第8話

 昼休みになると、いつもどおりクラスメイトたちは一斉に外に出る。

 が、今日は私もその波に乗って教室の外に出る。

 けれども進行方向が違うゆえに、大勢の流れに逆らい、ときにぶつかられた気もしたが無視して進む。

 目的はもちろん鍵のキーホルダーを探すためだ。

 無論学校にない可能性だってあるのだが、探さないよりはマシだ。

 それに、仮にもう学校にないとしても、探しに体を動かさないと、抑えてる黒い気持ちの堰が壊れてしまいそうだ。

 ひとまずは一通りのゴミ箱を探ってみる。

 グラウンドは、変えるときにでも探そう。

 鍵が閉まっている教室もたくさんある。

 意味はないかもしれないが、なんとなくドアの透明になっている部分から中を覗く。

 もちろんそんなところにはあるわけがなく、それなりに学校中を探してみたが、財布は見当たらなかった。

 何度同じような形状をしている小さな深いブラウン色をしたゴミ箱を探っても何も出てこず、心の電池が切れかけていた。

 やっぱり、もう捨てられてしまっているのかもしれない。あいつなら有り得る話だ。

 すっかり疲れてしまい、私はぼんやりと歩き始めた。

 ふと、屋上に行けばあの人にまた会えるだろうか。

 たしか、名前は、

 「ハク」

 噛みしめるように、でも歯切れの悪い声で、まわりにきこえないぐらい小さくつぶやく。

 不思議な感じだ。

 またあの時みたいに、胸がぎゅっと誰かに掴まれるような気がして、でも前みたいに息苦しさがあるわけでもないが、喉の奥が乾いた感じがする。

 なぜか、胸からせり上がってくる生暖かいものが、またあそこに行きたい、と訴えてくる。

 ちょっと考えたが、時間はまだ残っていて教室には行きたくはないし、あの人がいなければそのまま時間が過ぎるまで待っていればいいだろう。

 そう思って歩みを屋上に進めた。

 偶然かもしれないが、自分が無意識に進んでいた方向と屋上は同じ方向で、もしかしたら何もしなくてもそのまま屋上についていたかもしれない。

 なんだかこそばゆい感じがして意味もなく制服を指で掴んですり合わせてみる。

 屋上に進んでいけば、どんどん人がまばらになっていく。

 階段につけば、もう、何の音も聞こえない。

 乾いたミミズが雨に打たれて生き返るように、水を受けて体のなにか黒くて重いものが流されていく。

 やっぱり、ここなら息ができる。

 屋上の扉に手をかけると、ほんの少しだけ心臓がコン、と内側から胸を叩いた。

 すうっと息を吸ってドアノブにかけた手に力を入れる。

 ギイ、…と古びたサビと床がこすれて悲鳴を上げる。

 それを開くともう、そこは別世界だ。

 太陽を中心として広がる輪の光と、丸くサラサラと降ってくる光が重なり合って、まるで1枚の写真みたいだ。

 空には綿菓子みたいな薄い雲が、いつもよりゆっくり流れている。

 雲の水滴一つ一つは太陽の光をキラリと反射し、オレンジのような青のような色をつける。

 かたりと小さな音がして、音のした方を振り返る。

 「やっぱり」

 そこにはコロコロと鈴を転がすような笑顔を浮かべているあの人―ハクがいた。

 「こんにちは」

 口の端をふっと緩め、小首を傾けるとその動きに合わせて髪がサラリと揺れた。

 透明のように見えるその髪は、光をあちこちに反射して、きれいに磨きかけられたガラスみたいに、光を色んな色に変えながら髪の上にも光の輪ができている。

 天使の輪みたいだな、と思った。

 「こんにちは」

 ハクの挨拶に応えるが、ハクみたいに柔らかく、自然に動かない表情筋は突っ張るような感じで、ハクの柔らかい肌に視線を滑らせ、一体何が違うのだろうと思った。

 「あ、そうだ。」

 そうひとつつぶやくと、ハクはポケットに手を入れて何かを取り出した。

 「これ、さっき見つけたんだけど。」

 ハクは白く細い両手を広げて、そのポケットの中身を私に見せた。

 広げられた手は、日差しに照らされて白い手がより一層白く透明のように見える。

 その上には、色褪せて白く見えるピンク色のプラスチックの鍵が乗っている。

 何度も記憶に刷り込んで見たそれは、私がずっと探していたものだ。

 どうしてここにあるのだろうか。

 軽そうなそれは、風に吹かれてひっくり返った。

 同時にハクの手もかすかに揺れて、この人はこのまま飛んでいってしまうんじゃないか、と赤みの見えない白い肌を見て心配になった。 

 「それ、私のだ。」

 私がそう言うと、ハクは驚くことなく、確証を得た、とでもいうような頬を上げて笑った。

 その鍵が私のものだとわかっていたかのように、日差しによって長い眉の影が落ちた色素の薄い目が、すっと私を見つめた。

 影がかかっているせいか、いつもと少し色が違うような感じがして、色素が薄いからよく見える瞳孔が一瞬キュっと小さくなった。

 よく見ると、瞳の縁が青色だ。瞳は色素の薄い金茶色なのに、そこだけ紺色のインクがにじみ出て、鮮やかなコバルトブルーで色づけられている。

 「どこにあったの?」

 そういうとハクは、頬から緩やかな曲線を描きながら、滑るように顎で結んだシャープな輪郭を動かし、濃い桃色の唇を開いた。

 そして人差し指をピンと立て、扉のすぐ近くを指差した。

 きれいに整えられている爪が反射で煌めいた。

 「あそこに落ちてたよ。少し汚れちゃってたから、ハンカチで拭いておいたけど。」

 私がハクと同じように両手を広げると、ハクは自分の持っていた鍵を一度片手にするりと移し、それから大事そうに私の手のひらの上に優しく置いた。

 ほんのりしたぬくもりが私の手の上に転がる。

 多分、ハルカが屋上の柵の前から放り投げたのだろう。

 屋上の扉はボロボロで簡単に入れてしまうが、あくまでも立入禁止場所だから、ハルカは私が入らないと思ったのだろう。

 「欠けちゃってるね、ここ。」

 ハクが私の手を覗き込んで、陰りのある顔で鍵の頭の方を指差した。

 拍子にサラリと髪がこちらに揺れて、空気を伝うように、甘くてしっとりとした香りが鼻先を優しく撫でた。

 柔軟剤だろうか。ルカのホワイトムスクと似ていて甘い香りなのに、ハクの香りは嫌な感じが全然しなくて、純粋にいい匂いだと思った。

 ハクの線の細い指が指している部分には、ハルカが放り投げたせいだろうが、もともと劣化しているせいもあって、少しだけ欠けてしまっている。

 「大丈夫だよ。それより、拾ってくれてありがとう。」

 「大事なものなの?」

 大事な物。うんそうだ、大事なもの。今の胸の温かさを抱きしめるように、鍵を胸に引き寄せて頷いた。

 鍵がなくなっただけでお母さんとの思い出がなくなるわけじゃないけれど、それでも胸にポッカリと空いた空白が埋められた感じがして、さっきまでの形容し難い焦燥感がフッと綿が溶けるみたいに消えてなくなった。

 「そっか。」

 「良かった。」と、ハクは頬に嬉色を乗せて笑った。

 しばらく、時が止まったみたいに沈黙が流れた。

 示し合わせたわけでもないけれど、昨日みたいに柵の方へ行って二人で座った。

 床へ座る抵抗感は昨日より薄れたが、次からは敷物でも持ってこないとな、とぼんやり考える。

 ふと、自分がまたここに来ようとしているのに気がついた。

 「ハクって、名前、どう書くの?」

 なんだかそれが気恥ずかしいような、少しだけ嬉しいような、鍵を握った手のひらがじんわりと熱くなって、ついハクに尋ねた。

 「白色の白って書いて、ハク。シンプルでしょ。」

 ハクは空に右手の人差し指で、白、と書いた。

 指でなぞったところに文字が浮き出てきて、それはこの前見た星みたいな、いや、きっともっと白い色をしている。

 純白だ。そう空を眺めていたら、浮き出た文字がどんどんピントがぼやけるみたいに薄れていって、スローモーションみたいにゆっくり霧散していってしまった。

 「そういえば、名前聞いてなかった。」

 ふと思い出したようにハクが言った。たしかに、自分だけ名乗っていなかった。

 「えっと、光に虹って書いて、ミク。」

 そう言ってから、耳がどんどん熱を帯びていくのを感じる。

 自然と声が小さくなって尻すぼみしてしまった。

 光の虹、なんて、私と似ているところなんて一ミリもない。

 最近はキラキラネームという言葉が浸透してきて、これくらいはちょっと珍しいくらいかもしれないが、名は体を表す、というくらいなのだから、名前だけが突っ走ってしまいそうなこの名前はあまり好きじゃない。

 だから必然的に、自己紹介も大嫌いだ。 

 一度小学生の時に、「自分の名前の意味を親に聞いてみよう。」と授業で先生に言われた覚えがある。

 その時は親に聞くのがなんだかかしこまった感じがして嫌で、自分の名前の意味を調べてみたら、「雨上がりの虹みたいに輝いて、七色の光のように色んな可能性を込めて」と書かれていた。

 その時はまだあまり名前に対する苦手意識はさほどなかったが、周りの子たちが「響きが可愛いから。」「おばあちゃんがつけてくれた。」と自分の名前の意味を発表していくなあであの大仰な理由を言うのが自分だけ浮いてしまっている気がして、周りに合わせてそれっぽい丁度良い理由を発表した。

 「へえ、きれいな名前。いいね、好き。」

 一瞬、時間が止まったみたいだった。

 ハクが言った言葉が、耳の中にすうっと入ってきて、何度も鼓膜をノックするようにこだまする。

 何度聞いても、心地良い音だ。

 同時に、胸になにかせり上げてくる。

 それは暗くて棘のあるものじゃなくて、でも明るいわけじゃない。心が掻き立てられるような、得体のしれないもの。

 ゆっくり息を吸って、ハクの言ったセリフを反芻する。

 好き。なんて、言われたことがない。

 大抵、似合ってるね、とか、思ってもいないような社交辞令ばかりだ。

 でも、ハクはきっと本心で言っているんだろうなと、裏のない無邪気な笑顔を見ればわかる。

 強い日差しに当てられて、顔の左半分はまるで発光しているみたいに真っ白だ。

 ただでさえ白い肌が、より白く見えて少し怖くなる。

 もしかしたら、今すぐ光の粒になって弾けちゃうんじゃないか。

 「ねえ、ミクって呼んでもいい?」

 飴みたいな声だった。甘くて、少し硬い声。空気の中へ熱でとろりと溶けていった。

 私は子供みたいにコクリと頷いた。

 「じゃあ、私もハクって呼んでもいい?」

 その時、太陽が雲に隠れて、目の前に青い影が落ちた。

 きっと、空が青いから影も青くなるんだろう。

 ハクは、少し眉を上げて、意外だ、とでも言うような顔をした。

 風で髪が揺れ、その隙間から凛々しいきれいな形をした眉が覗く。

 「もちろん。」

 ぱっと大輪の花が咲くみたいに、ハクは薄い唇を横に伸ばした。

 その笑顔は、薄暗くなったこの世界で一番輝いて見えた。

 やっぱり、ハクは純白だ。名前だけじゃなくて、ちゃんと中身も。

 羨ましいな、と少しだけ思った。 

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