第18話
それは、買い物からの帰路の電車内にて起こった出来事だった。
「とりあえずだな、このあとは私んちに集合だ。おっと、悪いが佐村は駄目だぞ? 今回は女の子同士の会、だからな、ふふん」
なぜか得意げな口調で、坂薙は俺を挑発してくる。
カフェでの騒動からしばらく経って夕刻も近い。休日とあってラッシュとはいかないまでも、混み合いはじめていた車内。俺達三人に座る余裕もなく、思い思いの位置に肩を並べていた。
俺や坂薙と違いやや背丈の足りないキッカは一人扉際に肩を預け、流れ過ぎてゆく景色に視線を向けて、珍しく物思いに耽っているような表情を見せている。
そんな彼女の物憂げな瞳を眺めていて、妙な色香を読み取ってしまう自分。そこに思い至ってようやく気が付いたのだが、こいつは化粧をしているのだ。目元や唇の色合いをまじまじと眺めて、キカと同じ顔と心を持つこの謎の人物に色気のような違和を見取った所以に、ようやく辿り着いたのだった。
高校生程度の年代が化粧などするものでない、女子は天然素材にこそ美を見出すべきだ、などと常日頃から力説していた神納達の顔をふと思い出してしまう。
「――――なあ、お前、ナニ一生懸命
湿り気を帯びた声を耳元に聞き、耳たぶと鼓膜とで感じるその吐息。うわっ、と声にならない呻きを飲み込むと、俺の耳に顔を寄せてきた坂薙から距離を置くため、うしろに飛び退いてしまった。
その様子がよっぽどおかしかったのだろう、気付いたキッカがこちらを向いてクスクス笑いを見せる。坂薙はカフェでの一件からこちらが抵抗できない事に味を占めたようで、俺に対して妙に近い距離で接してくるようになっていた。
「なんだか、ケータとサナギちゃん、前よりもずっとおもしろくなってきてるよね」
キッカは首をくいと傾げて、純粋に楽しそうな笑みを返してくる。今までは割と一方通行ばかりだった俺と坂薙の間におかしな関係が生まれて、単純に面白がられているだけなのだろう。
この時間帯だと車内はまだ乗客の織りなすざわめきにまみれており、俺達はその一部に過ぎない。電車はやや神経質なモーター音を伴いながら、レールの振動を規則的に靴底まで伝えてくる。扉や窓のたわむ悲鳴も、その規則にならっている。
俺はさっき坂薙にびっくりさせられたせいでつり革を手放しており、再度掴まり直そうと右手を伸ばしてみた。無意識に。
それが、迂闊だった。つり革に伸ばした俺の手が、背後からの別の誰かの手と重なってしまった。
瞬間、意識が肉体から切断された。そんな感覚にも似た、何かの異変。
俺はおそらく、無防備に手を伸ばした際、誤って誰か女性の手に触れてしまったのだ。意識が戻ると俺は車内の床に尻を付いており、ものの数秒の出来事だと実感する。
俺の頭の上では、坂薙とキッカがまだ状況把握できていない表情を浮かべている。その周辺にいた何人かの乗客達も、各々不思議そうな顔をのぞかせていた。
「大丈夫なのか啓太! ごめん、気付かなかった私のせいだ……怪我とかしてないか?」
私のせい? どういう意味だろう。状況を把握したのか、坂薙は本気で泣きそうな顔をすると、俺を助け起こそうと手を差し伸べかけて、
「ああ、駄目だ私の手じゃ――」
そうした結果を直後に理解し、慌ててその指先を逡巡させてしまう。
「――――ケータっ!?」
風が通り抜け、ふわっとその黒髪がなびいた。キッカのにおいがする。
「ぶじ? 動ける? 手……痛く、なかった? おしりは?」
柔らかい感触。手が、そっと握られている。
「お……い…………何がどうなって。……キカも……啓太も……ええっ!?」
茫然、という声色が坂薙の口から飛び出してきた。直接見てはいないが、わななく唇の図を想起する。
坂薙がそう思うのももっともだ。床にへたばり込んだままの俺。そのだらんとだらしなく伸びた脚の太股の上に、なんとキッカがまたがっていたのである。こちらも潤ませた瞳、泣きそうな表情を張り付かせて、両手で俺の右手をいたわり包むように。それも、彼女は自分の胸元に抱くように、そっと押し付けている。
俺は、女性恐怖症を拗らせて、今この瞬間、死んだ。
「ケータ、死んじゃうのかと思った……」
ぎゅっ、て。胸元の膨らみと谷。太股に感じる彼女の重みと、何か別の生き物のような感触。そのどちらもの、絹一枚向こうの体温。全てが柔らかで、暖かで。
何だこれは。これが女の子か。すごく女の子だ。
「うぅっ、またあのときみたいに、ずっと起きないのかと思っちゃった……本気で心臓止まりかけた……」
触られている。繋がれている。握られている。接している。女の子に。
「……ケータ? ねえ、意識あるよねケータ? だいじょうぶ??」
キッカは俺の手を離すと、目の前で手のひらをぶんぶんと仰いで見せる。
「ねえ、サナギちゃん?」
ぽかんと口を開いたままだった俺を見かねたのか、坂薙も俺の隣にしゃがみ込むと、自分の長い髪の先をつまんで俺の耳をくすぐってきた。
「な…………さかな……ぎ痛ってえ!!」
坂薙の髪が触れた耳から、火花が散るような、微細な痛覚の粒がはじける感覚が宿る。
ただ一つわかったのは、俺はキッカに触れて死んでなどいなかった事実だ。
「なんだ、やっぱり駄目じゃないか。佐村のアレ、さっきのショックでてっきり治ったのかと思ったのに……」
「え? なおった? って何、サナギちゃん??」
不思議そうな顔を坂薙に向けるキッカ。こいつ、本気で今の異常事態に気が付いていないらしい。
「え、あ……ああっ、そうだった、女性恐怖症!?」
ようやく坂薙の言った意味を理解したのか、キッカは慌てて俺の手を払いのけると、スカートの前をきゅっと押さえて立ち上がってしまった。
「あの、すみません、お騒がせしました、何でもありません……ので」
俺がようやく喉を振り絞って発した言葉は、こちらの行動を不審がる周囲の乗客に向けたものだった。口を閉じるのも忘れて、遅れて顎を動かすと舌の根もカラカラなのに気が付いた。
* * * * *
停車した車両の扉が左右に割れて開くと、俺は真っ先に段差をまたいで駅のホームへと足を付いていた。
うしろから次々と降りる乗客が連なり押し寄せてくる。俺を気遣い背後にいてくれたキッカがそれをうまくガードして、改札側へと流れる人混みから外れたベンチのあたりまで足早に離脱してゆく。
自分からベンチに腰掛けると、ずっと俺の背に触れたままだったキッカの手が離れて、昂ぶったような体温がゆっくりと落ち着きを取り戻すのを感じていた。
「ケータ、だいじょうぶ……だったよね、わたしとは。なにがどうなっているんだろう?」
女性の身体を持つキッカと触れても、俺は金縛りにならなかった。女性恐怖症の症状が、こいつ相手だと発露しなかったのだ。
「………………ああ、何故かお前だと金縛りにならない、よな……理由はわからんが」
そう。女性恐怖症がいつの間にか治っていた、などという都合のいい展開になったわけではなかった。そもそも、そこに至る伏線などどこにも落ちていなかったし。
「佐村、私だと駄目なんだよな。――他の女でもそうなのか?」
「ああ、そのとおりだ。母親や妹相手にだって、症状が出ないわけじゃない」
「じゃあ、もしかして佐村は、相手、無意識に選んでるんじゃないのか? ほら、母親に触れた時の症状が軽いのなら、それは母親を異性と強く意識してないから、とか?」
核心を突くような台詞が、明後日の方向に突き刺される。
坂薙はベンチの前にやってくると、屈んで俺の顔を見上げる姿勢を取ってきた。ホットパンツから白く伸びる締まった両脚、その膝小僧が並んで俺の前にのぞく。
「そうだな、母親や妹への反応は、確かに弱い。そもそも気絶する程の金縛りなんて、今まであまりなかったんだ」
坂薙の栗色の髪の房が肩からこぼれ、あまり衛生的とは言いがたいホームのアスファルトに着地しそうだ。それを俺は何とか阻止できないかとハラハラしながら眺めてしまう。
そんな言葉と繰り広げられる絵図とに、俺の喉がゴクリと鳴った。
「――では精神的な問題だとして、佐村はさ……普段からグチグチ言ってる私の事が気に入らないから、私の時だけ普通の女よりも強く痺れるとかじゃないのか?」
そう呟く彼女の口調に少し残念そうな色を感じ取って、ただでさえ俺自身のアイデンティティ崩壊の危機だと言うのに、余計に混乱してしまった。
「安心しろ、それはないが、でも坂薙の言う精神的な問題というのは、結構的を射ているか。何となく思い当たる節がある」
「せいしん……思いあたるフシ……いったいどゆことケータ?」
背後から投げかけられるキッカの疑問に、坂薙は立ち上がるとやや大仰に指差して、こう宣言する。
「――つまり今のお前、キッカは、要するに佐村啓太から本質的に
「……へ?」
そう坂薙に突き付けられ、意図が理解できない、といった風の真顔になるキッカ。
「つまりは、佐村が女性に対する何らかのトラウマによって植え付けられた恐怖心も、外見女で実態男のキッカ相手には全く影響がなかった、という事実が証明されたのだ!」
「ふええええ!?」
確かに、坂薙の理屈は正しかった。俺の深層心理では、普段は男である日月キカを本質的な女性と認識していないのかもしれない。同じ理屈で言えば、最も拒絶反応を示す相手は、間違いなく坂薙や九重先輩になるのだろう。
「さすがに盲点だった……」
形容でなく文字通り、頭を抱えてしまう。今の今までキッカ相手に気を回して、無駄に心身を浪費しただけだったのか。
「とにかくケータに大事がなくてホッとしたけど……なんか……それはそれで……わたしフクザツだ……」
「まあ、また少し謎が解けてやれやれだ。しかし、全くお前という奴は、もしあの時助け起こそうとして逆に俺にトドメ刺してたら、一体どうするつもりだったんだよ」
例え緊迫状態で無我夢中だったとはいえ、想像するだに恐ろしい。
キッカは言葉に詰まると、頭を掻く仕草とともに苦笑い。その横っ腹を、傍らの坂薙が仏頂面をしたまま肘で突っつく。
「で、佐村はどうする? 自宅まで送っていこうか?」
「ああ、よくある事だ、構わん、行ってくれ。俺、しばらくここで涼んでるから」
「そうか、すまないな。でもまあ、佐村がキッカを連れ回してくれたせいで、貴重な半日潰れちまったしなー。本日の後半戦は私の番だからなー。こいつのお着替え会というのも、折角滅多にないシチュエーションだし、ふふふ」
「えっ? えっ!? へええっ!!?? サナギちゃん、なに!? なにかされちゃうの、わたし……あ、ちょっと」
ではお大事にな、という言葉を残して、坂薙はキッカを強引に改札口の方へと連れ去っていった。
そう言えば、キス、どうするのだろう。そんな疑問が今更浮かび上がるも、まああいつらなら何とかなるかと楽観的な気持ちで、俺はしばらくボーッとしていたのだった。
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