第8話 茅渟王と陵王の舞
「
戸口から
「えぇ、今、目が覚めたところよ…」
ガタガタっと戸口を開けると、目を腫らした
「
「はい…」
「大丈夫、心配ないわよ…」
何の根拠もないが、あんなに泣き腫らした彼女の顔を見たらそう言うしかなかった。
「はい、そうだと良いのですが…」
「明日は大王様のお屋敷で重要な宴があるのでしょう?そんな腫れた顔ではいけないわ」
「はっ⁉︎そうでした!明日は大王様にも
「
「まだ話したこともない方にいきなりそんな不躾なお願いなんて出来ないわよ。しかも王族の方なのでしょ?それこそ首が直ぐに飛んでしまうわ」
「はぁ…そうでございますね」
「大丈夫よ
「…はい、そういたします」
あんなに
その日もまた宴の準備などであっという間に一日が過ぎた。私は役に立たちそうもないので、屋敷の隅で邪魔にならないように、静かに見守る事に徹した。この日も床についた時には夜空にすっかり月が上がっていた。
明日は大変な一日になりそうだわ…何事もないと良いのだけれど…
深いため息をつき目を閉じた。
チュンチュン、チュンチュン、パタパタ、パタパタ。早朝から外が騒がしい。まだ眠い目をこすりながら小屋の外を覗いてみると、小走りしている侍女達が見えた。しばらくその光景を眺めていると、
身なりを整えいつもの坂を下り馬車のもとへと急いだ。
「立派なお屋敷ね」
「はい、ここを使われていた先代の大王様が数年前にお亡くなりになり、今は
「
「おい、そこの女、何を突っ立っているのだ、怪しい者ではないだろうな?」
門番の男がぶっきらぼうに言ってきた。
「いえ怪しい者ではありません。
「まぁ、良い。確認してくるから、ここで待っておれ」
男は竹簡を持ち屋敷の中へ入っていった。しばらく門の外で待っていると、今度は別の若い男がやって来た。色白で背が高く身なりも清潔で気品に溢れている。
「中宮様からの使いとは知らずに無礼を致しました、私は
宮殿の建物の配置は
人だかりの中に先日
あの小男が
“ドスン”
チラチラとそちらばかりに意識が向いてしまっていたせいで、
「ご、ごめんなさい。よそ見をしていたものだから」
恥ずかしさと痛みを誤魔化すように指で鼻をこすった。いつの間にか大きな屋敷の前に到着していた。
「こちらの屋敷になります。お入り頂きますと右手側が廊下になっていますので、廊下の突き当たりの部屋でお待ちください」
「そなた、人手が足りぬのだ。手伝ってくれぬか?」
と言い、心配ないという表情で私を一度見て、彼女を連れてどこかに行ってしまった。
キシッキシッっと床のきしむ音だけが聞こえる。指示された部屋に入ると、中は日差しが差し込んでいてとても明るかった。部屋はさっき通り抜けてきた中庭に面しているにも関わらず、外の騒がしい宴の音が聞こえずとても静かだ。中庭の奥にあの舞台が見えた。
部屋にポツンと一人残され不安だったが、中宮から渡された干し柿の荷をしっかりと抱え直し、その場に座った。
外から入ってくる爽やかな秋の風を感じ、深呼吸をする。見上げた空は高く雲一つない。思えばずっと晴天続きだ。まだ飛鳥に来て雨に打たれていない事に気がついた。
これからどうなるのだろう…現代に戻れるだろうか…
急に不安な気持ちが込み上げ涙が溢れた。涙は頬を伝い、ポトポトと床に落ちた。
「どうしたのだ?」
突然男の声が背後から聞こえた。驚いて振り返ると
「なぜ泣いているのだ?」
「えっ…あっ、あの私…」
「先日、
「いゃ…その…」
「故郷が恋しいのか?」
「えっ⁉︎」
「そなたは、はるか東国より参ったと聞いた」
優しい声だ。
「…はい、そうなのです。故郷のことを思っておりました」
「そうであったか…都にきてまだ日が浅いのであろう?じき都の暮らしにも慣れよう。…ここは誰も来ない、好きなだけ泣くといい」
実年齢でいったら確実に私の方が上だと思うが、彼の大人びた口調に微塵も違和感を感じなかった。
「ありがとうございます。あっ、あとこの包を
持っていた包みを手渡すと、
「私と兄上の好物だが久しく食べていなかった
…」
「そなたは、よほど信頼されているのだな。中宮様は私にとっても家族同然、とても大切なお方だ。是非とも側で支えて欲しい」
「はい…」
とだけ答えるのが精一杯だった。ちょうどその時、外から笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。中庭にある舞台の上に面を被った数人の少年達の姿が見えた。
「そなた伎楽を見たことはあるか?」
「えっ⁉︎」
「近くで見てみよう』」
「
低い声が聞こえ顔を上げると、山代王よりも一回り位年の離れたであろう男が目の前に立っていた。凛々しい顔立ちと、優しい目元が山代王にそっくりな立派な大人の男性だ。
美しい藍色の衣をまとい、金色の糸で刺繍された鳳凰が衣の上で美しくて舞っている。頭にはやはり小さな金色の冠がのっていての赤や青や黄色の小さな宝石が均衡にちりばめられている。彼の後ろには何人もの臣下らしき男達が立っている。
「兄上!どうして?お身体の具合が優れぬと聞きしましたが、大丈夫ですか?部屋に戻られた方が良いのではありませんか?」
えっ?兄上ってことは…まさか、
「いや、だいぶ良くなったのだ…しかし今日は唐の皇帝陛下即位の祝いも兼ねた重要な宴だ…」
「はい、それは十分に承知しておりますが…」
「ところでこの者は?」
「はい、
「そうか
「は、はい、大分良くなられたご様子ですが、ご高齢なので回復にはまだ時間がかかるとの事です」
私はうつむいたまま冷静を装い淡々と答えた。
「そうか…大事ないと良いのだが…近いうちに参内すると申し伝えてくれぬか?」
「はい、承知いたしました」
とても不安だった。こんなに飛鳥時代の皇族らしき人達と知り合ってしまっても問題はないのだろうか?歴史は変わらないのだろうか?
いくつもの疑問がよぎった。でも中宮の後ろ楯がなければとっくに殺されていたと思うと、少し歴史が変わったとしても、誰からも恨まれる筋合いはないと開きなおった。
「
「はっ」
舞台の目の前の宴席には赤い敷物がひかれ、机の上には色とりどりの器に豪華な食事が美しく盛られている。唐の使節団や王家一族、朝廷の高官らは既に着座し、まだかまだかとチラチラこちらを見ている。
「兄上、彼女も共に座っても構いませんか?先ほど一緒に舞を見ようと約束したのです」
「
知っている限りの丁寧な言葉を並べその場を去ろうとすると、
「待ちなさい、ふむ…簡単に約束を破るような君主に民は仕えるだろうか?それでは
「えっ⁉︎はっ…はい…」
小さな声で仕方なしに答えたが、本当はすぐにでもこの場を立ち去りたかった。そのまま
ピーヒャララ、ドンドンドンと演奏が始まると、少年達が舞台の上にあがってきて笛や太鼓の男に合わせて踊り始めた。
なんでこうなるのだろう…
少年達の舞をぼんやりと眺めながらそう思っていた。
あれっ、この舞は…
固く握りしめた両手がじんじんと痺れ始めた。
「そなた知っているか、伎楽とはその昔、呉の国で始まり百済を渡り我が国に伝わってきたのだ。先代の王の時より法事や重要な催しがある時には必ず舞うようにと、決められている」
「そうなのですね…」
しばらく少年達の伎楽の舞を静かに見ていた。使節団の男達も大量の酒を飲み始め、愉快そうに笑っている。
一人の男が酒の瓶を持ちながら立ち上がりフラフラと歩きだした。真っ赤な顔で目はうつろだ。相当泥酔しているとみえ足元がおぼつかない。今にも転びそうだ。男は私を見ると近づいてきてカタコトの言葉で絡んできた。
「この国では卑しい身分の下女でさえも、舞を見る機会が与えられるのか?身分制度をしかと教えませんと中央政権はもとより、国が崩壊してしまいますぞ。フッフッフッ…ハハハハハ」
男が腹を抱えて笑い始めた。黙って聞いていたた
まずいわ…嫌な予感がする…
「お止め下さい
一礼をして立ち去ろうとした時だ。
「その必要はない。そなたもこの舞が終わるまで残りなさい」
この様子を見ていた
「お言葉を返すようだが、我が民や国あらずに天子は存在しない。この国では皆平等に機会が与えられるのですよ」
「何~そなた我が国の皇帝陛下を侮辱しておるのか!! 何を舞っているのかもわからぬ低俗な下々の者と、酒を酌み交わすことなどあり得ぬわ!」
男はさらに真っ赤になり逆上して言った。
一瞬でその場は静まりかえり伎楽の音が止んだ。少年達も凍りついたように舞台の上で動かずこちらを緊張の眼差しで見ている。一触即発とはまさしくこのこと、今にも大乱闘が始まりそうだ。使節団の護衛らしき別の男が剣に手を置こうとしているのがわかった。
私は意を決して震える声で言った。
「お待ちください…これは、
そしてもう一度、大きめの声で答えた。
「この舞は
これを聞いた通訳官が慌てて訳すと、使節団が一様にどよめいた。中でも一番年老いた男の表情が豹変した。おそらくこの使節団の団長であろう。静かにこちらを向きじっと見ている。私は続けて言った。
「
通訳官が訳し終わると、しばしの沈黙のあと使節団の長老らしき男がゆっくり立ち上がり
「大王殿、此度の我々の浅はかで無礼な言動をどうかお許し下さい。下女でさえもかように勇敢で聡明であればこの国の未来は明るく安泰でありましょう。我が国が理想とする大平の世をまさにこの国で見た想いです」
その発言をもとに使節団の全員が初めは驚いた表情をしていたが一斉に立ち上がると、団長に引き続きこちらを向き両手を胸の前で合わせて頭を下げた。悪態をついた男も一瞬で酔いがさめたのか、バツが悪そうに私を見て渋々頭を下げた。
「唐と我が国の友情に乾杯!!」
誰かが大声で叫んだ。一気にその場は和み、また宴は更に賑やかさを増した。
はぁ…フラフラする…言ってしまった。あれほど言動には気を付けなければならなかったのに…
その後はもちろん緊張の糸が切れ、事の重大さを感じたのか足はガタガタと震え力が入らずその場に立っているのがやっとだった。立ちすくむ私のもとに、
「そ、そなたがそれほどまでに聡明で博識な女人だとは知らなかった、驚いたぞ」
「……」
もちろん言葉は出ない。
「顔色が悪いな、疲れたであろう。屋敷まで送るゆえ、今馬を手配してくるから、ここで待ちなさい」
「はい…」
今できる精一杯の返事がこれだった。
一方、中庭の片隅でこの一大ドラマを面白おかしく眺めている者たちがいた。
「若様、こちらにおられたのですか?探しましたよ、
遅れて来た側近の
「いや、まだだ。舞を見ていたからな」
「えっ⁉︎まさか舞をご覧になっていたのですか?普段は全く見られないのに…」
「そなたは見ていないのか?今日の舞は格別に面白かったぞか」
「え?どういうことでしょうか?」
側近の
「
「実は南淵で狩りをしておりました、数日前よりイノシンが田畑を荒らしておりまして、収穫が出来ぬのです。民からの上奏がありましたので若様と共に明け方から山に入り罠を仕掛けておりました」
「ほぅ、、で仕留めたのか?」
「あっ、、いえ、何度か罠に掛かったのですが、思いのほかイノシシが大きく狂暴な上に逃げ足も早く、撃ち損ねてしまいました」
「そうか二人ともご苦労だったな。さっ、あちらの部屋で食事を用意させるゆえ、話ながら一杯飲もう。その前に知人を馬に乗せ見送りするから先に始めていてくれ、すぐに向かう」
「承知しました」
私はというと、まだ頭がぼっーとして、フラフラしている。慌てて駆け寄ってきた
「そなた、待つのだ」
ゆっくり振り返ると
あぁ、、怒られる…まさか、死罪、、、
「
死を前に恐怖を感じたからなのか、珍しく自ら弁解し頭を下げた。
「そなたのせいではない、不快な思いをさせてしまいすまなかった。私の不徳のせいだ。許して欲しい」
予想外の返答と、優しく温厚な声に驚き顔を上げた。彼は優しい眼差しを私に向け、口元は微かに微笑んでいた。彼は私の肩に手を置くと、
「また会おう」
と微笑んだ。ちょうどその時、パカパカと大きな音が門の外から聞こえた。山代王が手配した馬車が門の外に到着した。
「行きなさい」
「おーい待て!止まれ!止まれ!」
後ろを見ると
「や、
「そなたの仕える女官に話があるのだ」
私が驚いて顔を向けると、
「次は一緒に馬に乗ろう。私が教えるゆえ、また遣いを出す。気をつけて帰られよ」
突然の誘いに驚き戸惑ったが、断る理由が見つからなくて静かにうなずいた。
「そうだ、そなた名はなんと申すのだ」
「
「
今日もドキドキハラハラの一日だった。なぜこんなにも毎日がドラマチックに展開していくのだろうか?既に身も心もクタクタだ。帰りの道で
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