第2話
街の中心地を離れてから時間がかからず、アイザイン邸へ到着した。
馬車が止まってすぐ、先程の御者が声をかけることもノックをすることもなく、いきなり馬車の扉を開けた。
加えて物凄い力と勢いで開けるので、馬車が揺れて驚いた。
御者は仏頂面で身を翻して、御者台に戻っていこうとする。
マリーが眉間に皺を寄せて口を開いたが、言葉を発する前に手で制して首を振る。
ここで口論をしても、ただアイザイン邸の人々に恥をさらすだけで得られるものは何も無い。
マリーはまだなにか言いたそうだったが、渋々といった様子で口を閉じた。
マリーが馬車から降りて手を差し出してくれたので、彼女の手を取り馬車から降りる。
あたりを見渡すと、この屋敷の執事らしい高齢で白髪の顔に皺のある男性が駆け寄ってきた。
私の3歩ほど離れた場所まで来ると、胸に手を当て腰をおる。
「私は執事長でございます。ご案内いたしますので、こちらへお越しください。私が先に歩かせて頂いて宜しいでしょうか?」
「はい」と言って頷くと、執事は優しくにこりと笑い「失礼いたします」と言ってゆったりとした動作で歩き出した。
重厚な門をくぐり抜けると、そこには雄大な庭園が広がっていた。
そしてその先に、白を基調とした広大な屋敷があった。
その邸宅は私の暮らす王宮よりもずっと美しく見える。
庭にはたくさんの種類の花が丁寧に植えられていて、屋敷と花々がお互いの美しさを際立たせている。
「綺麗な邸宅ね、マリー」
「はい、本当に!これほどまでに美しいお屋敷は見たことがありません!」
マリーは幼い子供のように無邪気にキョロキョロと周りを見渡しながら、私の一歩後ろを歩いている。
建物に近づいていくと、数え切れないくらい大勢の使用人が腰を折り道に沿って玄関まで並んで立っていた。
こんな出迎えはされたことがないので少し腰が引けて、歩いているだけなのに緊張してしまう。
それほど長い道ではないのにとても長く感じる。
やっと建物の中に入ると、私の部屋の10倍はありそうな広さのロビーが広がっていた。
広すぎて、執事から目を離すとすぐ迷ってしまいそうだ。
しばらく真っ赤な絨毯の敷かれた長い廊下を歩く。
すると一番奥に、きめ細やかな装飾の施された大きな扉が両側に開いている部屋が見える。
その部屋の前まで行くと、前を歩いていた執事が振り返り扉を背にして部屋の中を手で示した。
「ありがとう」と言って執事の前を通り、部屋の中へ足を進める。
とても豪華だけれど派手すぎず落ち着いた広々とした部屋だ。
テーブルとその両側にソファがあって、テーブルの上はたくさんのお菓子で彩られていた。
その側に、遠目でもまるで花の精のように美しい人が立っている。
彼は陶器のように白い肌と、琥珀色の瞳に輝く白銀の髪を持っていて、美しい彫刻のような顔で柔らかく微笑んでいる。
女性と言われてても納得できるほど中性的で、どこか儚い。
なるほど、世界中から大勢の婚約の申し込みが来るのも納得だ。
ちらっと後ろに控えているマリーを見ると、わぁっと感嘆の息を漏らして可愛らしく頬を紅色に染めている。
けれど、なんだろう。
彼には少し違和感がある。
瞳の奥が笑っていないような…。
そんなことを考えていると、アイザイン公爵が2歩ほどこちらへ来て、胸に右手を添えて腰をおる。
その仕草すら洗練されていて、見入ってしまう。
「遠いところからお越しいただき感謝します。ステア・アイザインです」
彼のよく通る澄んだ美しい声が、耳に届く。
彼が顔を上げたのを見てから、ゆっくりとカーテシーをする。
スリアナ皇国の礼儀作法を学んでみれば、隣国なのもありクラッサ王国とほとんど同じだった。
だから新しく覚えることも全くと言っていいほどなく、不安なく今日を迎えられた。
「お初にお目にかかります。アグネス・コロニーでございます」
私は王族と認められていないので、王族の姓である“ロス=ラミレス”を名乗る事が出来ない。
そのため、母の姓であるコロニーを名乗り続けている。
公爵が反対側のソファまで戻り、私の側にある上等な真朱色のソファを手で示す。
「どうぞ、おかけになってください」
公爵とほぼ同時に腰掛けると、すぐにそばに控えていたメイドが私の前に置かれたカップに紅茶を注いでくれた。
花のように甘くていい香りがする。
前を見ると公爵がカップを口元で傾けていたので、私も紅茶の香りを楽しみながら一口喉に流し込む。
音を立てないように気をつけてカップを元の場所に戻す。
「コロニー嬢は、普段何をして過ごしていらっしゃるのですか?」
カップから公爵に視線を戻す。
政についての本は読みに行かなくなったけれど、本を読まないと何もすることがないので読書はしている。
けれどまた蔵書室に通うと嫌な顔をされるので、マリーに頼んで本を持ってきてもらっている。
「本を読んで過ごすことが多いです」
「どのようなものをお読みになるのですか?」
最近は恋愛小説ばかり読んでいる。
最初マリーに政治関連ではない本を持ってきてほしいと頼んだら、全く興味がなく読んだこともなかった恋愛ものの本を持ってこられたときは驚いた。
けれどその魅力にすっかりのめり込んでしまって、今は読書が趣味だと言えるくらい読みふけっている。
「恋愛小説です」
公爵はずっと同じ表情で微笑んでいる。
「では、作家のアキフ・バウアーをご存知ですか?」
彼の口から“アキフ・バウアー”の名が出たことに吃驚した。
その人は女性作家で、恋愛小説を書いている。
今一番人気な作家で、貴族の女性で彼女を知らない者はおそらくいないと思う。
「はい。知っています。彼女の書く文章は感情を揺さぶられるものばかりで、私も愛読者なんです」
公爵は膝の上で指を組み、口を開いた。
「私も友人に勧められて読んだことがあります。素晴らしい物語でした」
「何の本をお読みになられたのですか?」と聞くと、返ってきた本のタイトルは私も読んだものだった。
そうして思いがけず小説の話で盛り上がった。
公爵は他の作家もたくさん知っていて、博識な人なのだなと思った。
その後も他愛もない話をして時間が過ぎた。
話が一区切りついたとき、コンコンとドアを叩く音が部屋に響いた。
音のしたほうに顔を向けると、執事長と名乗っていた老人が開けっ放しの扉の側に立っている。
「ご歓談中失礼いたします。閣下、お時間でございます」
はっとしてマリーを振り向くと、懐中時計を持ってほっとした顔をして執事を見ていた。
主人の会話に使用人が割り込むことはできない。
けれどもうすぐ馬車が来てしまう時間なので、どうするべきか困り果てていたのだろう。
すっかり時間を忘れて話し込んでしまい、申し訳ないことをしてしまった。
それといくら会話が途切れていたとはいえ、会話に入ってこれたあの執事は公爵に非常に信頼されているのだろう。
「そうですか。それは残念です。」
公爵がすくっと立ち上がる。
どうやら門の前まで見送りをしてくださるそうだ。
門につくと、ちょうど馬車が戻って来たらしい様子だった。
公爵に向かって礼をする。
「本日は楽しい時間を過ごさせて頂き、ありがとうございました。」
今まで小説の話をできる人に出会えなかった、というよりそう言う話をする仲の人がいなかったので、本当に時間を忘れるほど楽しい時間を過ごした。
ゆっくり顔を上げると、公爵は最初のときと同じように柔らかく微笑んでいた。
最後まで、彼はあの笑みを崩すことがなかった。
「こちらこそ、貴重なお時間を費やしていただきありがとうございました」
公爵の言葉に、もう一度軽く礼をする。
「では、失礼いたします」と言って、馬車に戻るため振り返ろうとする。
「アグネス嬢。最後にひとつお尋ねしても?」
横を向いた顔を元に戻して公爵の方を見る。
少しだけ、彼の声が低くなったような気がした。
「はい。勿論です」
ざあっと強い風が吹いた。
風で靡く髪を崩れないように手で押さえる。
顔の前に流れた髪のせいで、公爵の表情がよく見えない。
「この縁談、受けてくださいますか?」
少し間をおいて放たれた言葉は、私にとって愚問だった。
当然受けるに決まっている。
これは王妃陛下の望む縁談だ。
この話を受ければ、何も持たない私がやっと彼女に貧民街から助けていただいた恩を返すことができる。
それにこれは王命で、もとより私に拒否権などない。
彼の夕焼けで少し赤みがかって見える瞳を真っ直ぐ見つめる。
「私は閣下とお会いする前からこの縁談、お受けするつもりでした」
彼は少し首を傾げた。
白銀の輝く髪が揺れてキラキラと光って見える。
「なぜですか?」
王妃陛下に恩を返したいという話はできない。
なぜなら、公式には私は生まれたときから王宮にいたことになっているからだ。
だからもうひとつの理由を話そうと、ぎゅっと拳を握りしめて口を開く。
「行き遅れの私にはこの先いい婚約話など来ませんし、私の立場からもこんな女を妻にしたいと考える人はいないでしょうから」
自分で言っていて情けなくなってしまい、目線を下げて俯く。
彼はきっと、そんなことはないと言うだろう。
例え、私の言葉通りのことを思っていたとしても。
社交辞令で、それ以上の意味はないとわかっている。
だけど嘘でも違うと言ってほしかった。
兄弟たちにも他の王宮の人間にも、いつも私を否定されるから。
実際にはそう思っていないとしても、言葉だけでいいから私を肯定してほしかった。
心底面倒くさい女だと自分でも思う。
そんな自分が惨めで、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「そうですね」
しかし降りてきた言葉は、予想に反するものだった。
驚いてばっと顔を上げて彼を見た。
そうですね。
今、目の前の人はそう言った。
つまり彼は、私を年増の低劣な女だと思っていることを認めたのだ。
彼の顔を見ると今までと同じように柔らかい笑みを浮かべているけれど、その目には暗い色を宿している。
その表情に恐怖を感じて、少し唇が震えた。
間違いない。
私はこの人に嫌われている。
憎しみと言ってもいいほどに。
そして何より、その事実を隠そうとしない彼に驚倒した。
きっと彼は分かっているのだろう。
私が何があってもこの縁談を断らないことを。
分かっているから、私への嫌悪感も憎悪も隠そうとしない。
今この瞬間、彼と仲睦まじい夫婦になれるかもしれないという希望は消え去った。
彼と小説や作家の話をしているときは、今までで一番と言ってもいいくらい楽しかったのに。
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