろの方で、女子たちのキャッキャとした普段よりも1トーンぐらい高い声が聞こえてきた。互いを小突きあうように、同じような押し問答を何度も楽しそうに繰り返し話している。

 話に夢中になっているのか、私の後ろの席の机に女子の太ももあたりがぶつかり、私の背中にぶつかる。

 私はつい眉をひそめた。

 しかし、その会話で私はようやく合点がいった。

 カレンダーに視線を向ければ、5月上旬。そういえば、もう少しで体育祭が始まる時期だ。

 行事ごとにあまり興味がなくて忘れていた。

 興味がないというか、行事が始まるたびの、あの「全員で団結しなきゃいけない」といった雰囲気が嫌いなのだ。いつも私をただ何もせず眺めているだけの彼らが、特に話しかけてくるわけでもないのにクラスの和を乱すことを嫌って形だけの協力を求めるのだから、これほど都合のいい話はない。

 気づけば、無意識のうちにため息が出てしまっていた。

 小さい吐息だったが、水と油みたいに空気とは混ざり合わず、ぐるぐると分裂していった。

 カレンダーを見た拍子に肩から滑り落ちた髪を指でくるくるといじる。艶は感じられるが、固くて触り心地はあまり良くない。

 日が差しても透けて茶色く見えない真っ黒な髪色。お母さんも髪が真っ黒で、顔が似てないこともあって、唯一お母さんに似たこの黒髪は私のお気に入りだ。

 お父さんはもうちょっと色素の薄い色をしていた気がする。

 お母さんの漆のような艷やかな黒髪も大好きだが、日にかざすとキラキラ光るお父さんの髪も大好きだった。

 「えー!!」

 懐かしい思い出を切り裂くように、黄色い声で耳が刺され、滑らかで温かい世界から現実へと戻される。

 カバンをしまうついでに後ろを見てみると、「静かにしてってば。」と、うち一人が人差し指を口元において、先程の声量を把握できていないのかほか二人はこれでもかと口角を上げて笑っている。

 この女子たちが騒いでいるのはきっと、「ジンクス」の話だろう。

 ジンクスとは言っても、この高校特有のものとかではなくて、「好きな人とハチマキを交換して告白すると二人は幸せに結ばれる」という、ごく一般的で典型的なものだ。

 後ろの女子たちは、うち一人が誰かに渡すのを知って騒いでいるんだろう。

 よく他人の色恋話で盛り上がれるな、と遠巻きに彼らを眺めていると、後ろから、ガラッと建付けの悪い音とともに、担任が教室に入ってきた。

 「おーい、ホームルーム始めるぞ―」

 遠く近くで交差する騒ぎ声を制し、先生は教壇に立った。

 クラスメイトたちは、まだ話足りないという顔をしていたが、各々の席に慌てて戻っていった。

 それを見た先生は「よし」誰に伝えるわけでもなく独り言のように小さく頷いて、教卓に抱えていた大小さまざまなプリントをドサリと置いた。衝撃で、プリントの端がふわりと跳ね上がる。パタパタと跳ね上がって沈むプリントは鳥の羽みたいだ。

 隣の方で、キキ…と椅子の足と床とがこすれて不快な音を出す椅子を引いて、日直が立ち上がった。おそらく最初に椅子を引いたときに、予想に反して金切り声みたいな高い声が唸るように余韻の尾を引いて響くものだから、それが不快でなるべくゆっくり椅子を引いたんだろう。日直の釣った眉の間にはしわができていた。

 「起立」

 ちゃっと間延びした、真夏のアイスみたいな溶けた声がじっとりと滲んだ。

 それを合図に、ガタン、ガタン、ガタタ…と、前に後ろに、左右までもから共鳴するようにがさつな机と椅子がぶつかる音が波が足寄せるみたいに生まれる。鼓膜をグワングワンと太鼓の布で包まれた鉢みたいなもので叩かれる。

 「これから朝のホームルームを始めます。」

 全員が椅子をしまって立ち上がったのを見届けて、日直は再び気だるげに口を開いた。

 その音が空気の中をじわーっと滲んでいって皆の耳に入ったとき、全員が少しばらつきのあるリズムで礼をした。

 礼と言っても、お店の店員さんがする丁寧な礼じゃなくて、背中を丸めてちょっと頭を下げるだけだ。

 私も申し訳程度に頭を揺らすように頭を下げた。

 再びガタガタと乱暴に椅子に座る音が、四壁を跳ね返って本当の音より増幅して大きくなる。あちこちで聞こえる音は、石を投げるみたいに、何度も何度も私にぶつかってくるような気がした。

 お腹の深いあたりがズキ、と、低く唸るように痛みが泳いだ。波が寄せてくるみたいに、痛みは間隔を開けて押し寄せてくる。

 最近は、この痛みが頻繁に私に会いに来る。

 それが体調不良が原因ではないのは薄々気がついていた。

 でも、それを解決する方法なんてなくて、ただ耐えるしかない。

 私は胸の下、お腹の上辺りに手を当てた。体に触れて初めて、手が震えていることに気がつく。カタカタと震えるそれは、止めようと力を入れると更に大きくなった。

 トク、トク、と、手で触れている場所から離れたところで、心臓がゆっくり拍動していた。振動はごく穏やかで、静かにその音を刻んでいる。

 それでも、手の震えと腹痛は消えていかなかった。

 「よし、じゃあ、いくつか連絡事項があるからよく聞けよ。」

 担任は、手元の教卓においてあるプリントを見て説明し始めた。私はそれを、重要なところだけ掻い摘んで聞き流す。

 震える指先をそっと机に乗せた。ひんやりとした刺激が指先を伝う。

 天気はこんなに晴れているのに、机は冷えているんだ。

 「皆気になっていると思うが、もう少ししたら運動会準備が始まっていく。今週末くらいになったら、競技内容も含めて詳細に伝える。それと、伝言だが今日の体育は50mのタイムを測るらしい。事前に説明されてるな?」

 先生の問いに、皆はコクリと首を縦に振った。

 たしか、前の授業で先生が言っていた気がする。

 そのとき、窓辺でブワッとカーテンが浮き上がり、その隙間から一足先に夏の匂いを含んだ風がビュンと入ってきた。

 髪がふわりとなびき、教卓上のプリントもパタパタと振動する。

 プリントが飛んでいきそうになって、慌てて先生は上から抑える。それでも自由になりたいプリントたちは、抗うようにバタバタと抵抗している。

 窓の方へ視線を向けると、太陽の光に照らされてキラキラと光るアスファルトが熱を吸収していっている。

 いつもより彩度の高い外は、走るにはもってこいだろう。

 だが、私はあまり気乗りしなかった。走るのは嫌いじゃないし、紫外線を気にするほどの女子力は残念ながら持ち合わせていない。

 明確にこれが嫌、と胸の中でうごめくゴワゴワした気持ちをうまく表現できなくてもどかしい。ちょうどかゆいところに手が届かない、といった感じだ。

 突然の強風にざわめくクラスメイトたちを、まるで魂だけ体が抜けてしまったような、第三者目線でぼんやりと眺める。

 ちくり、と首の後ろが細い針で刺された感じがした。


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