百合珠紀

 彼がすることと言えば、絵を描くことくらいだった。いわゆる「売れない芸術家」という類のもので、仕事がないのでたいていはただ自由に好きな絵を描いている。仕事がなくてどうやって生活しているのかは不明だが、この家のつくりがいやに立派で、そして途方もなく広いことを考えると、もともとが資産家なのだろう。

 私は芸術に明るいわけではないが、一般的な感覚は有していると自負している。私からすれば彼の作品はひどく難解で、世間受けしないのも納得できた。ただ、興味をそそられることは確かだった。彼は作品について何も言わない。私も何も言えない。

よくある芸術家のイメージそのままに、彼は世間離れしていた。ご飯は、時々思い出したように食べる。お風呂は、気が向いたら。この男は、いったいいつからこんな生活を送っているのだろう。芸術家として生き始めてからか、それとも両親が亡くなって一人で暮らし始めてからか。いずれにせよ、昔はもっとまともな生活をしていたはずなのだ。なぜかわからないが、そんな気がしてならない。彼の感覚は世間からかけ離れているが、世間的な感覚もまたよく理解しているような節があるからだ。

 また、彼は外出を極端に嫌がった。だから週に一回だけ、必要なものを必要なぶんだけ買いに行くのだ。幸い、といえばよいのか食事はそんなにとらないから、食料品もそんなに買い込む必要がない。それに、着るものにもこだわりがなくて、少ない衣類をボロボロになるまで着回していたから、衣料品もめったに買いに行かない。画材や、その他生活必需品などを調達するため、男は毎回約三~四時間くらいここを離れて、街に出かけて行った。

 私はそんな男と一緒に暮らしているが、連れ立って外に出かけることはなかった。だから、彼が他の人間とどのように話しているのか、見たことがない。普段はほとんどしゃべらないけど、外に出れば近所の人や店員さんに、にこやかに挨拶をしているのだろうか。なんだかうまく想像できなかった。それくらい、日常的に人間社会から隔絶していた。気にはなるのだがそこまでして知りたいというわけでもなく、結局いつも窓から見送るだけだった。私は深く考えない主義なのだ。そこはこの男とよく似ていると思う。もしかしたら、私も変わり者の素質があるかもしれない。でも、まわりがどう思おうが関係なかった。こうして彼とのんびり暮らすことができれば、それでいい。それが私の幸せ。それ以外のことは考えなかった。彼がいつからこんな生活をしているのかわからないように、私もまたいつからこんな生活をしているのかわからない。気がついたら、こんな感じだった。記憶が曖昧なのだ。正直、自分が何年生きているのかもわからなかった。頑張れば思い出せるのかもしれないが、頑張ろうとも思えない。わざわざ忘れているものを思い出すことに、それほど意義があるとは思えなかった。純粋に記憶から抜け落ちているのなら、それはその程度のことなのだし、忘れようとして忘れているのなら思い出さない方が今の幸せを壊さずに済むではないか。それに、そもそも私は思考力がものすごく低いみたいだった。あまり難しいことは考えられない。尤も、この生活をしている分には、大した思考力など必要としなかった。自分がここにいる理由がわからないまま、ある程度の月日が流れたことだけはわかる。


 彼は必ず私より先に目覚める。どのくらい前から起きているのだろうか、とにかく私より早く起きている。しばらくすると私もゆっくり起き出すから、彼が「おはよう」と言う。そこからしばらくは私の世話を焼いてくれる。そんなことしてもらわなくても大丈夫だけど、彼はそうしたがった。私も、彼に甘やかされるのは悪い気はしなかった。

 太陽が空の真上にくる頃、私たちはその戯れにも飽きて、急に夢から覚めたように現実に戻ってくる。そして各々自由な時間を過ごす。私は、目覚めたこの小さな部屋を出て、広い家の中をうろうろしたり、日向ぼっこをしたり、現代社会から切り離されたような気ままな生活をしていた。彼はまだその部屋の真ん中で、ピクリともせずに座っている。

 その部屋は、明るい色のフローリングで、壁紙は白い。私もその部屋にはちょくちょく出入りするし、というかそこで寝起きしているけど、そこは「彼の個室」とも呼ぶべき部屋だった。ドアは木の引き戸になっており、その向かいの壁には大きめの出窓がついている。でも、なぜだかいつも遮光カーテンが引いてあり、明かりをつけないと室内は薄暗かった。だから、いつでも真っ白な蛍光灯がついていて、眩しい。この部屋に入ると、くらくらした。家具はない。不動産屋の物件資料のように、床と壁、壁と天井の境目がきれいに見える状態だった。

 本のような娯楽もなく、携帯電話やパソコンのような電子機器もなく、ぺたんこになった丸い灰色の座布団の上にただ彼だけがいた。何もせず、ただただそこにいた。

彼の一日は絵を描くかそこでじっと過ごすかで終わっていく。何かを考えるために集中しているのか、あるいは何も考えず無になるために集中しているのか。目は開いているが、うつろだった。ただ、私が引き戸を開けて入っていくと、その音に気付いた彼は「おいで」と柔らかい声で私を迎え入れてくれた。 

「どこに行ってたの?」

 彼はそう言って私の頭を撫でた。私を呼ぶ声はいつも優しく、感情の揺らぎは感じられない。彼が何かに苛立ったり落ち込んだりする様子は、見たことがなかった。だいたいいつも無表情だし、しいて言えば私と話すときに目を細めてかすかに微笑むくらいだ。ただ、ほんの一瞬だけ、悲しそうな顔をすることがごくたまにある。よく見ていなければ見逃してしまいそうな表情の変化。それはごく短い時間で、彼は無意識にしているようだった。

 目を伏せると長いまつ毛がよく見えた。さほど濃くないので普段は目立たないが、この角度の時だけよく主張するのだ。

「ああ、眠い」

 そのまま目をしぱしぱと瞬かせ、彼は私に身を寄せた。彼のにおいが鼻腔に広がり、多幸感に包まれる。人より敏感な嗅覚でめいっぱいに彼を感じ、もう何もいらないという気がした。ずっとこのままでいたい。夜が明けて、朝が来て、また夜が来てそれが明けても。何も知らないままで、考えないままで、彼のそばにいたかった。

「寝ようか」

 答えるように私は彼のそばで横たわる。ひんやりとして硬い床の感覚が伝わってきて、一瞬びくりとなるが、いつものことなのですぐに慣れる。暑い夏はむしろこの冷たさが心地よいのだった。彼が立ち上がって電気を消す。そしてもぞもぞと毛布を被るような気配がした。だんだんと自分の腹の下でぬるくなっていくフローリングの温度を感じながら、私は丸くなり眠りについた。


 季節は移ろい、だんだんと過ごしやすい気候になっていく。私は九月に生まれたらしい。男がそう言っていた。この男はなんなのだろうか。ずっと一緒に住んでいたような気もするし、ある日急に現れたような気もする。ただ一つ確かに言えるのは、私がこの男に飼われているということだ。首輪がついているわけじゃないし、強制されたわけでもないけど、ごく自然にそう感じていた。私は、自分を猫のようなものだと思っている。男も私のことをそう思っている。だから私はたぶん猫なのだ。込み入ったことを考えるのは苦手だった。私が飼われることに不満を抱いているのならともかく、両者の認識が一致して平和に過ごしているのだから別にいいではないか。

 目が覚めるのは、いつも同じフローリングの部屋だった。いつもは起きて最初に目に入るのが彼だけど、今日は違った。どうやら私は寝すぎたらしい。彼は朝のうちはたいていこの部屋にいるけれど、今日は私が起きるのがあまりにも遅くて、もう絵を描きに行ってしまったようだった。彼の仕事部屋——つまり絵を描くための部屋はこの部屋の隣にあるから、ちょっと様子を伺いに覗いてみても構わないのだけど、私はそんな風に邪魔するようなことはしない。私は猫なのかもしれないが、その辺の猫以上に理性と分別は持っているつもりだった。


 この部屋はリビングに面しているのだが、引き戸を挟んでフラットにつながっているわけではなく、5センチほどの段差がある。私はよいしょと力を入れ、寝起きの頭と体を起こした。気をつけていないとたまに足を引っかけるのだ。

 リビングにはごはんが用意してあった。あまりお腹は空いていないけど、せっかくだから少し食べる。

 家の中はとても静かで、音といえば鳥の声と木々のさざめきくらいだった。彼の気配はほとんど消えている。絵に没頭しているのだろう。物が少なすぎて、彼が生きてここで生活している痕跡もほとんどないから、こんな時、私はこの広い屋敷にひとりぼっちになった気がして、ひどく心がざわざわするのだ。

 今日は何をしようかな。始終家の中をうろつきまわっているのでもはや新鮮味はなかったが、かといって外に出ることはない。彼は自分が外に出るのも嫌いだが、私が外に出るのもあまり好きではないらしいから。


 昼過ぎ、もはやどれだけぶりかわからないほど久しく聞いていなかった音が鳴り響いた。玄関のチャイム。客が来るなんて、珍しいこともあるのだなと思いながら、私はそっと物陰に隠れて様子を伺っていた。

 客人はどうやら、彼の古い知り合いのようだった。遠く離れていてよくわからないが、彼と同い年くらいの男だった。応接室はもう全く掃除していないというので、男はリビングに通され、彼とはテーブルを挟んで向かい合う形で着座した。いつもの部屋から戸を少しだけ開けて覗いてみるが、客は私に背を向けていて気付いていないみたいだった。

「久しぶりだな。中学校の卒業式ぶりか?」

 その客は、彼の同級生らしかった。

「俺、最近地元に戻ってきたばっかなんだよ。起業してさ。ローラーしてたら懐かしい家があったからつい寄っちまった。急に来て悪かったな」

「別にいいよ」

 彼はそっけなかった。

「にしてもお前本当に変わらないな。こんなところで一人で……あれ、お前って結婚して娘がいるんじゃなかったっけ」

「何言ってんの。うちは猫一匹いるだけだよ」

「あ、そうだったか。悪い。いろんな人から誰それが結婚したとか子供ができたとか  そういう話聞くもんでな。特に十数年前なんて同級生の結婚出産ラッシュだったからごちゃごちゃになってたかもしれん」

「ふーん、相変わらず付き合い広いんだ」

「まあな。それよりお前、あれ覚えてるか? 俺もこの前思い出したんだけど……」

 客は完全に懐古に浸っていて、あの時はああだったの、お前はこうだったのと私の知らない彼の話をし始めた。それが興味深くて、私は夢中になって聞いている。

——へぇ、それでそのあとどうなったの?

 客よ、もっと突っ込んで聞いてくれ。私の代わりに聞いてくれ。戸の向こうから必死に懇願している自分にふと気づいて首をかしげる。彼のことを知りたいなら、どうして私はいままで直接聞いてこなかっただろう。口がきけないからか。どうして口がきけないのだろう。猫だからか。私は猫なのか。ね、こ……?


 いつのまにか眠ってしまった私の背中を、彼がいつものように撫でている。

「タマは人見知りだねぇ。あいつに顔くらい見せてやってもよかったんじゃない」

 うつらうつらとしながら聞く彼の声は心地よい。

「ねぇタマ、さっき電話があってね。僕の従兄が亡くなったんだ。ちょっと遠いし、葬式だけ出ようかな。泊まりになるから一緒に行こうね」

 遮光カーテンの向こうに、夕焼けの気配がした。


 彼の本家に行くのは初めてではない、気がする。本家には彼の伯父が住んでおり、亡くなったのはその息子——すなわち彼の従兄なのだ。少なくはない親戚たちは各々声を掛け合い談笑していたが、彼にだけは近寄ることもせず、腫れ物にでも触るような目で彼を見ていた。

 彼は喪主である従兄の父親——その従兄も結婚しておらず妻子はないらしい——に言葉少なに挨拶をして、家の隅っこでじっと耐えるように目を閉じていた。

 私も彼に倣い、そばで目をつむりじっとしている。その間も親戚たちはざわざわと話している。人が大勢集まると噂話をしたくなるのが人間の性のようで、小声で話しているつもりなのだろうが「あそこは奥さんが……」とか「娘さんがね……」とか「気が変になっちゃったみたいで……」とか穏やかでない途切れ途切れのひそひそ声が聞こえた。

「あの人、絵描きなんだって」

「へぇ、どおりで普通の社会人っぽくないよね」

 ああ、彼のことだ。

「そうそう、あの人も少し頭がおかしいらしいよ」

「気の毒にねぇ」

 ちらっと彼を見たが、微動だにしない。親類たちは変わらぬ調子でこそこそとよその家の噂で盛り上がっていたが、やがて話も尽き散り散りになり、私たちの周りには誰もいなくなった。

 彼が立ち上がり、外に出る。私も彼についていく。玄関先で、遅れてやってきた従姉と鉢合わせた。従姉は、彼と彼にぴったりくっつくように立っている私を見て、

「あらぁ、あんた久しぶりねぇ。珠紀ちゃんもこんなに大きくなって」

 と感慨深げに言った。

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百合珠紀 @junelily

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