第31話 宴の夜に

 宴を翌日に迎え後宮は朝からバタバタと騒がしい。立秋をとっくに過ぎたものの秋の気配はなく、暑さの中使用人達が汗だくになりながら宴用の花や装飾品などを王の屋敷へと運んでいる。午後になると数名の使用人や侍女を残してほとんどの者が王の屋敷へと出発した。


 厨房で働く下女達も届いた食材や酒、海産物の仕込みをするため数日前から王の屋敷に出計らっていて、いつもわちゃわちゃと騒がしい厨房も今日はがらんとしている。私は小彩こさが簡単な食事を作っている間、普段入る事が出来ない厨房の中を悪い顔をしながらうろちょろと歩き回り、大いに堪能していた。


 辺りに人も居ないので小彩こさとふたり厨房横にある平たい石に腰掛け食事を取った。橘宮たちばなのみやではよく彼女と二人で東屋の下で食事をし、朱色に輝く都を眺めて笑い合ったものだ。懐かしさで胸がキュンと鳴った。


 部屋への帰り道、侍女達の賑やかな笑い声も子供達のはしゃぐ声もどこを歩いても聞こえることはなく、ひっそりと静まり返っていた。私は侍女からのお咎めがないのを良いことに、小石を思いきり蹴飛ばしながら中庭を歩いた。なんだかとても解放された気分で楽しい。


 「燈花とうか様、ついに明日は祝いの宴ですね。少年達の伎楽も豪華な食事も美味しいお酒も全てが楽しみでしかたありません」


 部屋に戻ると小彩こさが両手を胸に当てながらキラキラとした瞳でこちらを見た。私はその姿にフッと笑い、部屋の窓辺にそっと腰かけた。


 無邪気に浮かれる彼女とは裏腹に私の心は複雑だった。死んだ巫女への罪悪感も当然消えないし、明日の祝宴の為に西国から呼び寄せた巫女の行く末も気がかりだ。ただ今回救いなのは、例え悪い結果が出たとしても近江皇子おうみのみこがはるばる呼び寄せた人物だけに最悪の結果にはならないだろうと思えることだ。

 

 当日になり朝早くに目が覚めた。というか、興奮でよく眠れなかったのか小彩こさが夜明けと同時に部屋の中をパタパタと歩き回っていた。彼女なりに気を使っていたのかもしれないが、私を起こすのには十分な足音と騒々しさだった。


 まだまだ眠い…寝台から起き上がり目を擦りながらあくびをしていると、私の起床に気が付いた彼女は一瞬驚いたような顔をしたがすぐに満面の笑みを浮かべ言った。


 「燈花とうか様、おはようございます!!朝になりましたよ!」


 彼女のとおる声が目覚めたばかりの私の頭にこだまのように響き、文句の一つでも言おうかと迷ったが黙って頷くだけにした。


 身支度を始めるには随分と早すぎる気もするが、この時代、女性は着替えるのも髪を結い上げるのもメイクをするのも意外と面倒で時間がかかる。見るからに今日の小彩こさは私をめかしこもうと気合満々だ。


 完璧主義な彼女の事だからあの様子ではどれくらい時間をかけるか分からない。空腹ではなかったが早めの朝食を取り準備へと取り掛かった。


 王妃が海柘榴市つばいちで購入した秋桜コスモス色の絹布が美しい衣へと仕立てられていた。袖を通すととても滑らかで軽く、顔色が一気に明るくなったようで気分が上がった。気を抜くと口角が下がり気落ちしているように見えていた最近の私にはぴったりの色合いだ。


 小彩こさは予想通りいつも以上に時間をかけ髪を結い上げた。深く吸い込まれるような青色の瑪瑙めのうがちりばめられたかんざしを頭の一番上に挿し、葡萄がモチーフの金細工の髪飾りを耳の上につけると、私を見て満足気にニンマリとうなずいた。私もこの頃には頭の装飾の重さにも慣れ、さほど不快にも感じなくなっていた。


 あっと言う間に午後になり私達は用意された馬車に乗り込み王の屋敷である北上之宮きたかみつのみやへと向かった。王妃と白蘭はくらんを乗せた馬車は早々に出発したらしく、最後に登場した私達に待ちくたびれたのか馬夫が凄い勢いで手綱を引き馬車を出発させた。


 北上之宮きたかみつのみやは後宮から出るもう一方の分かれ道を更に進んだところにあり馬車をゆっくりと走らせても30分ほどと、さほど遠くない。夏の今ならハイキングがてらに山の緑を楽しみながら歩いて行ける距離だが、もちろんそれは許されていない。


 実は今回、初めてこの宮を訪れる。今日の宴への緊張をほぐす為にも馬車の中で気持ちを整えたかったが猛スピードで走る馬車が怖過ぎて、端に必死でしがみついているのがやっとだった。


 気がつくと馬車は速度を緩め王の屋敷の門にゆっくりと止まった。私達はもう一度身なりを整えたあと深呼吸をし馬車を降りた。


 目の前の光景に驚いた。以前訪れた事のあるどの宮にも見劣りすることのない立派で豪勢な屋敷だ。宮の周りにはすでに何台もの煌びやかな馬車が並び、後ろにつく荷馬車の周りでは使用人達が大きな荷を下ろしたり積んだりしている。


 門の両脇には強靭な体つきの武装した隼人はやとらがいて、周辺をぎょろぎょろと睨みつけるように警備している。聞いた話によると彼らは南九州出身の部族らしく、顔に独特な模様の入墨をし独自の言語を話している。武勇にすぐれた種族らしく古来より大和朝廷に従事しているそうだ。


 あんな睨みをきかせられたら、たとえ悪い事をしてなくても震え上がる。私は目が合わないように細心の注意を払った。


 道の両端には夜になったら灯されるであろう灯籠がいくつも並んでいる。屋敷から香の煙がただよい、にぎやかな楽器の音が聞こえてきた。


  ピーヒャラヒャラ、ピヒャラヒャラ…


 宮の外まで鳴り響く笛の音から、今日の祝宴がすばらしく贅沢でめでたいムードなのかが伝わる。一気に緊張が込み上げたが、意を決して門に足を踏み入れた。   


 正面の門を抜けるとすぐに大きな広場がありすでに多くの来客やら使用人でごった返していた。広場の奥には神楽殿のような舞台が組まれ、その上で数人の男達が楽器を奏でている。


 朝廷の高官らしき男や下級官吏達がその前で愉快に談笑している光景は一瞬で私の昔の記憶を蘇らせた。私は横に並ぶ小彩こさにささやいた。


 「小彩こさ覚えてる?昔一緒に今日のように盛大な宴に来た事があったわね」


 彼女は少し考えたあと、パチンと手を叩いた。


 「そうですね!確か……」


 「茅渟王ちぬおう様のお屋敷よ」


 「さようでございます。あの時は、中宮様のおつかいでまいりましたね」


 「ええ、あの時は大唐からの使節団の歓迎の宴だった。山代王様と共に陵王の舞を見たのよ…」


 「そうでございましたね」


 小彩こさが感慨深気に答えた。


 茅渟王ちぬおう様…お別れの挨拶もできずに去った無礼をどうかお許し下さい…


 心の中で再び彼を偲んだ。死因はわからないが彼は当時まだ年若く、無念の死をとげた可能性があると思うと胸が痛んだ。


 「燈花とうか大丈夫か?」


 顔をあげると山代王が目の前に立っていた。



 「燈花とうかどうしたのだ?なぜそんなに暗い顔をしている?」


 心配そうに覗き込む彼に慌てて笑顔を向けたがもう遅い。


 「そなたの為に用意した宴であるのに、浮かぬ顔ではかなわない。何か問題でもあったのか?気に入らぬか?」


 「そうではないのです。王様の勘違いです。実を言うと…茅渟王ちぬおう様との在りし日の事を思い出しておりました」


 要らぬ誤解をまねきたくないので、私は正直に気持ちを打ち明けた。


 「…兄上の事を?」


 「はい、茅渟王ちぬおう様や山代王様と共に過ごしたあの時の宴を思い出していたのです」


 「大唐の使節団を迎えた時か…なんと随分昔の事を…さようであったか…」


 彼は寂しげに笑った。


 「茅渟王ちぬおう様の事を思うと、胸が痛むのです…」


 彼は黙ったまま私の肩に優しく手をあてると、


 「私は兄上とは違う、必ずやそなたを守り不安な思いなど絶対にさせぬ。私は今や朝廷を牛耳る絶対的権力を持っている。悪行をする者は地位に関わらず容赦はしないし、裏切り者に対してもたとえ朝廷の功労者だとしても温情は与えない」


 その表情は氷のように冷たくも見え、漆黒の瞳の中には憎悪に似た感情が溢れているようにも見え、胸が締め付けられた。


 どんな思いでここまでのし上がってきたのだろう…


 彼は私を見つめると優しく微笑んだ。さっきまでの鋭い眼差しはもうない。


 「さぁ、食事の用意が出来ているぞ。皆で食べよう。じき宴が始まる」


 「はい…」


 人だかりの奥に王妃と白蘭がこちらに向かい手を大きく振っている姿が見えた。


 そうだ、せっかくの宴の夜だ。今はただ大いに楽しまないと…気持を切り替え、小彩こさと共に王妃達のもとへと向かった。

 広場には沢山の豪華で贅沢な食事がいくつも並び人々は飲めや歌えやとどんちゃん騒ぎをしている。私も少し離れた宴席に座る王妃達に混じり食事を楽しんだ。


 お腹がいっぱいに満たされる頃には辺りは薄暗くなり、広場は更に熱気を帯び多くの来客でごった返していた。


 しばらくすると宮の隅々に置かれた灯籠に火が灯され、広場はまるで昼間のように明るくなった。笛の音と太鼓が鳴り神楽殿に特徴的な面をつけた少年達が姿を現した。すぐに彼らは大きく手を動かしながら伴奏に合わせ踊り始めた。


 舞がクライマックスを迎える時、庭の中央に若い女の巫女が現れた。恐らく年は十五、十六あたりだと思う。生成り色の衣の上に青紫色の布を羽織り、首に巻かれた勾玉のネックレスがキラキラと光っている。彼女は庭の中央に敷かれたゴザの上に座ると手に持っていた榊を左右に大きく振り始めた。


 彼女のすぐ前に置かれた薪に火が焚かれると煙がモクモクと空高く上がっていった。傍らには小さな祭壇のようなものが置かれ、その上の杯には酒が並々と注がれている。


 ドンドンと二回太鼓の音が鳴ると全ての楽器の音が止み、水を打ったように周囲は静まり返った。


 これからあの巫女はどうするのだろうと背伸びをした瞬間、


 「燈花とうかゆくぞ」


 山代王が突然後ろから私の手を取った。彼はそのまま私の手を力強く引き人だかりの中を歩き始めた。私は訳がわからぬまま必死で彼の歩調に合わせ歩いた。


 人混みをかきわけ進むと巫女の座る正面にでた。彼女は私の顔を見ると、袖の下から粉のようなものを取り出し火の中に勢いよく投げ入れた。


 バチバチバチっと大きな火柱が立ち、火の粉が空高く飛び散った。人々の歓声が上がると、彼女は立ち上がりしばらく天を仰いだあと山代王を見た。炎に照らされた彼女の口元がかすかに微笑んでいる。私の悪い予感は瞬時に打ち消され大きく息を吐いた。


 「どうだ?」


 山代王が低い声で巫女に尋ねた。


 「はい、婚儀に最高の吉日が出ました。来月の白露の日で祝儀を挙げてください」


 巫女は山代王の顔を見ると堂々とした態度できっぱりと言った。


 「誠であるか⁈来月の白露の日か?」


 「さようでございます。」


 巫女が深く頷くと、


 「すぐではないか!なんと嬉しい報告なのだ!」


 山代王は豪快に笑い、強く私を抱き寄せた。


 「おめでとうございます」


 周囲から祝福の声が沸き上がると山代王は祭壇の杯を巫女から受け取り、それを空高く掲げ一気に飲み干した。同時に笛と太鼓が鳴り始め少年達が再び踊り始めた。


 宴席の緊張も一気に解けたのか王妃と白蘭はくらんが顔を見合わせ微笑んでいる。広場の至る所で酒が酌み交わされ、食べて、飲んでと再び盛大な宴が始まった。まるで今日が婚儀の日のような光景に呆気に取られながらも、私はひとまず窮地を乗り越えた安心感で胸をなでおろした。


 「山代王様、おめでとうございます。無事に日取りが決まり大変喜ばしい事でございます」


 若い少年が私達の前に駆け寄って来た。聞き覚えのある声だ。顔を上げて見ると近江皇子おうみのみこが酒を片手にニコニコとしながら立っている。彼の少し後ろに立っている鎌足かまたりらしき男も一瞬怪訝な顔をしたが私達に向かい頭を下げた。


 「近江皇子おうみのみこよ!よく来てくれた!此度はそなたの力がなければ成し遂げなかった、このとおり礼を申すぞ」


 王が笑顔で近江皇子おうみのみこの肩に手を置いた。


 「いえ、偶然有能な西国の巫女と縁があったのでございます。お力になれたようで安堵いたしました。燈花とうか様、私を覚えておいでですか?」


 皇子は私に丁寧に挨拶をしたあと、恥ずかしそうに言った。


 「はい、皇子様、談山たんざん神社でお会いしましたね。お怪我が軽症で済んだと聞き、ほっといたしました」


 ビビッている訳ではないが、かりにも彼は将来の天智天皇だ。粗相のないように無難にやり過ごしたかった。


 「あの時は、まさか燈花とうか様が王族に嫁がれる方だと知らずにいたものですから、無礼な態度を取ってしまったかも知れません。この場をおかりしてお詫びいたします」


 皇子が深く頭を下げようとしていたので私は慌てて止めた。彼は照れくさそうに笑い鼻を擦った。


 笑っている彼はまだまだあどけなさの残る少年で今の所、品行方正だ。これまで彼に対する少しばかりの悪いイメージがあったが、思い違いだったのだろうか?


 ひとまず彼が西国から呼び寄せた巫女のおかげで祝宴のメインイベントである婚礼の日も何の問題もなくすんなりと決まった事だし、お礼を言わなければ…


 私は背筋をのばし近江皇子おうみのみこに顔を向けた。


 「こちらこそ皇子様のおかげで、こうしてまた山代王様とご縁を頂くことが出来ました。有能な巫女のおかげで婚儀の日も無事決まり心から安堵しております。感謝いたします」


 私は丁寧にお辞儀をしながら笑顔で答えた。横で満足げに頷く王を見た時に、若い巫女の占いの信憑性はともかく、とにかく彼女の命が守られて良かったと心底ほっとした。


 「燈花とうかの言う通りだ。そなたの蹴鞠のおかげでまた運命が回り始めたのだ。今宵の巫女といい全てそなたのお手柄だ。ハハハ、さぁ今日は思う存分楽しんでいってくれ!!」


 ますます機嫌の良くなった王が嬉しそうに叫んだ。


 「山代王様、もしお時間があれば諸外国の技術や学問、朝廷の政についてお話を聞かせて頂きたいのですが」


 皇子が目を大きく開き興奮しながら熱い口調で言った。


 「もちろんである。さぁ、そなたももう大人だ。酒を酌み交わしながら大いに語るとしよう」


 「燈花とうか、行ってもかまわぬか?」


 「はい、小彩こさがおりますので安心して下さい」


 「では、皇子よ付いてまいれ」


 山代王は上機嫌で、皇子の肩に手をまわすと屋敷の方へと歩いて行った。彼らが去ると少し離れたところに居た小彩こさがすぐにやってきた。なんだか彼女の顔が赤く染まっている。


 「小彩こさ、随分と顔が赤いわよ。どうしたの?」


 「あっ…きっと、果実酒を飲みすぎたかもしれません…美味しくて」


 小彩こさは慌てて両手で頬を押えうつむいた。


 一体いつの間に飲んだのだろう?ついさっきまで彼女と一緒にいたが酒を飲む暇なんてあっただろうか?ふと疑問に思ったが宴席で彼女を深く問い詰めるのも野暮だと思い、「ふーん」とだけ答えた。


 私達は馬屋から一番近くにある屋敷の縁側に座った。すぐに使用人の下女がお盆に酒と杯をのせてやってきた。私達は並々と注がれた杯を手に持ちお互いに見つめ合った。小彩こさは私の髪飾りの位置を直したあと感慨深気に言った。


 「燈花とうか様、改めてお祝い申し上げます。また明日から婚礼の準備で忙しくなりますね」


 「ありがとう。そうね……」


 私はそう答えると注がれた酒に映る三日月を見つめた。


 「燈花とうか様?」


 「ん?」


 「嬉しくはないのですか?やっと婚礼の日が決まりましたのに…」


 小彩こさがポカンと目を丸くさせこちらを見た。私はハッと我に返り慌てて答えた。


 「そ、そりゃ嬉しいわよ…けど」


 「けど?」


 小彩こさが身を乗り出しながら眉をひそめた。私は一瞬迷ったが適当な理由も見つけられなかったので、本当の事を話した。


 「実はね、すごく不思議なの。嬉しい気持ちがあるのに不安なの。それに、なんだか漠然とした迷いもあるのよ…」


 「迷い?」


 小彩こさは更に目を大きくした。私が静かに頷くと、彼女はためらいがちに口を開いた。


 「確かに、ここ数日燈花とうか様と一緒におりますが、以前の燈花とうか様とは少しご様子が違うように感じていました。なんと言うか…寂しそうな表情をされている気がして…何か山代王様との間にあったのですか?それともあの死んだ巫女の事をまだ気にされているのですか?」


 「いえ、そうではないのよ」


 私は慌てて手を振って否定したあと話を続けた。


 「確かに彼の命で死んだ巫女には申し訳なく思ってるし今も心が痛むわ、けど問題は別のところにある気がするの。山代王様は本当に偉大なお方よ。いつだって優しくて私を一番に考えてくれるし、不自由のない贅沢な暮らしをさせてもらっていて心から感謝してる、、」


 私が言葉に詰まると、


 「では何が不安なのですか??」


 小彩こさが畳み掛けるように言った。


 「それがわからないのよ…後宮に来てからほぼ毎日のように山代王様は会いに来て下さるし大切にもされているけど、なんとなく私が知っている昔の山代王様ではないような気もしていて…」


 私が王から贈られた翡翠の指輪をぎこちなく触っていると、


 「燈花とうか様、僭越ながら申し上げても宜しいですか?」


 小彩こさが神妙な顔で言った。


 「ええ、もちろん構わないわ」


 「お二人の間に何があったかはわかりませんが、以前にも申し上げた通り、山代王様は燈花とうか様を突然失っただけでなく、そのあとも最愛の茅渟王ちぬおう様まで亡くされて失意のどん底の時期が長らくありました。それらの困難や悲劇を乗り越える為にもお気持ちを強くして生きる必要があったと思うのです」


 「わかってるわ…でも…」


   “でも…何か違うのよ”


 こう言おうと思ったが直前で言葉を飲み込んだ。正直ここ最近、自分の気持ちがよく分からない。思考と心が一致していないような妙な感覚だ。私は残りの酒を一気に飲み干した。


 「と、燈花とうか様⁉︎一気に飲むなんてお体に障ります!ただでさえ病み上がりなのに…」


 小彩こさが慌てふためいた。


 「大丈夫よ、病み上がりだってこれくらい飲めるわ。体調も戻った事だし今日は快気祝いにとことん飲むわよ~!!」


 彼女は何度も「病み上がりなのに」と言い私を止めようと試みたが、私は聞こえないふりをして酒を飲み続けた。と言っても、もともと酒には弱いので普段より数杯多めに飲んだくらいだ。


 それにしても今晩のお酒は妙に美味しい。飲めば飲むほど体も心も軽くなるように感じるし、何よりもこのよくわからない思考から解放されてふわふわと自由に空を飛んでいるようで心地良い。私の上機嫌な姿を見てあきらめたのか小彩こさも何も言わなくなった。


 さっきから賑やかな宴席の中で男がこちらを見ているような気がしたが、物が二重に見えるくらい酔っぱらっていた事もあり、あまり気にしなかった。それよりも酔いが覚めた時、小彩こさにどう謝ろうかをぼやっと考えていた。再び視線を向けた時にはもう男の姿はなかった。


 「はぁ~美味しいお酒だわ~こんなに飲んだのは実に久しぶり…あー頭が痛い…」


 私は床にパタンと寝転がった。


 「大変!!大丈夫ですか燈花とうか様⁈」


 オロオロとする小彩こさの姿が見える。


 「燈花とうか様、後宮に帰りましょう。今王妃様に伝え馬車の手配をしてきますので、ここでお待ち下さい」


 小彩こさはそう言うと、床に大の字で寝転がる私の体の上に自分の領布をかけ、一目散に王妃のもとへと駆け出した。


 彼女はすぐに別の侍女達を引き連れ戻ってきた。侍女達に両腕を支えられながらヨロヨロと馬車まで向かった。


 こんなに足に力が入らないほど飲んだのだろうか?それとも病み上がりなので余計に酒が回ったのだろうか?それとも単純に飲みすぎたのだろうか?


 あんなに深酒はしないと心に決めていたのに…


 気がつくと揺れる馬車の中だった。夏の夜風が熱った顔にあたり気持ちが良い。私は大きく息を吐きだし再び目を閉じた。


 北上之宮きたかみつのみやでは夜を迎え更に宴が盛り上がりを見せていた。


 「山代王様、林臣りんしん様がお越しになられました」


 冬韻とういんが神楽殿の前に用意された宴席で朝廷の大臣や官吏達と杯を交わしながら談笑する山代王に耳打ちした。


 「林太郎が?用があるから来ぬと申していたのでは?まぁ良い。連れてまいれ」


 林臣りんしんが来ると聞いた大臣達は愛想笑いを浮かべると軽く頭を下げ、席を外した。


 彼らが去るとすぐに林臣りんしん猪手いての二人が姿を現した。彼らは山代王の前に来ると、深く頭を下げ挨拶をした。


 「山代王様、ご無沙汰しております」


 「久しぶりだな林太郎、まぁ座りなさい」


 山代王はそう言うと、二人を目の前の宴席に座らせた。


 「そなた今日は用があり来れぬと聞いていたが…」


 「はい、その予定でしたが、思いのほか早く仕事のめどがつきましたので、ご挨拶に参りました」


 「そうか、朝廷の仕事か?」


 「さようでございます」


 「ふむ、ご苦労であったな。さぁ、まずは酒を一杯飲みなさい」


 山代王は侍女に盃を用意させると並々と酒を注ぎ彼らに手渡した。二人は丁寧に杯を受け取ると高く掲げ、


 「頂戴いたします」


 と言い、一気に酒を飲み干した。二人の豪快な飲みっぷりに王は満足げに頷き冬韻とういんに向かい手を振った。


 「燈花とうかを連れて参れ」


 「はっ」


 冬韻とういんがその場を去るとすぐに林臣りんしんが口を開いた。


 「では王様、私もお暇させていただきます」


 「何を言うのだ、そなた来たばかりではないか」


 山代王が言うと、林臣りんしんは半分立ち上がっていた腰を再び下ろし何かを思うように下を向いた。


 「しかもそなた、燈花とうかとは知人であると聞いたぞ。会うのは久しぶりであろう。私たちの婚礼の日も無事決まったのだ。祝福して欲しい」


 山代王は嬉しそうに笑うと二杯目の酒を林臣りんしんにすすめた。彼は注がれた酒を数秒見つめたあと口を開いた。


 「おめでとうございます。山代王様と燈花とうか様が末永くお幸せであられることを願って」


 彼は杯を両手高く持ち上げると一気に酒をたいらげた。


 「誠に良い飲みっぷりだ!そなたに祝ってもらい嬉しいぞ」


 王が嬉しそうに目を細め林臣りんしんの肩を力強く叩いた。戻ってきた冬韻とういんが王の横に膝をつき言った。


 「王様、燈花とうか様ですが、先ほど後宮に戻られたようでございます。王妃様がおっしゃるには随分と酔われていたそうで…」


 「さようか、ならば仕方あるまい。すまぬな林太郎、旧友には会わせられぬが来月の白露の日に燈花とうかと私の婚儀を執り行う。その時に改めて挨拶をしてくれぬか?」


 「承知しました…」


 林臣りんしんが答えると、一人の侍女がこっそりとやってきて王の横に膝をついた。


 「王様、お話し中に申し訳ありません。少し宜しいですか?」


 「なんだ?」


 侍女は一瞬林臣りんしんをちらっと見た後、両手を口元にあて声をひそめて王に尋ねた。


 「今晩も白蘭はくらん様のもとに向かわれますか?」


 「もちろんだ。別宮で待つように伝えよ」


 「承知いたしました」


 侍女はそう言うと、林臣りんしんに軽く会釈をし去って行った。


 「林太郎、今宵の宴はこれからが盛り上がっていくのだ。まだまだ終わらぬゆえ大いに楽しんでいってくれ」


 山代王が立ち上がりながら林臣りんしんの肩に手を置いた。


 「……」


 彼は真っすぐ前を向いたまま何も答えない。


 「どうしたのだ?」


 王がきょとんとした顔で林臣りんしんを覗き込んだ。


 「…様子を見に行かずともよいのですか?」


 林臣りんしんが視線を落としたまま王に尋ねた。


 「誰のだ?」


 彼はしばらく沈黙したあと答えた。


 「…燈花とうか様でございます」


 「燈花とうかの事か?案ずることはない、幾名かの侍女と優秀な護衛をつけているゆえ心配なかろう。明日朝一番で会いに行くつもりだ」


 「なれど、病み上がりの体で酒を飲まれたとなると…」


 「そうではあるが、燈花とうかは真面目で聡明な女子だ、泥酔するほど飲むはずがあるまい。しかし…そなた…何故燈花とうかが病み上がりだと知っているのだ?」


 王がポカンと口を開け尋ねた。


 「いっ、いえ…出過ぎたことを言いました。では、これにて屋敷にもどります。難波宮なんばのみやより持ち帰った案件がまだ残っておりますので…」


 「さようか。では、気を付けて帰れ」


 「失礼いたします」


 林臣りんしんは頭を下げると、猪手いてと共に馬屋に向かい歩き出した。


 「猪手いて、私の琴は荷馬車に積んであるか?」


 「はい、荷台に置いたままだと思いますが…」


 「先に屋敷に戻っていてくれ」


 「え?こんな時間からどこかにいかれるのですか?」


 猪手いてが慌てて尋ねたが、林臣りんしんは黙ったまま荷馬車から琴を取り出し丁寧に布で巻くと、背中に担いだ。手持ちの小さな灯籠に火をともすと馬の手綱の先にくくりつけ、さっと馬にまたがり正面門を抜けていった。


 「若様…」


 猪手いての呟きと共に、彼を乗せた馬はみるみる小さくなり暗闇の中へと消えて行った。


 私は後宮に着くと、ふらつく体を侍女達に支えてもらいながらなんとか部屋までたどり着いた。小彩こさが私の衣を着換えさせようと試みてくれたが新しく仕立てたばかりの絹の上着がかろうじて脱げただけで、奮闘むなしく頭の装飾品の重さにつられそのまま寝台に倒れ込んだ。




 一度眠りについたがあまりの喉の渇きで目が覚めた。


 「…小彩こさ?」


 「…小彩こさ…いる?」


 かすれ声で小彩こさの名を呼んだが返事はなく暗い部屋の中にグーグーと彼女のいびきの音だけが鳴り響いていた。


 体力のある彼女も連日の準備と今朝早くに起き私の身支度を一人で奮闘したのだからさすがに疲れたのだろう。朝まで起きないと悟った私はゆっくりと起き上がった。


 飲みすぎたのと、夏の暑さで汗をかいた事もあり喉がカラカラだ。


 私は重い頭を押えながらゆっくりと立ち上がると髪に挿さっているかんざしや髪飾りを雑に外した。隣を見ると小彩こさが大口を開けて爆睡している。私は戸口近くに置かれた小さな灯篭を持ち一人部屋を出た。


 外は昼間と同様、しんと静まり返っている。しばらくするとひんやりとした夜風が吹き、まだ熱をおびている体を冷ました。厨房に着き柄杓に水を汲み一気に飲み干した。山から出た湧水は夏でも冷たく沁み渡り体の隅々を一瞬で潤した。


    はぁ、、生き返った…


 私は袖で口を拭うと近くにあった椅子に腰かけ夜空を見上げた。さっきまで見えていた星も三日月も今は雲の奥に隠れ見えない。風もないのか空の雲はいっこうにどこうとしない。月の光のない暗闇と静寂さの中、部屋から持ち出した小さな灯籠の灯りだけがゆらゆらと揺れていた。


 もう夜も更けたし、宴は終わっただろうか?


 王妃には後宮に先に戻る事を伝えたが山代王には何も言わずに帰ってきてしまった事が今になり気になり始めた。王妃から伝わっているとは思うが、彼が今頃私の事を心配しているだろうと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 私はもう一度水を汲み手のひらに溜めるとピシャっと顔にかけた。冷たい水が酔いを覚ましていく。少し休んだあと部屋に戻ろうと立ち上がると目の前を緑色に光るものが通りすぎた。蛍だろうか?こんな夜中に出歩いた事がなかったので半信半疑で目を細めた。


 去年の夏、橘宮たちばなのみやのみなと飛鳥川沿いに蛍を見に出かけた夜の事を思い出した。現代ではなかなか見ることが少なくなった蛍だが、自然豊かなこの時代ではあちこちに生息していて容易に見ることが出来る。私は目を凝らし周辺を見回した。


 やはり淡い光を輝かせながらいくつもの蛍が真っ暗闇の中を飛んでいる。私はその光に誘われるように、後を追いかけた。歩いていくうちに敷地の端を流れる小さな沢にでた。この沢は山頂から流れ出た水で出来ていて、後宮を囲む壁沿いをコポコポと音を出し小さな小川のように流れていた。


 沢の上に無数の緑の光が見える。蛍で間違いないだろう、いつもなら宮の警護にあたる隼人はやとらが壁沿いにいくつものかがり火を焚いているが、今日は宴からまだ戻っていないのか、酒に酔い潰れているのか、一つのかがり火も見当たらない。でも逆にそれが漆黒の夜に淡い色で輝く蛍をより一層美しく見せた。


 近くにあった平らな石に腰かけしばらく幻想的に輝く蛍たちをぼーっと眺めていた。ひとしきり物思いにふけ酔いも冷めてきた所で部屋に戻ろうと立ち上がった。


 遠くからボロンボロンという音が微かに聞こえる。琴の音だ…こんな夜更けになぜ?それとも気のせいだろうか?静かに耳を澄ませた。


 やはりボロンボロンと微かだが琴の音が聞こえる。王の屋敷から宴の音楽が風に乗ってきているのかもとも思ったが、他の楽器の音は全く聞こえない。


 それにしても、なんて美しく儚い音色なのだろう。立ち上がったもののあまりの美しい琴の音に再びその場に座り直した。


 なぜだろう、この音から離れることができない…しかもこの音色…聞き覚えがある…まさか…林臣りんしん様…


 静寂な夜に琴の音が静かに鳴り響いた。



 「燈花とうか様~燈花とうか様~」


 突然遠くから小彩こさの呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみると十数メートル先に小さな灯籠を持った小彩こさの姿が見える。私は立ち上がると彼女に向け大きく手を振った。


 「燈花とうか様、こんな所に…はぁはぁ、ご無事で良かった。目が覚めたら燈花とうか様がいらっしゃらなかったので慌てて探しに来たのです」


 小彩こさは手を胸に当て息をゼェーゼェーいと吐いている。


 「ごめんね、小彩こさ、水を飲みに出たのだけれど、蛍につられてこんな所まで来てしまったわ」


 「ホ、蛍でございますか?」


 小彩こさがまだ息を切らしながら言った。


 「えぇ、あと琴の音も」


 「琴?」


 「えぇ、聞えるでしょ?」


 何故かさっきまで聞こえていた琴の音はピタリと止み、あたりはシーンともとの静けさに戻っている。小彩こさはキョロキョロと辺りを見渡すと息を整えながら言った。


 「確かに蛍は見えますが、琴の音は聞こえません」


 「そんな…さっきまで確かに琴の音が聞こえていたのよ」


 「かような夜更けにですか?」


 小彩こさが眉を細めた。彼女の言うとおりいくら耳を澄ませても琴の音はいっこうに聞こえない。


 「燈花とうか様、さぁお部屋に戻りましょう」


 「確かにさっきまで鳴っていたのよ」


 「はい、しかし王様のお屋敷もさほど遠くありませんし、風にのり宴の音楽が聞こえていたのかもしれません」


 「…宴の楽器ではないわ…あんな音色は出せない…」


 「燈花とうか様。夜も暮れております、お部屋に戻りましょう」


 小彩こさは優しく私の手をとった。


 「そうね…」


 私は後ろ髪を引かれながらも部屋へと戻った。途中何度も足を止め耳を澄ませたが二度と琴の音を聞くことはなかった。


ジジジジジジー、ジジジジ…


 夏の終わりを告げるかのように蝉たちが最後の力を振り絞るように鳴いている。昨晩の酒が残っているのか頭が重い。今更だが病み上がりに飲みすぎてしまった事を後悔した。


 部屋の中にはもう小彩こさの姿はなく水で絞った布巾だけが台の上に置いてあった。私はその布巾を手に取ると寝台に寝転がり額に乗せた。ひんやりとしていて気持が良い。


 あの沢で聞いた琴の音は、確かに林臣りんしん様の奏でる琴の音に似ていた…けど、昨晩の宴に彼の姿はなかったし、この辺鄙な土地に所用などないだろう…まして後宮なんて来るはずもない…でもあの音は…


 私は彼に何を期待しているのだろう?自分が馬鹿馬鹿しくなり顔を横に振って目を閉じた。


 それにしてもあの人、祝宴にも来ないなんてなんて冷たい人なのかしら…次に会った時には矢を片手に悪態でもついてやるわ…でもきっと、また私を冷たく睨めつけてあざ笑うわね…あぁムカつく…


 「フフフッ…アハハハハ…」


 二人のやりとりを想像したらあまりにも滑稽で一人声を上げて笑ってしまった。丁度その時、部屋の外から小彩こさの声が聞こた。


 「燈花とうか様、お目覚めですか?」


 「ええ、起きているわ。入ってきて」


 朝から笑ったせいか気分が良かった。小彩こさはお粥を片手に部屋の中に入ってくるとキョロキョロと部屋の中を見回した。


 「燈花とうか様、王様がもうお越しなのですか?」


 「いいえ、来ていないわ」


 私が驚いた表情で答えると、彼女も目をパチパチとさせながら私を見た。


 「えっ⁈ではいったい、どなたとお話しをされていたのですか?燈花とうか様の笑い声が聞こえたものですから…てっきり…」


 「そんなに笑っていた?」


 「はい」


 小彩こさがきょとんとした顔で答えた。


 「誰も居ないわよ、ただ少し考え事をしていたら、なんだか可笑しくなってきちゃって…」


 私はまた可笑しくなり慌てて両手で口を押えた。こんな調子では小彩こさが怪しがるのは当然だ。私はコホンと咳払いをし、何もなかったかのように凛とした表情で彼女を見た。


 「さ、さようですか…梅粥をお持ちしましたので、冷めないうちにお召し上がりください。葛の根も煎じて入れておりますので少し奇妙な味に感じるかもしれませんが、酔いには効くと思います」


 小彩こさは少し戸惑いながらもお粥を台の上にそっと置くと再び私を見つめた。


 「ありがとう!あなたなんて気が利くの!まだ頭が痛くて、飲みすぎね」


 まだ少し怪しんでいる彼女に向け誤魔化すようにおどけて見せた。


 「病み上がりで飲まれたので、普段よりも酔いが回ったのでしょう」


 私の作戦が効いたのか彼女は少し安心した表情を見せた。


 「世話をかけたわね、ありがとう」


 梅粥を受け取りながらもう一度礼を言った。彼女は微笑んだ後、なぜかまた話を戻した。


 「それにしても燈花とうか様、何がそんなに可笑しかったのですか?」


 「あぁ、たいしたことないのよ、でもね…」


 拳で口元を押さえた私を彼女は不思議そうに見ている。


 …しょうがない本当の事を話そう、隠している方がむしろ怪しいし隠す理由もない。それになぜか聞いて欲しい気持ちもある。私は口を開いた。


 「実はね、昨晩の琴の音が林臣りんしん様を思い出させたの。私がこう言ったらあの人ならきっと嫌味っぽくこう言い返すだろうって、色々と想像していたらなんだか滑稽に思えて笑ってしまったのよ。今となってはあの憎まれ口さえも愛おしいわ…」


 私はフッと鼻で軽く笑ったあと頭を横に振った。


 「…さようでございましたか…燈花とうか様のそのような笑い顔を久しぶりに見ました…」


 小彩こさが少しはにかみながらしんみりと言った。


 「えっ⁈私、笑っていなかった?」


 「はい、そんな風に声を上げて笑われるお姿は、後宮に来て初めて見ます。実は少し心配していたのです、橘宮たちばなのみやではいつも大きな声で笑って過ごしておられたので…」


 小彩こさはためらいがちに言うと手に持った布巾を指でいじった。


 「そ、そう…自分でも全然気が付かなかったわ…」


 「燈花とうか様…」


 小彩こさが不安そうに私を見つめている。…気まずい空気だ、これではいけないと思い作り笑いをし気丈に振る舞った。


 「大丈夫、もう少し時がたてばもっと笑って過ごせるわよ、あなたも居るのだし」


 「はい…」


 小彩こさは小さな声で答えるだけだった。丁度その時、外から山代王の呼ぶ声が聞こえた。


 「燈花とうかはいるか?」


 小彩こさが慌てて戸を開け山代王を部屋の中に通した。


 「山代王様、おはようございます」


 私達が挨拶をすると、彼はにっこりと微笑んだ。手には近くの沢で摘んだのか黄色いホトトギスを持っている。


 「燈花とうか、無事で良かった。昨夜は早く帰ったと聞いたので朝一番でこうして会いに来た」


 彼はそう言うとホトトギスの花を私の手に握らせた。とても可愛らしい黄色の花に私の心は完全に魅了され即座に花の香りを嗅いだ。


 「可愛らしいお花をありがとうございます。昨晩は病み上がりにも関わらず飲みすぎてしまいました。ご挨拶もせずに屋敷に戻ってしまい申し訳ありません」


 私は気まずさを感じながら頭を下げた。


 「かまわぬ。で、体調は大丈夫か?」


 彼のいつもと変わらない深く優しい瞳が心苦しくて目を逸らした。


 「はい、少し頭痛がありますが、小彩こさが葛粥を作ってくれたのでじき良くなると思います」


 「そうか、良かった。飲みすぎるなど、そなたにしては珍しいな」


 「はい、お恥ずかしい限りです」


 私は急に顔から火がでそうなほど恥ずかしくなりうつむいた。


 「なれど、そなたもたまにはハメを外さないとな、後宮はそなたには窮屈であろう」


 全て見透かされていると思うと気まずくて、顔を上げる事が出来なかった。


 「ひとまず婚礼の儀まであと少しだ。やっとそなたを堂々と私の側に置くことが出来る」


 山代王は私の両手を握ると優しく見つめた。


 「では、今日はゆっくり休みなさい。また数日のうちに王妃と市に行き婚儀で使う必要な道具を好きなだけ買ってくるといい。今日は天気も良いしあとで庭を散策しよう」


 私が頷くと王は嬉しそうに微笑み部屋を出ていった。彼が去るといつの間にか小彩が隣に立っていた。


 「昨晩お聞きになったという琴の音ですが、甘樫丘近くで働く知人の侍女がおりますので、彼女に頼んで林臣りんしん様が奏でたものか確認してもらいましょうか?」


 小彩こさは私をちらちらと横目で見ながら小声で言った。私は少し沈黙したあと口を開いた。


 「…いいえ。必要ないわ。婚礼まで三週間もないし、明日からまた慌ただしい日々になるのだから、今日は山代王様達とゆっくり過ごしましょう」


 部屋の戸を開けると、明るい陽射しと共に爽やかな秋風がびゅうっと入ってきた。私は大きく深呼吸をしたあと、台に置かれていた少し冷めた梅粥を手に取った。一口食べ小彩こさに向かい微笑むと、彼女は私を見つめて何か言おうとしたが、やめてしまった。私も気付かないふりをし、ホトトギスを生ける為の花器を持ってくるように彼女に頼み部屋を下がらせた。


 ふと戸口の横に生える草の裏に蛍を見た気がして、箸を置いた。昨晩聞いた琴の音を思い出しそれを打ち消そうと頭を振ったが、蛍と共に奏でられた美しく儚い音色がいつまでも私の頭から離れなかった。




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