4.記憶改竄

* * *


 闇の中で、おれははっとして目を開けた。身を震わせたかと思ったがそれは錯覚で、頭がびくりとわずかに動いただけだった。闇は濃く、静まり返っていた。おれの動悸だけが身の内に激しく響いていた。


 おれは、突然恐ろしいことに気づいて目を覚ましたのだった。


 ――おれの記憶は、いつから記憶になったんだ…?


 今、姉上がゲンテたちの記憶を書き換えているように、いつの間にか書き換えられてるってことがあるんじゃないか?


 おれという弟がいることが、姉上に――天上の主にとって都合がいいとどっかの段階で判断して、そういう記憶を創り上げたってことはないか。

 姉上とは十歳のときに初めて会ったが、それ以外は十五になるまで一切顔を見なかった。姉上がいなくてもおれの生活にはまるで支障なかった。実際のところ、おれには本当に姉なんかいなかったんじゃ……。


 動悸を抑えるために、だが大げさな音を漏らさないように、極力静かに息を整えながらおれは考えた。


 そうだ、留学してからのおれも変だ。フィニークの端から端まで歩き通したおれが、三年もの間大人しくお勉強したり、王都周りをちょっとうろつくだけで済ませたりしてるなんておかしいじゃねえか。

 おれは、本当に留学生なんかやってたのか? そう考えたら、本当にガレンドールへ渡ったのかどうかすら怪しい。


 姉上だって、屋敷の開かずの部屋にいるよりもガレンドールの占い師の店に座ってる方がはるかに板についてる。おれは、天上の主は王都で長いこと占い師をやって、寿命が尽きたんでおれの家に生まれ直したんだろうと勝手に想像してた。だが実はガレンドールを一歩も離れてなくて、記憶だけそういう風に埋め直したってことはないか? おれや、おれの家族に。


 動悸は落ち着いたが嫌な汗が噴き出してきた。


 もしそうだとしたら――いつからだ。なぜそうした。


 落ち着け。逆算して考えてみるんだ。


 ガレンドールで占い師をやってる、異国情緒の風貌の若い女。それが「おれたちの世界の天上の主」の本来の設定だとしよう。ところが何かの都合で、フィニーク人のプロフィールが必要になった。しかもわざわざ「フィニーク連邦総督の娘」なんて絶対目立つはずの立場だ。何でだ。連邦総督に何がある?


『お前は、他国の国家元首の子息同じ立場の者と和やかな付き合いができる稀有な例なんだ』


 ……か! おれがアーノルドと対等に付き合える立場だから、身内になる必要があったのか? それは何でだ。


『――ですから殿下、「遊学」をしませんか?』


 それだ! あいつを異世界に連れ出す方便におれを使ったんだ! 友人の母国を訪ねると言えば、しばらく姿を消しても怪しまれない。


 つまり、あそこが起点だ。姉上は言ってた。


『実は、今請け負っている案件が難航していて、少し思い切った対策を取ってみようと考えています』


 姉上は、アーノルドの依頼を何とか片付けるために奥の手を使うことにし、その便利な手駒としておれを使い倒そうとしてたってわけだ。


 そう考えると、おれの記憶の中にある諸々の辻褄がことごとく合っていく。おれが留学することになったのも、その直前に親父殿が総督になったのも。


『サイードが屋敷に戻るまでは、お父様は盤石に総督を務められることをお約束いたしましょう』


 おれが帰国しないほうが実家にとって都合がいいのも、異世界の冒険が長丁場になっても構わないようにするためだ。


『あなたの出番はこれからよ』


 三年もの間おれが大人しくしてたのもアーノルドに認識されなかったのも、台詞通り出番じゃなかったからだ。


 いや、そもそも留学してたのかも怪しかったな。今思い出した記憶は事実なのか? クラスの奴らと交友してた記憶はあるが、連中にもその記憶はあるのか? そういや転入したての頃にアナスタシアに絡まれたこともある。それもおれだけの記憶ってことはないのか?


『関係者が多いほど変更範囲が広がる』


 まさかおれが関わったと思ってる連中一人ひとりにも、記憶を埋めて回ってるのか? だとしたら正気の沙汰じゃねえ。


 そうだ、開かずの部屋はどうだ。部屋は記憶とは関係ねえ。行けばそこにあるはずだ。姉上もわざわざ残しとけと言ってたくらいだ。


『誰かが今後私を思い出したり記録を確認しようとしたその時に、新しい設定でログが生成されるわ』


 ……あれはどういう意味だ。新しい設定で…生成される――。ひょっとしたら…いや、まさか。まさかと思うがよ、今この瞬間には開かずの部屋は存在してなくて、後々おれがこの目で確かめに行ったその時初めて、屋敷のあの場所に立ち現れるってことか!? の姿で?


 そんなことができるのか!? ……できるんだろうな、天上の主なんだから。


 もしそうだとしたら、何が過去だったのか確かめようがねえぞ。むしろ思い出せば思い出すほど、姉上が存在した前提の「過去」が強固になっていくんだ。


 おれはベンチから身を起こし、片足を下ろした。両手で顔を拭うと、そのまま頭を抱えた。


 何てこった。しかも、になってから二年が経ってる。そういう過去を前提に経験が積まれてる以上、もうこれが唯一の正しい過去だ。勝手に書き換わったことがいかに承服しかねるとしても、おれに姉上が存在しない前提の歴史などもうあり得ねえ。


 少なくともこの異世界巡りが――つまりアーノルドの課題が終わらねえうちは、このままだろう。おれは「アーノルドの相棒」で、「占い師シェヘラザードの弟」の役をやらされてる。このポジションに配役された上で、「アーノルドを揺さぶる」のが仕事だ。


「…ふっ」


 自嘲で片頬を歪めると、鼻先でかすかに空気が揺れた。


 おれは、自分は姉上の保護者でいるつもりだった。姉上が「お務め」を果たしたら預かり子の運命から自由になり、その時おれも自由になるだろうと思ってた。だが、天上の主のためにお務めをしてたのはおれの方だったってわけか。


 この仕事が終わった後、姉上はおれをどうする気なんだ。「相棒」や「弟」の役も解くのか。おれは、望みどおり自由になれるのか。


 室内は、耳が痛くなるほど静かだった。姉上の寝息も聞こえない。目が慣れるとおぼろげに物の配置を感じられた。

 おれはそっと間仕切りの前に立った。今この中にいるのはどっちの「シェヘラザード」なんだろう。それ以前に、この中に本当に存在してんのか。もし開けてみても目が潰れることはないだろうが、その瞬間に周りのすべてのものが消え失せるんじゃないかという妄想が頭の中をよぎった。

 何しろ相手は、記憶も姿も自在に操り数多の世界を創り出す存在だ。世界を消すのもたやすいだろう。おれを消すのも。


 おれは、天上の主の気が済むまでこの役割に縛り付けられてなきゃいけないのか?


「姉上…おれは、いつ役割から解放されるんだ…?」


 おれの呟きへの返事はなかった。だが、かすかに気配はあった――気がする。『気まずい』とでも感じているような。それとも、そう感じているのはおれの方なのか。


 おれはいつの間にか握っていた間仕切りのカーテンから手を放し、結界の見回りをするために馬車を出た。

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