文学研究会寄稿作品

登校は登山

愛しき隣人

 その朝、ある文豪が郵便箱の音と共に目を覚ましたのは、普段よりは一時間も早い時間だった。男は元より新聞は取っていなかったし、この現代に態々手紙で連絡をよこすような人も居なかった。それ故に、男はその事実に少し気掛かりな感じを覚えながら、まず水を一杯飲み干し、顎の髭を剃り、自慢のミルで挽いた豆でコーヒーを淹れ、トーストと共に飲み、それからようやく郵便箱の確認へと向かった。


 果たして、男が郵便箱から取り上げたのは一つの茶封筒だった。切手も、消印も、差出人の名前すら無い事からして、誰かが直接投函したのだろう。男はもう長いこと作家をしていて、古い時代には出版社を通して住所が誰でも分かるような物になっていたから、それも特段犯罪を疑うようなことでも無かった。大方、ファンレターのような物だろう。しかしそうだとしても、そういう物は一度出版社に送られ、それから自分の元に届くのが常だったので、やはりどこか奇妙だった。


 無差別なセールスなら捨てれば良い、何か怪しい内容なら警察か消費者庁にでも相談でもすれば良いかしら、等と考えながら、男は二杯目のコーヒーを片手に茶封筒を破った。












第一の手紙




 あるところに、アランという作家がおりました。アランの書く小説は、少し恐ろしくて、不思議で、しかし心温まる、そういう物語でした。アランの元には、彼の書いた物語が大好きな人から毎日のように手紙が届きます。それを読みながら朝を過ごすのが、アランの日課でした。


『夜、眠れない息子のためにあなたの本を読んでいます。彼はいつも全部読む前に眠ってしまうから、物語の結末を知りません。ただ、怖いばかりの話だと思っています。息子がもう少し大きくなって、自分で全部を読めるようになったら、この物語について語り合って、そうしているうちに少し夜更かしをして、少し笑って、それから眠るような日が訪れるはずです。そういう日を、私は楽しみにしています』


 こんな手紙が何通も届いた日には、アランはもうたまらなく嬉しくなって、踊るような足取りでその日を過ごすのでした。




 そんなアランには、誰も知らない秘密がありました。




 毎朝、アランがポストの手紙を受け取ったあとやることは、彼のペットのお世話でした。でも、そのペットが少し普通ではないのです。真っ黒の毛に覆われた、一つ目の毛むくじゃら。それが、アランの家のペットでした。初めは猫だと思って、そのまま「真っ黒」と呼んで可愛がっていたのですが、しばらくお世話をするとすぐに大きくなり、猫の大きさはとっくに超してしまいました。そうしてどんどん大きくなって、今ではアランの倍は大きな体を持っています。そして、一番不思議なことには、この子がどこから来たのか、まったく見当が付かないのです。いつの間にか家にいた、という他にないのです。


 それでも、アランとその真っ黒は仲良しでした。最初は気味が悪かったし、今でも少し怖いのですが、真っ黒もまさかアランを食べてしまうようなこともなく、いつもは部屋の隅っこでじっとしていて、朝と晩にパンとミルクを用意してやるととても喜ぶ、それだけでした。


 そうして一番の秘密は、アランの書く小説は、アラン自身がこの真っ黒と過ごした体験を、もっと面白くなるように飾った物だということでした。アランの小説に出てくる不思議な生き物は、すべてこの真っ黒がモデルになっていました。


 だからアランは、真っ黒に感謝していました。売れない作家だったアランを、人気の作家まで押し上げてくれたのは真っ黒でした。




 それなのに、その日は何かが違いました。


 その日アランが目を覚ますと、家がいつもよりしんと静まっているのに気がつきました。アランには一緒に暮らす人はいませんでしたが、それでも真っ黒が寝ている声や、あるいは起きていたらご飯をねだる声が聞こえてくるはずでした。それなのに、その日は何の音もせずに、ただ静まりかえっているだけでした。


 通りに出てみると、ちょうどその日は蚤の市がやっていて人で溢れていましたから、そんな所に真っ黒が居るはずもありませんでした。ペルシアでしょうか、きらびやかな金の刺繍の入った上等な真っ赤の絨毯、賑やかなブリキの機械人形、そうしてそれを売って、また欲しいものを買いにゆく人々が目に入りました。活気に満ち満ちた町が、アランをいっそう焦らせました。




 少し歩いて、アランは町の外れの方まで来ました。このあたりにはひとつひっそりと湖のあるだけで、すぐ奥には鬱蒼とした森が町を閉じ込めるように広がっていますから、誰も彼も気味悪がって、なかなか近づくような人は居ないのでした。


 その湖のほとりに、どうしたことか、今日は一人男が立っていました。


「やあ、珍しいですね。こんなところに」


くしゃくしゃの山高帽を被った男は、男と言うよりは老人と呼んだ方が正しい出で立ちで、腰は曲がり、鼻は折れ、帽子の隙間からは真っ白な髪が覗いていました。老人はアランを見ると、そう呼びかけながらこちらへ徐に近付いて来ました。


「ここいらは、そら、そこの森を怖がって人が来ませんから」


 そう言って、老人はその方を杖で指すと、咳き込むように少し笑いました。それから、アランの顔をじっと覗いて、


「何かお探しですか。そういう顔だ。犬か、猫か。何か逃げましたね。そういう顔をしている」


 アランはにわかにこの老人が恐ろしくなって、振り払うように「いえ」と答えました。それから、しかしあまり違わないのだと思い直して、「猫でも、犬でも無いのです」と付け加えました。


「真っ黒で、私の倍ほどの大きさの、一つ大きな瞳のある毛むくじゃらの奴を見ませんでしたか。私は、それを探しているのです」


老人はそれを冗談と思ったのでしょうか、少しのけぞって、「そんな恐ろしい生き物は聞いたことが無い」と言って笑いました。


「ええ、私にも恐ろしい。しかし、私はもはや、奴なしでは生きてゆけないのです。疎ましいのに、奴が居なければ生活が立ちゆかないのです」


 老人は曲がった眉を一層顰めました。


「ははあ、冗談では無いと見える。あなた、気を違えたか。」


「なに、そんな訳がないでしょう」


 アランはむっとして言い返しました。


「居もしないものを恐れて、それなのに、そいつを探し求めている。わたしから見れば、あなたは立派な気違いだ。あなた、医者へお行きなさい。それで、しばらくは静かに過ごしていなさい」


 老人は哀れむようにそう言うと、アランの肩にそっと手を置きました。老人が去って行った後も、アランはしばらくそこに立ったままでいました。


どこを探してみても、どこにも真っ黒は居ませんでした。人にどんな物を探しているか尋ねられても、あの老人の事を思い出すと、誰にも言えませんでした。そうして、疲れ果ててまた誰も居ない部屋に帰ってくると、その日は夕食も食べないまま眠ってしまいました。




 翌朝、アランが目を覚ましてみても、やっぱり真っ黒は居ませんでした。アランは息を一つ吐いて、それからポストの手紙を確認に行きました。そこには、いくつかの手紙に合わせて、アランの小説を印刷して売り出している会社からのものがありました。いろいろと難しいことが書いてありましたが、要するに、そろそろ新しい小説を書いて下さい、という事でした。




 アランは困ってしまいました。小説の元になる真っ黒との暮らしは、もうありません。そうすると、アランは小説が書けません。小説が書けないと、アランは暮らしてゆけません。暮らしてゆけないのは困ります。でも、小説は書けないのです。アランは、二日の間にして、真っ黒を失った悲しみと、暮らしてゆけなくなる苦しみの二つを抱えることになってしまいました。




 アランは悩みました。どうしたら良いだろう、と考えて、眠って、また考えて、眠って、ポストの手紙を確認する暇もない程考えて、それから一つの事を思いつきました。


 自分を主人公にするのです。


突然不思議な生き物を家に見つけて、その暮らしを面白く書いた小説で人気になったのに、ある日その生き物を失ってしまった、悲しい作家の話を書くのです。


アランはどうにかそれを書き終えると、「もうこれ以上小説は書けません」と言って、会社にそれを渡しました。




 それからアランはすっかり塞ぎ込んでしまって、今はこれまでの小説が売れたお金の残りと、会社から送られてくる最後の小説が売れた少しのお金を頼りに、一人でとても貧しい暮らしをしています。真っ黒が戻ってくる日は、来るのでしょうか。








第二の手紙




拝啓。


突然お手紙を送りつける無礼を、まずはお許し下さい。助けて欲しいのです。書けなくなってしまいました。アランは、私です。何を書こうとも、筆が動かないのです。これだって、昔の文豪ぶって、音声入力で口述筆記の真似事なんかしているのです。


はじめから、順を追って、お話しします。


私は、売れない作家でした。自分で言っても悲しくない程に、売れない作家です。地方の大学に入って、それにも禄に行かないまま中退して、他にできることが無いから筆を執ったような、どうしようもない奴です。


元より、文章を書くことそのものは、私にとって数少ない人並みにできる事でした。生活の中で生まれた、不安や、誰も居ないのに急かされるような心地、爪の間に入り込んだクレヨンのような不快、或いは、水の中に墨を一滴落として、それが広がっていくような気味の悪さを言葉に起こしているうちに、ある程度は人間並みの事としてできるようになって、それが私のなけなしの自尊心の支えにもなっていました。


それが、書けなくなったのです。


すこし前に、貯金が底をつきました。親族からも見放されたと見えて、仕送りも無くなっていました。これでは生きてゆけないので、物を書く合間にアルバイトを始めます。すると、それですっかり疲れ切ってしまって、それが終わると、シャワーも浴びないままに泥のように眠って、それからまた次のシフトの前に起きて、人前に立つのですから当然シャワーを浴びて、働いて、眠っての繰り返しです。


勿論、休みの日はあります。それなのに、体が弱いのでしょうか、眠って、疲れを取って、物を書く気力も無いのでぼうっと天井を眺めていたりすると、それで休みが終わってしまいます。


ここまでお話しして、身に合わない労働で心身疲弊した男の話だとお思いでしょう。しかし、そうでは無いのです。むしろ、逆なのです。


確かに、働いた後は疲れています。しかし、私にはその疲れがむしろ心地よいとすら感じているのです。ランナーズ・ハイとかそういう物なのでございましょうか、要するには、不安という物が無くなってしまったのです。


 私の創作を支えていた物は、不安でした。真っ黒とは、それです。いつの間にか私の心に居着いたそれについて感ずるままに、心が動くのにまかせて書いていれば、ある程度の物が書けました。私は、そう自負していました。


売れないのだから、どうせ自己満足の作です。それでも、その自己満足が私を人間たらしめていました。それが、消えてしまったのです。それで、何も書けなくなりました。


 漫然と生活に堕している人間は、無価値です。生きてて偉いなんて言葉は、あれは嘘だ。とんでもない大嘘だ。夏目漱石をご存じでしょう。「精神的に向上心のない者はばかだ」。あれは、恋愛と、自己研鑽の話ですが、人間なにもそれだけじゃない。とにかく、そのばかに、身を窶してしまいました。何も書けないのです。ただ、日々労働に明け暮れて、ただ生き延びるだけの金を稼いで、それをすり減らして生きているだけになってしまいました。私を人間たらしめる自己満足が、消え失せてしまったのです。


 


それが、すこし前までの話です。今は、少しだけなら清貧な暮らしができるだけの金を貯めたので、仕事を休んでいます。来月にはまた働き始めるか、飢えて死んでいるでしょう。


同封したのが、絵本の脚本にでもなれば良いと思って書いた、私の話です。これ以上に、もう何も書けません。長く私に暗いもやをかけていた不安は、実際のところ、私の最愛の隣人ですらあったのです。物が書けないという不安は、私にそれ以上の何も齎してくれないのです。私は、どうしたらいいのでしょうか。




とりとめの無いことを書きました。汚い文章だと分かっているから、読み返さず送ります。お許し下さい。  敬具








 第三の手紙


 


 拝復。気取った悩みですね、と、きっと太宰治がお好きなのでしょうから返しておきます。


 実際私も、あなたに同情するような所はありません。そんなことをしなくても、あなたは人間以上の何物でも無く、また人間以下の何物でも無いでしょう。


 古代思想をお学びになって、エピクロスや、老子や荘子をたずねてご覧なさい。


 自分を守るために自分の世界を狭くするという事は、きっとあなたが思っているより悪いことでは無いのですよ。その言葉にあなたが霹靂を云々と、とにかく、それがあなたの支えになれば良いのですが。


 それに、それだけ書ければ上等でしょう。


 貴方が苦しまずにいられることを、隣人として祈っております。不尽。


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