裏切り者たち

泡野瑤子

第1話

 銃口を向けられたデューラーは、まるで自宅で息子が悪いいたずらをするのをたしなめようとするように、俺たちに向かって苦笑いを浮かべていた。

 アル、だめだよ。冗談にも楽しい冗談と楽しくない冗談がある。これは楽しくないほうだ――だが実際には、ここは彼の自宅ではなく憲兵局の取調室だし、銃口を向けているのは三歳になったばかりの彼の愛息アルベルトではないし、ピストルは実弾入りの本物である。

「しらを切っても無駄だ」

 レンツは銃を構えたまま、冷たい声で答えた。

 骨張った青白い顔、白銀色の髪、眼窩に光る灰色の瞳、決して着崩されることのない黒い詰襟の軍装。それらすべてが調和して、きわめて冷徹そうな第一印象を与える男だが、レンツは実際その通りの男だった。

 だからこそ、俺にとってレンツは信頼できる相棒たり得た。俺たちは憲兵局の秘密部隊員――重大な軍規違反を犯した軍人を粛正するのが役目だ。相手は裏切り者、同情は無用である。

 ただ、粛正対象がかつての俺たちの親友だったことに、俺はいささか動揺していた。

「こんなのは何かの間違いだ。俺は情報を流したりなんかしていない」

 デューラーが言う「情報」とは、つい先月、グラーツ陸軍大将がお忍びで愛人のもとへ向かった際のルートのことを指す。

 グラーツ大将は、二十年前にこの国で起きた内乱を鎮圧した英雄である。弁舌爽やか、しかも輝くような金髪と青い瞳の持ち主で、顔立ちは映画俳優のように整っていた。軍の顔としてしばしば人前に登場し、国民から高い支持を得ていた。彼のために、この国のために少々不便を我慢しても構わない――実際には、国民が強いられている不便は「少々」どころではなかったのだが――そう思わせる魅力が、彼にはあった。

 大将は自らのイメージを非常に重要視していた。このところ近隣諸国とは利害が衝突しており、いつ開戦してもおかしくない状況だ。来るべき戦時に備え、国民は生活を切り詰めて高い税金を払っている。あらゆる娯楽が街から消えていく。食糧や生活必需品も、近々配給制になるだろう。――そんなときに、軍の最高幹部で広告塔たる陸軍大将が若くて美しい女優の卵を囲って、高価なワインで乾杯した後に燃えるような一夜を過ごしているなんて、国民にばれては暴動が起きかねない。

 だから愛人の元へ向かうとき、グラーツ大将はごく限られた人間にしかそれを伝えず、他人の目につかないように護衛も連れず、あまつさえ変装までして、細心の注意を払っていた。俺からすれば、そんなにイメージが大切なら、不倫などしなければいいのでは? と思うが、陸軍のトップにまで上り詰めるような人間は、俺なんかとは考え方が違うのだろう。

「せめて本当のことを言ってくれよ、デューラー」

 俺は努めて優しい口調で、しかしレンツと同じことを言った。

「先月グラーツ大将が狙撃されたのは、愛人イレーネのところへ向かう途中の人通りのない路地裏で、しかも黒髪のかつらをかぶって変装しているときだった。あの晩、あの場所をグラーツ大将が通ることを知っている人間でなければ、犯行は不可能だ。逮捕された狙撃犯ゴルトは、情報源としてお前の名を挙げている。お前が反乱分子に内通しているとの内部告発もある」

「違う!」

 デューラーが机を叩いて叫んだ。

「確かに俺は、その日大将閣下があの道を通ることを知っていた。俺はあの方の護衛だからな。でも、それを他言したことはない。俺は大将閣下を心底尊敬していたんだ。グラーツ大将閣下こそ、この国の危機を救ってくださる方だと、そう、信じていたのに……」

 声が詰まった。泣いている。嘘泣きではあるまい。デューラーは生真面目で理想が高く、喜怒哀楽をはっきり表現する男だ。士官学校の同級生だった頃からそうだった。常に無表情で、どんなにつらい訓練でも淡々とこなすレンツとはまるで正反対だった。

 全然性格は違うのに、二人とも共通して、お互いのプライベートなことにはいっさい立ち入ろうとしてこないタイプの人間だった。士官学校は大半が裕福な家庭の息子たちで、家柄自慢をし合うやつらばかりだったが、彼らは違った。自分から話し出さない限りは、俺たちは家族や趣味の話をすることはなく、もっぱら士官学校の訓練や将来就きたい軍務についての話しかしなかった。孤児院上がりの俺にとっては、居心地がよかった。

 俺たちは十七歳から二十二歳までの士官学校の五年間を、ともに過ごした。卒業して正式に軍人になった後、護衛隊に入ったデューラーとは離れたが、俺とレンツは憲兵局でさらに五年、ずっと二人一組で任務に当たっていた。

「……なあ、レンツ、エルンスト」

 ひとしきり泣いた後、デューラーは顔を上げた。

「俺は本当に何もやっちゃいない。そう、何もやっちゃいないんだ。俺はあの晩、護衛として遠巻きに大将閣下を見張っていた。でも、暗殺者の存在にはまるで気づかなかった。俺は何もできなかった。ただあの方が撃たれるところを、物陰に隠れて見ていただけなんだ……」

 彼にとって、大将はただ任務上護衛するだけの存在ではなかった。古風な言い方をすれば、命をかけても守るべき主君で、デューラーは忠義の騎士だった。

 つまり、デューラーはグラーツ大将とともに、生きる意義を失った。

「たぶん、俺ははめられたんだろう。本当の裏切り者は別にいて、俺はそいつの代わりに粛正されるんだ」

 フッ、と乾いた笑いが漏れる。息子に向ける苦笑ではなく、諦めと皮肉の混じった笑いだ。俺たちが動き、取調室に連れて来られた以上はもうどうすることもできないことを、デューラー自身よく分かっていたはずだった。

 ようやく、死を受け入れる覚悟ができたのだ。

「言い遺すことは?」

 レンツの言葉は温情ではない。軍で定められたお決まりの確認事項だ。

「妻と息子が、この先苦労することがないように取り計らってほしい。

 俺は一言一句間違わないように、デューラーの遺言を手帳に書き留めた。

 レンツが引き金を引いた。眉間を撃ち抜かれたデューラーは椅子ごと倒れた。即死だろう。

 床に血だまりが拡がっていく。かつての親友の流した血が、俺の靴まで辿り着く。俺は足をよけることができなかった。

「処理班を呼んでくる」

 レンツが銃を懐にしまい、俺に背を向けた。相変わらず無表情だ。羽虫を一匹殺したのとまるで変わらない。

「待て、レンツ」

 今度は俺が、その背に銃口を突きつけていた。

「デューラーをはめたのは、お前だろ?」

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