第3話 サングリアスカッシュと人肉ベーコン

 二段ベッドの下で眠っていると、体温を感じた。

 小さい頃お化けを見たと言って怯えた弟が入り込んできたことが何度かあったが、なぜかそのことを思い出す。二度と帰ってこない平穏な日々を夢想するのは、未練があるからなのだろうか。だが、どんなに思っても、後悔しても、帰ってこない。

 決別した、過去を。そんなものに縋るな。そこにあるのは絶望に彩られ、怒りと悲しみに塗り固められた虚しい地獄だけだ。


 目を覚ますと嶺慈の上で円禍が眠っていた。白いネグリジェを着て、豊かな乳房を嶺慈の胸板に押し当ててくにゃりとゆがめながら寝息を立てている。

 ブラインドが完全に日差しを覆い隠しているが、枕元の時計は午後七時半を示している。海の中のような、薄い青色のライトに照らされた部屋で——絶世の美女と同じベッドで眠っている。

 夢のような陶酔感を、ふと学校に行かなきゃ、という考えが現実に引き戻した。しかしそう思って、そんな必要もないんだなと枕に頭を預けた。

 父は家に帰らない。弟は自分の世界で生きている。それを自立と呼ぶのなら、彼らの心配など必要ない。嶺慈は失踪したとして扱われ、粛々とこの世から消える。


(陰陽師ってのがどういう連中なのかわからないけど、アヤカシを狩る秘密組織ってんなら、警察を黙らせて独自に動きそうだよな。表立って動くとは思えねえ)


 であれば、嶺慈の存在は粛々とこの世界から消える。下手したら、戸籍さえも死亡したものとして扱われるかもしれない。陰陽師にしてみれば、殺人罪よりも器物や死体を損壊する方が、ずっと倫理的なハードルが低いだろうから。

 特別なことなんて望まない人生が、急転直下。あるいは、乱高下。それとも、上昇? いずれにしても、大きく変わった。

 自分はこれから人ならざる者として、同じ絶望を抱えた同胞はらからたちと生きていくことになる。

 嶺慈は二度寝をしようとしたが、女を抱き抱えて眠るということに慣れていないので、結局ドキドキして眠れず十分ほどして彼女を起こさないようにベッドを出ようとした。


「ん……う」


 円禍の細い腕が、嶺慈の体に絡みつく。意外なほど強い力で押さえられて、出ように出られない。

 まるでわがままな恋人にせがまれてベッドに押し留められる彼氏状態だ。こんな幸せが、あるだろうか?

 円禍がこの影法師で浮いているらしいということは昨日聞いたが、まあ、確かに生前(?)地獄を見て、生まれ変わってもなおそんな扱いじゃあ、こうなるのも当然か。

 嶺慈は結局されるがまま、円禍の抱き枕になった。

 赤黒い、闇色の長い髪を撫でたり頬っぺたを触ったりしながら、嶺慈は驚くほど穏やかな時間を過ごす。

 海の中のような部屋で、しばらくそうしていた。気づけばそのまま、二度寝してしまった。

 やがて、時計の電子音が響いた。十一時のアラームだ。

 円禍が薄目を開けて、起きる。


「おはよう。眠れた?」

「ああ。……最近、ショートスリープが続いててさ。その割にはスッキリ寝れてるからいいけど……」

「アヤカシ化が進んでるんでしょうね。ごめんなさい、人肌恋しくて、私……」

「あ、いや……俺も撫でたり触ったり……悪い、ちょっと馴れ馴れしかった」


 円禍はふふ、とうっすらと微笑んで、


「大丈夫」


 円禍が嶺慈の上を這ってベッドの外を出た。垂れ下がった乳房が鼻先を掠めて、甘い匂いがしてドギマギする。昨日それ以上のことをしてもらったのに——。

 嶺慈も続いてベッドから出た。気づけば嶺慈はパンイチだったが、濡れたズボンとシャツで寝るわけにも行かないと、円禍はあれから嶺慈を裸で寝かせたのだ。

 着の身着のまま家を出て、濡れ鼠のまま眠ったわりに風邪の症状はない。彼女も、頓着しなかったということは鬼憑きやアヤカシに一般的な風邪はありえないということだろう。あるいは、着替え自体がなかったのかもしれないが……。

 何はともあれ、流石にパンツ一枚で外には出られない。

 ドアを、ゴンゴン、とノックする音。


「私だ、円禍」

「秋月、入って」


 ドアを開けて入ってきたのは、有名ブランドのアパレルメーカーの袋を抱えた秋月だ。


「嶺慈、着替えを買ってきた」そこまで言って秋月は何かを察したように、「ふふ、若いな。……いや、悪い。サイズは合ってるだろうが、好みがわからんから適当に何着か見繕ってきたよ」

「ありがとうございます、朝からわざわざ……」

「いいさ。影法師の仲間だからな」


 秋月が袋を円禍に渡し、それから、


「円禍、お前に資金を渡しておくが無駄遣いはするなよ。嶺慈のための金だ」

「わかった。グッズと服の購入には使わない」

「よろしい」


 彼がスーツのうちから取り出したのは、文庫本ほどの厚みがある茶封筒だ。百万円で一センチの厚みであることを考えると、余裕で二百万円は入っているだろう。

 円禍が服の袋を投げ渡してきた。


「シャワー浴びて、着替えて。終わったら食事するわよ」

「わかった」


 嶺慈は袋を抱え、パンイチで廊下に出た。妖通ひとどおりはなく、部屋にいるのか外にいるのか知らないが静かだ。

 シャワー室に入った嶺慈と円禍は、それぞれブースに入ってカーテンをし、蛇口を捻った。シャワーの水圧は強いくらいで、キメが細かい。頭から湯を被ってシャンプーし、ヘチマでボディーソープを泡立てて体を洗う。

 泡を洗い落として、ブースから出てバスタオルで水気を拭った。


 袋に入っていた着替えは無地の黒いシャツに、上着のジャケットが二種類。一つはグリーンのミリタリーチックなデザインのもので、もう一つはダボっとした砂色のもの。

 嶺慈はグリーンのジャケットを選んだ。カーゴパンツを履いて、ベルトを締める。靴は、少し厳つい印象のショートブーツであった。

 以前まで嶺慈は基本高校の制服で過ごし、私服はダサいシャツとかパーカーばかりで、オシャレなんてものに気を使う余裕がないのでこの手の知識はないが、悪くないんじゃないかと思えた。

 円禍は赤いキャミソールに黒のライダースを合わせたパンクなファッションだ。したは太ももまで丈があるサイハイブーツ。現代的な吸血鬼の装いと言われればなるほど確かにそのように見える感じである。白銀の金属ビスが縫い付けられた黒革のリュックを背負い、彼女は「いこっか」と言う。

 嶺慈は無言で頷いた。汚れ物をカゴに入れて、シャワー室を出る。


 円禍はビルの二階に降りた。そこはアヤカシ向けの喫茶店になっているようで、どうも一見さんお断りらしい。入るには常連の案内が——つまり、アヤカシかそうなる者しか導かれないようになっているようだ。


「このビル自体」円禍が言葉を続ける。「術で認識阻害をかけている。人間たちにとっては存在しているようで存在しないような感じ。とにかく、存在感や気配が希薄なのよ——物理的には、そこにあると認識できるんだけど」

「人の目やカメラに映らないアヤカシみたいになってるってことか? ビル自体が?」

「そう。

「……?」


 円禍が窓際の席に座る。嶺慈は対面に座った。

 他の客はまばらに座っていた。満員ではないが、ガラガラに空いているわけでもない。店の席は、六割ほど埋まっている。カウンター席で談笑する老紳士と美しいマダム、テーブル席で果肉たっぷりのトマトジュースを啜る若いカップル、小さな子供が大人びた表情で人類史の分厚い本を広げ、ウェイトレスが後片付けを行なっている。

 鼻腔をつく、心の表面を鋭い爪でカリカリ引っ掻く匂い。忌避感と、食欲を刺激される感じ。罪悪感と背徳感と、約束された栄養と美食を前にしたような——陳腐な言い方をすれば、夜食にラーメンとライスを用意した時のような、あの感じ。

 なんの、匂いだろうか。


 若いウェイトレスが「いつものメニューです。新人さんには、こちら」と言って、プレート皿を二つ差し出した。ワゴンから、積んであるドリンクを取っておいていく。円禍には果肉トマトジュース、嶺慈には赤らんだ炭酸飲料。

 プレートの上には、朔夜のものはスクランブルエッグとポテトサラダ、が三枚と、ジャムトーストが一枚。


「あの、この肉って……


 ウェイトレスは赤い目で嶺慈を一瞥し、どこか嗜虐的に微笑んだ。


「言わなきゃ、わかりませんか?」

「……人、ですか」

「わかっているじゃないですか。食べてください。鬼憑きには必要です。アヤカシになる訓練ですよ」


 じゃあ、ナイフを入れて赤い血を滴らせている円禍のレアステーキも——。いや、あの果肉のトマトジュースだって、その正体は。

 ウェイトレスは「ごゆっくり」と言って、下がった。

 円禍は平気な顔でフォークを刺したステーキを頬張る。サーロインを咀嚼するようにもぐもぐ口を動かして、飲み込んだ。

 人肉食は、人間が行えば——死体損壊の罪に問われるんだったか。それに、プリオン病などの疾患という、倫理以前の問題だって、ある。だが遭難者はときに死んだ人間の肉を食い生還し、この国でかつて飢饉が起きた時には、人死が出ると近所から肉を分けてくれと言われたり、人肉を犬の肉と言って売り払うようなことが横行していた。

 ——いや、そういう問題じゃない。


「食べないの? お腹、空いてない?」

「食べたら……本当に、」

「まさか、まだ戻れると思ってるの? あなたはもう七割こっち側によってる。戻りようがない。だから陰陽師も鬼祓いから抹殺の方へ舵を切ったんじゃない」


 それは、確かにそうだ。

 助けようがないから、せめて殺して禍根を断とうとしたに違いない。


「食べておきなさい。力がつかないと、アヤカシになれないし、戦えないから」


 嶺慈はナイフとフォークを掴んで、ベーコンを切り分けた。かつて人間であったそれを、考え、動き、あるいはどこかの家庭で誰かから愛され、誰かを愛していた何者かの肉を、口に運ぶ。

 思い切って、噛んだ。

 味は、ジビエに近い。イノシシのような感じだ。やや硬く、歯応えがある。それでいて脂が染み出し、口の中に肉汁の甘さと、血の塩分が滲んで、——ああ、


「美味いんだな。人間って」

「ええ。私たちにとっては人間なんてただの食糧に過ぎない。人間が、私たちを害獣とみなすように、相容れない存在なの」


 嶺慈はフォークを、半分に切ったベーコンに突き刺して食べた。肉のくどさを和らげるためにポテトサラダを口に運び、いちごジャムのトーストを齧る。

 赤らんだ炭酸は、血を使ったものだった。血液の風味に、甘酸っぱい、蜂蜜とレモンのような感じの味が広がる。


「サングリアスカッシュ。気に入った? 若い子に凄く人気なのよ、それ」

「サングリアって、赤いカクテルだっけ?」

「そう。血を意味する言葉。レモン果汁にハチミツと炭酸水と血を混ぜたの。鬼憑きのうちによく飲むから、そのまま好物になる子が多い。ひとによって、ブレンドの比率が違うのが面白い」


 嶺慈はスクランブルエッグを頬張る。ふわふわした、ホテルで出るようなものだった。どうやらここの料理人は相当に腕がいいらしい。

 二人はしばらく無言で食事を進めた。窓の外では、まさか同類が喰われているとは思っていない人間が往来している。

 このビルはどうやら表向きには『紫電物流事務所』で通っているらしい。

 そのことを話した円禍は、「仕事に行かないと」と言って、食器にカトラリーを置いた。


「仕事?」

「うん。あなたも来る?」


 きっと、人間基準で言えば非合法なことに違いないが、嶺慈は迷わず首を縦に振った。


「そう。よかった」


 円禍は希薄な感情に、その血色の悪い頬と青ざめた唇に微笑みを浮かべて、立ち上がった。


「ご馳走様。美味しかったわ」

「ご馳走様です。凄く……美味しかった」


 ウェイトレスが微笑みながら一礼。


「コックも喜びます。よき一日をお過ごしくださいませ」


 一日が始まる。

 人間を卒業し、人外へなるための、その一日目が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る