9.ありもしないもの
「遅くなってすみません! 真っ暗なのでランプを――あっ!?」
ミナが、自分が差し出したランプの先で密着しているおれたちを見て固まった。
「あ、あの…すっすみまっ…」
「おい、危ねえ」
おれとアナスタシアを交互に見ながらランプをぶるぶる揺らしてやがる。仕方なく引き取ると、「お邪魔しました!!」と走り出していった。
「ミナ!」
無視しやがった。秘書室に戻らずに突き当たりの階段を駆け下りていく。横でアナスタシアが笑いをもらした。
「あの子もなかなかのヒロイン気質ね」
「はあ?」
「パッと見ただけで早合点して涙をこらえて走り去るなんて、お約束すぎる。しかも、この天気なのにわざわざ外に出てったわよ。何とも古風ね」
なるほどな。多数のヒロインをチェックしたアナスタシアでも呆れるほどの超絶面倒くさいタイプの女というわけか。
「追いかけてあげたら?」
「何でだよ、面倒くせえ」
「その気がないならけじめをつけるいいチャンスでしょ。でも、あのくらい騒々しくて世話焼きな子の方があなたには合うかもね。考えてみてもいいんじゃない?」
「うるせえな。急に遣り手婆ムーブしてんじゃねえよ」
ちんちくりんのくせに巨乳でまん丸眼鏡の小生意気、ああいう手合いの女の尻に敷かれてみたいと思う男は一定数いるだろう。だがおれは違う。
アナスタシアはすっかり白けた顔で、ドアに片肘を付いて寄りかかった。その仕草にかこつけて、さり気なく袖口から滑り出させてたナイフを戻してる。
「ついでに姉離れもしたら?」
「何だと?」
「聞いたわよ、噴水広場での大立ち回り。常々思ってたけど、本当あなたって…
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よね」
「なっ…」
くそ、ちんぴらどもとは別の意味で言っちゃなんねえことを。
「殿下からも、たまにそういう逸話を聞いてるわよ」
「うるっせえな!! 帰れ!」
おれはランプをサイドボードに置くと廊下に出た。
「まったく、何しに来たんだよ!
ミナの消えた方へ大股で歩き出しつつ、振り返って指を突きつけた。
「見送んねえからな! とっとと帰れ!」
アナスタシアは、おどけ気味に肩をすくめただけだった。
* * *
外は半ば雹となった雨が降り注いでいた。ミナがおれの倉庫の方に走ってくのを見たと従業員から聞き、カンテラをもらって向かった。
「ミナ!」
開けっ放しの入口から呼ばわってみる。返事はないが、濡れた足跡は中へと続いている。
「…おい、いるのか」
カンテラをかざしながら数歩入ると、馬車の中から気配がした。案の定だぜ。人が特別に扱ってる場所に文字通り土足で上がり込んで、後先考えてねえのか自分は許されると思ってるのか。
馬車の戸口から確認すると、ミナは中でうずくまっていた。大泣きしてたらしく、慌てて眼鏡をかけるとむせながら息を整えようとした。
「サイードさん…。追いかけてきてくれたんですか?」
ああ、許されると思ってるほうか。マジでヒロイン気分になってやがんな。この調子じゃあ、そのうち潜り込んでくる場所が馬車じゃ済まなくなりそうだ。
「わたし…わたしなんかのために…アナスタシア様の方が何倍も素敵だしお似合いなのに…」
「ミナ」
「あ、あ、ごめんなさい。変なことばっかり言っちゃって。ほんと、わたしただの秘書なのに、出しゃばっちゃって、無能で…」
まったくだぜ。
おれは大きく息を吐くと、カンテラを中に置いて戸口に腰掛けた。
「ちょうどいい。少し話をするか」
車内に頭を入れると、雨音が遠のいた。ミナはぱっと顔を上げたが、すぐに怯えたように目を伏せた。今から聞きたくないことを聞かされるのを察したようだ。だがおれは宣告する。
「ミナ、おれに何か期待すんのはやめろ」
膝を抱え込んだまま、ミナは固まった。
「お前が最近、おれをダシにして頭の中で花畑を展開してんのはわかってた。だが、悪いがおれはお前に応える気はないんだ」
「……」
またミナの目にじわじわと水が溜まってきた。
「社内恋愛したけりゃ、他の奴とやってくれ」
「…やっぱり、わたしなんかよりアナスタシア様が」
「ちげーよ。ミナ、おれはな。誰とも、お前が考えてるようなそういう仲になる気はねえんだよ」
「じゃあまさか、一部で噂されてるように殿…」
「あほか! その手の勘繰りもやめろ。ものすごくやめろ」
「で、ですよね」
「いいか、『誰とも』だ。時間をかけてまとわりついてりゃ絆せるとか、ワンチャン気まぐれでお情けかけてもらえるかもとか、そういう期待も一切すんな」
おれは台詞がミナの頭にしみこむまで待ってやった。
「どういうことですか…? 一体、何があってそこまで思い詰めてるんですか?」
「話を飛躍させんな。敢えてそうしてるとかじゃねえ。もとからそうなんだ」
「もとから…?」
「他人の色恋沙汰が分からないわけじゃねえし、ダチなら応援もしてやる。だがおれ自身がその手の気持ちになったことはない」
さすがにミナは愕然とした。
「え…そんなこと、あるんですか!? 平気なんですか?」
「あっちゃ悪いかよ」
「え、だって、人を好きになるって大事なことじゃないですか。誰かと分かり合ったり、すごく大切にしたいと思ったり。そりゃ独り占めしたくってキリキリすることもあるけど、一緒の空間にいられたらそれだけでもすごく幸せ…って、そういう気持ちとか、感じたことないんですか?」
「それはお前の感じ方だろ。確かにおれにも、仲間とか家族とか、大事だと思う相手はいるさ。けどそれを恋愛として扱う必要はねえだろ」
「でも…」
まあ納得いかねえだろうな。おれも人に理解されるとは思っちゃいねえ。
「…こういう話をしたらセクハラになるだろうけどな、おれにとって女は娼婦で十分なんだ」
「はあ!?」
「娼婦なら金を払えばいいからな」
「ひど…」
「ただの女は、金なんかいらないから代わりに他のものを払えって言ってくるだろ。だが残念なことに、おれはそんなもの持っちゃいない。取り引きが成り立つわけない。だから手を出さねえんだ」
「……」
わけがわからないって顔をしてるな。
おれは、手をついて少しだけ身を乗り出した。
「それとも、贋金でもいいからもらいたいと思うか? お前はどうだ?」
ミナはびくりと頭を引いた。
「……」
そして拒否した。首を横に振るまでの間、眼鏡の向こうで
「おう、正しい選択だぜ」
にやりと笑って姿勢を戻す。
「おれとて、贋金を払ってでも欲しいような女もいないしな」
もし同じようにありもしないものを売りつけてくる奴がいたら、乗ってもいい。愛の空取引は違法じゃない。だがそんな不毛で滑稽な話に付き合う女もいないだろう。結局、どんな仮定をしようと答えは常に虚無なのだ。
「サイードさん…さびしくは、ないんですか?」
今度はミナが、負けじとおれを覗き込んだ。両眉が最大限に下がってる。
「わたし、ずっと本当のサイードさんが見えていなかったです。今、あなたが心から心配です」
「だからよ、さっきから言ってんだろ。絆しにかかっても無駄だからな」
「それは…ううん、力になれるのがわたしじゃなくってもいいんです。サイードさんは、まだ本当に大切な方に出会ってないだけです。いつか、その考えがひっくり返るようなそういうお相手にきっと巡り会えます! だから、そこまで悲観しないでください」
「あのなあ!!」
まったく埒が明かねえな。
「何を聞いてたんだよ!」
おれは平手で床を叩くともう一度ミナに向き合い、人差し指を突きつけた。
「おれの生き方をお前の価値観で断じるな! お前が救ってやれるなんておこがましいことを考えるな。お前でなくても他の誰かが救うだろう、なんて思うことすらおこがましいぜ。勝手におれを憐れんで、お前たちの価値観で救わなけりゃいけねえなんて、考えるんじゃねえ!」
その剣幕にミナはやっと口を閉じたが、この台詞もどうせ響いちゃいねえだろうな。
倉庫の外を、何かのがらくたが飛ばされていく音がした。風は強いが雨足はそれほどではなくなっていた。
「…いつまでも油を売ってねえで、出るぞ」
おれがカンテラを手に立ち上がると、ミナは無言でのそのそと這い出してきた。
「もうここには立ち入るなよ」
倉庫の扉を閉めながら念を押すと、ミナは小さくうなずいた。
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