長い夜の唄

卯月なのか

長い夜の唄

 痛い。冬の寒さが。心が。肺が。上手く、息が出来ない。

 寒っ、と言おうとして出しかけた声は、声になれずに白い吐息になって、丑三つ時の空に溶けた。身体が、崩れそうなジェンガみたいに震える。でも、それはきっと、寒さのせいだけじゃない。


ここから落ちたら、全てを終わらせられる。


一瞬にして手の感覚を失うほどの冷たいベランダの柵に、ぐっと力を込めて、力が入らなくなりつつある足で、足元の台を使って登ろうとした。

「おねーさんっ」

 どこからか、声が聞こえた。私と同じくらいの歳の女の子の、明るい声。そして、声がするのと同時に、足首に何かの感覚がした。それは、誰かに足を捕まれているような感覚だった。それの正体はわからないが、何やら妙に不気味だ。

もしかして、……幽霊?

寒さと相まって、身体から一気に体温がひいていくのを感じる。あ、もうこのまま凍死しちゃおうかな。

「ねぇ、おねーさんってば!」

はっとして、思わず声の方をふり向いた。振り向いて、しまった。

「あ!やっとこっち向いたぁ〜。やっほ〜☆」


私の足首を掴んだ謎の声の主は、脚がなく、宙にふよふよと浮いていた。


「ひえっ……!」

恐怖のあまり、台からガタッと落ちて、ベランダの床に尻餅をついた。最悪。あとちょっとだったのに。いや、もしかしたら、本当はもう私は死ねているのかもしれない。ここはきっと地獄なんだ。だから幽霊とかいるんだ。うん、きっとそうだ。うん。

「わー!おねーさん大丈夫⁉」

大きな声で、私の方にふよふよと飛んでくる。

「だ、大丈夫……」

駆け寄って、いや、飛びよってきた幽霊に、思わず言ってしまった。

「はぁ〜、よかったぁ!……ってか、おねーさん寒くないの⁉裸足じゃん!ウチのルーズソックス要る⁉」

姿は良く見えないが、幽霊はどこからか白いルーズソックスを取り出した。色々思うことはあるけれど、なんで幽霊がルーズソックス持ってんだよ。誰か夢だと言ってくれ。

「いや、いいよ。人の靴下履くのとか嫌だし」

「え〜、でもおねーさん足真っ赤だよ?それにウチ足ないから!履いてないやつだから!ほらっ!」

そういうことじゃないんだよと思いつつ、私の思いも虚しく、半ば強引に、ルーズソックスを履かされた。ちょっと悔しいけれど、それは何故かとても温かかった。

「キャハハハ!スウェットにルーズソックスウケる!写メ撮ろ」

うるせー。アンタが無理矢理履かせてきたくせに。そりゃ、パサパサの黒髪にスウェットの私に、ルーズソックスなんか似合いませんよーだ。

「あ、ウチ幽霊だから写メ写んないんじゃん!忘れてた!ま、いいや。おねーさん、はい!チー」

そう言って、幽霊はやたらと大きなストラップが大量についた派手なガラケーを私に向けた。なんで幽霊がそんな昔の機種持ってんだよ。

「撮んないで」

私があっちへいけと手を払うと、幽霊は、ぷっと頬を膨らませて、私が乗っていた台の上にちょこんと座った。

 幽霊がキャアキャアと一人で騒いでいる間に、さっきまで厚い雲に隠れていた月が、私たちにうるさいぞと言いたげに顔を出した。

「ふわあぁ」

退屈そうに欠伸をした幽霊を、月明かりが照らす。その瞬間、彼女の姿が露わになった。

柔らかなウェーブのかかった金髪が、月の光を浴びて星のように煌めく。健康的な小麦色の肌と、少々細すぎる眉に、これでもかというほど長さが強調された睫毛。太いアイラインに、白いアイシャドウがなかなか個性的だ。カラフルな付け爪に、腕につけたショッキングピンクのシュシュが眩しい。胸元までボタンを外した白いシャツの上から、オーバーサイズのベージュのカーディガンを羽織っている。太腿がギリギリ隠れるほどのミニスカートは、本来なら彼女の脚を強調していたのだろう。だが、今はミニスカートから上がそのまんま宙を漂っていて、ちょっとシュールだ。

「……ギャルやん」

思わず、こぼれた。

「ふふふっ、おねーさんよくおわかりで!どぉ?このカッコめっかわじゃね?」

そう言って、ギャル幽霊は私の目の前でくるりと回った。ふわりとスカートが夜風になびく。幽霊だから、スカートの中が見えたりすることはないのかもしれないが、尻餅をついたままの間抜けな体勢のせいで、目のやり場に困る。

「は?メッカ……?」

「めっちゃ可愛いってコト!もう、これだから最近の若者はっ」

ギャル幽霊は、そう言いながらもどこか嬉しそうに少し透けて見える身体を揺らした。私は、ちょっと口をきいたことを後悔した。

「はぁ」

小さな溜息をついて、私は立ち上がった。寒さのせいなのか、身体がふらつく。視界が、なぜかぼやける。こんなことしてる場合じゃないんだったと、私は台の上に乗った。


もう、もう全部、終わりにするんだ。

今度こそ、絶対。


「ねぇ」

また声をかけられた。でも、もう気に留めない。寒さのあまり真っ赤になった指先に、ぐっと力をこめようとした。でも、何故か上手く力が入らない。

「泣いてるってことは、まだ死にたくないってことじゃん」

 その言葉に、はっとしてしまった。どんどん、視界がぼやけていく。限界だった心のダムが、音を立てて崩れていくような感じがした。

「う……うっ……うぅ……っ……わぁああああああああああああっ!」

手の甲に、大粒の涙が零れていく。寒さのせいか、上手く声にならなかった小さな号哭が、夜の闇の中に吸い込まれていった。ギャル幽霊は、私の肩を支えて、台の上に座らせてくれた。ぽろぽろとただ泣くばかりの私の肩に、ギャル幽霊がそっとカーディガンをかけて、背中をさすってくれている。私が着ても丈の余るそれは、何故か母親の抱擁のような温もりを感じて、余計に涙がでた。



 「どぉ?泣き止めそ?」

どのくらい、泣いていたのだろう。目が腫れて、瞼が重い。うん、と返事をしようとしたが、首を小さく縦に振っただけで、声が出なかった。もうすぐ二十歳だというのに、人前──幽霊だが──で泣いてしまうなんて。

「ねぇ、一個聞いていい?」

「……何?」

顔を上げて、隣にいるギャル幽霊を見た。彼女の瞳が、まるで生きているかのように、真っ直ぐ私を見つめた。

「なんで死のうとしたの?」

その問いに、私は暫く身体がぐっと固まるような感覚に襲われた。ギャル幽霊の瞳の奥にある、全てを見透かすような得体の知れない闇。それは、私に真実を語る諦めをつけさせた。

「長くなるけど、いい?」

ギャル幽霊は、黙ってこくりと頷いた。

「あたしさ、音楽やってんの。父親の反対押し切って、高校卒業してすぐ、なけなしのお金とギター一本だけ持って、ここに来た。掛け持ちのバイトと、駅前で路上ライブばっっかやってた。ぼっちだったけど、結構充実してたよ」

「だったら、なんで……?」

真剣に聞くギャル幽霊に、私は自嘲気味に口角を上げて、続けた。

「路上ライブ始めて半年くらいの時、いつも聴きにきてくれてた、女子高生の子に言われたの。SNSに投稿したら、伸びるんじゃないか、って」

当時のことを思い出すと、胸が、きゅっと締め付けられるように痛くなった。あの時みたいな、希望に満ち溢れていた自分は、もうどこにもいない。

「勇気だして、ネットにあげてみた。誰も聴かないと思ってたんだけど、意外と反応良くてさ。正直、めちゃくちゃ嬉しかった。もっと聴いてもらいたくて、たくさん歌って、たくさん投稿した。だけど……」

現実は、そう甘くはなかった。

「始めてすぐに、嫌なコメントする人が出てきたの。もちろん、そういうことは覚悟してたし、しばらくは、気にしないようにしてた。……でも、続けてくうちに、そういうコメントが多くなってきた。……下手くそだとか、声が好みじゃないとか……聴く価値のない歌だとか言われて……」

声が震える。あのときの言葉達を、今でも鮮明に覚えている。悲しくて、悔しくて、怖くて、何度も何度も泣いた。今だって、思い出しただけでも、声が出にくくなる。細すぎる眉尻を下げて、心配そうに私を見つめるギャル幽霊を見て、少しだけ我に返った。

「……なんとかしようとして、ボイストレーニングに通ったりもした。でも、全然上達しなくって。嫌なコメントもなくならなくて……あたし、人前で歌うことが、怖くなった……」

声が、掠れる。指輪が、震える。歌えなくなった、あの感覚。屈辱とか、恐怖とか、絶望が、腹の底からせり上がってくる。それらを全部、嘔吐してしまいそうになる。

「……小さい頃から、歌うのが大好きだった……歌が、音楽が、あたしの全てだった……でも、それを失った今、あたしに価値なんてない!……あたしに、生きる意味なんて……ない……」

全てを言葉にした瞬間、ボロボロと、涙がこぼれた。やっぱりこのまま、この夜の闇に溶けてしまいたい。私の身体と一緒に、この苦しみを、夜空の星にしてくれたのなら。そうしたら、どんなに良かっただろう。

「ウチ、おねーさんの歌、聴いてみたい」

ギャル幽霊は、唐突に言った。それは、何の曇りもない、純粋な表情だった。

「は……?……アンタ、人の話聞いてた?人前で歌うの、あたしはもう怖いの……!」

「でも、ウチ人じゃないじゃん」

そう言って、ギャル幽霊はにやりと笑った。してやったり、とでも言いたげな表情だった。呆気にとられた私は、しばらくぽかんと口を開けたまま動けなくなった。

「いいじゃんか!ね〜おねーさんお願い!お願いお願い!」

そう言って、ギャル幽霊はテヘペロ〜、と言って舌をだした。ムカついたけれど、妙に納得してしまった。ほんと空気読めないこの幽霊。

「……ギター持ってくるから、待ってて」

「わーい!やったぁ!」

狭いアパートの隅から、ギターを取って、ベランダの台に座った。何を歌おうか。……そうだ。

「お母さんが好きだった曲にしよ」

「え、だった、って、どゆこと?」

私の独り言に、ギャル幽霊が反応した。

「あたしのお母さん、あたしが小学生のときに死んじゃったんだ。お母さんは、あたしの夢、応援してくれてさ。なんかわかんないけど、急に思い出しちゃった。ははっ」

へらへらと笑ってみせた私に、ギャル幽霊は何かを考えているような顔をした。

「ウチが今生きてたら、多分、おねーさんのママとおんなじくらいだな」

そういって、独り言みたいに呟いた。

「アンタ、意外と前に幽霊になっちゃったんだね。もうちょっと最近の若者かと思ってた」

「死んだのは十年前くらいだよ。この姿が好きだから、こうなってるだけ。ほら見てよ!わざとらしいくらいのザ・平成ギャルファッションじゃね?うちがおねーさんくらいのときは、こんなカッコが流行ってたんだよ〜?」

そう言って、ギャル幽霊は宙をくるりと回った。あどけないその仕草も、これがもし生きてたら四十代後半かと思うと、なんだかシュールだ。

「ははっ、オバサンみたい」

「はあぁ〜?ちょっとヒドくね?ウチだって立派なレディなんですけど!」

ぷりぷりと怒るギャル幽霊に、適当に返事をしながら、ベランダの台に座って、ギターを構える。こうするのは、いつぶりだろうか。懐かしさと同時に、やはり、恐怖を覚える。弦を押さえる指先が、小さく震える。でも、それでも歌いたい。やっぱりもう一度、歌を歌いたい。これが、私の全てだから。


 届け。


 声が上手く出せないのも、手が震えるのも無視して、私は歌った。私の歌を聴きたいと言ってくれた、幽霊のために。何より、私自身のために。

 私が歌い終わると、ギャル幽霊は、大きな拍手をしてくれた。その、茶色のカラーコンタクトに輝く瞳からは、大粒の涙が溢れていた。

「……なんで、泣いてるの?」

「凄く、いい歌だった。歌ってて楽しそうだったし、なんか、生き生きしてたと思う……やっぱり好きだな、この歌」

妙にしみじみと語るギャル幽霊は少し珍しかったが、歌を褒めてもらえたことが、何より嬉しかった。歌えたことの喜びも相まって、私まで涙がでてきた。

「いやぁ~、成仏する前に、朝美の歌が聴けてよかった~!ホント、ウチは幸せ者だよ!」

「えっ……なんであたしの名前?……それと、成仏、ってどういうこと……?」

突如おかしなことを言い出すギャル幽霊に、私は戸惑った。私を、微笑をたたえながら見つめるその姿は、さっきまでよりも透けて見えた。

「わっ!」

私の身体を、ギャル幽霊がぎゅっと抱きしめた。何かが触れる感覚は確かにあるのに、体温だけが、そこにない。

「歌をきかせてくれてありがとう!……あんま早くこっちに来ちゃダメだよ?」

顔を上げて、優しく微笑むその顔に、見覚えがあった。

「お母さん……?」

私がこぼすと、ギャル幽霊は、星の群れのなかに、すうっと消えて言った。別れ際、彼女がうん、と頷いたように見えたのは、気のせいではなかったと思う。多分。

「お母さん……死のうとしてごめんなさい……お母さん……お母さん、ありがとう……」

 泣きじゃくる私をなだめるかのように、空が明るくなり始めた。


長い夜が、明ける。

また、明日がやってくるのだ。それがどんなに辛くても。


 一旦寝て、起きたら、実家に帰ろう。お母さんに捧げる花、何にしようか。そんなことを考えながら、布団に入った。温かさに安心して、生きてて良かった、だなんて、思った。


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