第6話 小墾田宮にて

 チュンチュン、チュンチュン、ホーホケキョ、ホーホケキョ


 外から聞き慣れた鳥のさえずりが聞こえる。


        もう朝…


 ゆっくりと目を開いた。昨日と変わらない暗い茅葺きの天井を眺め、これは夢ではないのだと確信し再び瞼を閉じた。


 これからどうなってしまうんだろう…もう、もとの世界には戻れないのだろうか…


 時計はないし今が何時なのか想像がつかない。日の光と鳥の鳴き声から察するに、まだ朝のうちだろう。往生際悪くいまだ夢であって欲しいという希望を抱きながら、祈る想いでそっと戸口を開けてみた。


 何も変わらない。目の前には五重塔が空高くそびえ立ち、隣には大きく育ったイチョウの木が生えている。私は深いため息をつき、どこへ向かうでもなくただ宮の敷地内をぶらぶら歩き始めた。


 橘宮たちばなのみやだったわね、随分広いお屋敷だわ…あの五重塔も立派…この時代ですでに高度な建築技術は存在していたのね…


 まだ夢心地のまま辺りを見渡した。おそらくこの宮の中庭なのだろう、庭の隅には簡素な東屋が建ち中に木製の長椅子のようなものが見えた。

 

 東屋に向かい歩き始めるとすぐに左側の景色が一気に開け、朱色に輝く飛鳥の都が眼下に広がった。


 なんて美しいんだろう…これが飛鳥の都…


 東屋の中の長椅子に腰掛け、そのままボーっと朝の光に包まれた都を眺めていた。しばらくすると、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってきた。振り返って確認すると裏山の森の横にもくもくと白い煙が上がってる。


     なんの匂いかしら?…


 とたんにお腹はグーグー鳴り始め、昨日から何も口にしていないことに気が付いた。


     あーお腹が空いた…


  「燈花とうか様~」


 後ろを振り返ると、小彩こさが布に包まれた物を両手に抱えこちらにやってくる。


 「おはようございます燈花とうか様。昨晩は良く寝られましたか?」


 「ありがとう。床が固かったのか体中痛いけど、疲れていたからぐっすりだったわ」


 「良かった。安心しました~お腹空いてませんか?昨日は何も召し上がっていませんよね?今、裏の厨房で栗を蒸かしてきたんです、丁度出来上がったので一緒に食べましょう」


 小彩こさは隣にちょこんと座ると持っていた包を慎重に開け始めた。まだ湯気が出ている。布の中に蒸したアツアツの栗が見えた。現代の栗のよりもだいぶ小く感じたが、食べられれるのであればサイズなどどうでも良かった。


 朝食なのか昼食なのかどちらかはわからないが、二人で熱々の栗をかじった。味けなく、ボソボソとしていたが空腹のお腹を満たすには十分だった。


 「あぁ、美味しかったわ。ありがとう。お腹いっぱいよ」


 お腹をさすりながら、小彩こさを見ると一瞬驚いた顔をした後、クスクスと笑って私を見た。


 「燈花とうか様は、本当に面白いお方ですね。高貴な身分であらされるのに、なんというか、とても親しみやすいです。中宮様が大切に思われるのがわかった気がします」


 小彩こさはそう言うと、うつむいた。


 「そういえば中宮様の具合はどうなったのか しら?心配ね…」


 「そうですね…今日、市に買い物に出ますので、小墾田宮おはりだのみやに寄って様子を聞いて参ります」


 小彩こさが包の布をたたみなが答えた。


 「小墾田宮おはりだのみや⁈昨日行ったあの場所がそうなの⁉︎」


 思わず大声で叫んでしまった。


 「は、はい。中宮様の宮殿です」


 小彩こさが目を丸くパチパチさせながら答えた。



  あそこが小墾田宮おはりだのみや


 「い、市なら私も一緒に行くわ!飛鳥の都は初めてだし、見物もしてみたいし、何より中宮様のお身体が心配だし、お願い!」


 私は胸の前で両手を合わせた。


 「困りましたねぇ、燈花とうか様は中宮様の大切なご親族の方ですし、市で揉め事にでも巻き込まれたら一大事です。そもそも市は一般庶民が集まる場なので高貴な方々は滅多に行きません。それにその衣では目立ってしまうし…」


 小彩こさはう~んと困った様子で立ち上がると私をまじまじと見て腕を組んだ。


 「でも私は高貴な身分でもないし、目立たないように、小彩こさと同じ侍女の衣をまとうから、お願い!」


 私も負けじと懇願した。


 「はぁ、、燈花とうか様は頑固なお方ですね…わかりました。では衣を調達してきますので、お部屋でお待ちいただけますか?」


 「ありがとう、助かるわ」


 急いで残りの栗をたいらげ市に行く準備にとりかかった。部屋に戻るとすぐに別の侍女が衣を届けにきた。衣は小彩こさなどが羽織っているものと同じ素材で、茜で薄く染められた緋色をしていて幼くなった私の顔にはとても合った。


 「燈花とうか様、準備は整いましたか?」


 戸口の向こうから小彩こさの呼ぶ声が聞こえる。


 「今、行くわ」


 侍女の衣の方が肌に馴染んで快適だった。私は急いで外に出ると、小彩こさのあとについて、昨日歩いたでこぼこの坂をよろよろと下りた。坂の下では昨日と同様一台の馬車が止まっていて、私達が乗り込むとすぐにガタガタと勢いよく進み始めた。


 「小彩こさ、先に宮殿に向かってくれる?中宮様のご様子を伺いたいわ」


 「はい。でも、お会いできるかどうかわかりませんよ」


 「ご無事かどうかだけでも確認したいのよ」


 昨日とはうって変わり落ち着いている自分自身に驚いた。今日は馬車から飛鳥寺をじっくりと見る余裕もあった。小墾田宮おはりだのみやに近づき、馬車がスピードを緩めると、突然男の叫び声が前から聞こえた。


 「止まれ!!」


 車輪がキキィィーーーと大きな音を立て、馬車が急停止した。何事かと思い、恐る恐る声が聞こえた方を見ると、一人の青年と従者らしき体格の良い数名の男達がこちらに向かい馬を走らせてくる。すぐ先に小墾田宮おはりだのみやの立派な門が見えた。


 男達はは宮の門の前で馬を止まらせると、ひらりと降り、訝し気にこちらを見た。先頭を歩く青年は年でいえば20代前半位であろうか、鋭い眼差しは知性に溢れ、目鼻立ちがはっきりとしていた。


 浅紫の衣をきちっと羽織り長い髪は頭上できれいにまとめられ、緑の小さな石がいくつも散りばめられた、美しい簪が挿さっている。青年はチラリとこちらを見たあと、何も言わずに従者らしき男達を引き連れ、颯爽と宮の中へと入っていった。


 「ビックリした~」


 思わずそんな言葉が飛び出し、手で胸を押さえた。


 「ビックり?」


 小彩こさが目を丸くして、キョトンとして言った。


 「あっ、とても驚いたわ、あんなに馬を上手に乗りこなす人を初めて見たから…」


 「えっ?東国では馬は乗らぬのですか?」


 小彩こさはさらに目を大きく見開いた。


 「いえ乗るわ!みな馬に乗るわよ」


 冷静を装って言ったが、全てが見透かされてしまうのではと内心ヒヤヒヤだった。


 「燈花とうか様は実に面白いお方です」


 小彩こさがクスッと笑った。


 …仕方ないでしょ、時代が全然違うんだから。まぁ、そんな事話しても信じてくれないだろうし、頭の狂った危険人物扱いされてすぐに投獄されそうだわ…


 心の中で思ったが、いつそんな日が来てもおかしくないと思うと、ゾッとした。


 「それよりも小彩こさ、さっきの青年はどちらの若君なの?随分と体格の良い男達を従えていたようだけれど…」


 「シィーーー、燈花とうか様、お声が大きいですよ!」


 小彩こさは唇に指を当てながら顔をしかめた。


 「燈花とうか様、お言葉には十分お気をつけてください。あの方はとても高貴な身分のお方なんです。数年前に亡くなられた日十大王ひとだいおう様のご子息の山代王やましろおう様です」


 「山代王やましろおう様?」


 「はい。私達のような宮中に仕える女官でさえも滅多にお話する機会はないのです。おそらく中宮様の具合が悪いと知り、ご様子を見にいらしたか、別件で参内してるか…詳しい事はわかりませが…」


 小彩こさがそんな憶測をゴニョゴニョと話してくれている間、私の頭の中は完全にパニックだった。


 山代王といえば、あまり聞かない名前だけど、確か父親が日十大王ひとだいおう?そう、確か押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこの事だった気がする。とにかく装いからしても、あの立派な簪にしても王族の可能性は高い。山背大兄王やましろのおおえのおうと名前が似てるけど、同一人物だらうか?でも、山背大兄王やましろおおえのおうは聖徳太子の息子だもの、別人のはず…


 「燈花とうか様?燈花とうか、様!」


 「は、はい!」


 ハッと我に返り大きな声を出した。あまりにも夢中で考え込んでいたのか、度重なる小彩こさの呼び掛けも全く聞こえなかった。


 「今、門番の男に聞いてまいりますので、こちらで少しお待ち下さい」


 小彩こさは馬車を降りると門番の男の所へと向かいそのままその男と共に敷地の中へ入っていってしまった。しばらく待っても小彩こさはいっこうに戻ってこない。不安な気持ちでいると、また別の男が門の中から出てきた。男は馬車の近くまでくると、私を見て


 「中庭までご案内いたします」


 と、手を門の方へ向けた。


 私は、少しためらいながらも馬車を降りると、男のあとに続いて宮の門をくぐった。敷地の中のどこを見ても小彩こさの姿はなかった。


 敷地の奥の方で何かを焼いているのか白い煙が上がっているのが見え、西側の塀の向こう側には木で生い茂った小さな丘が見えた。


 あれが雷丘いかづちのおかだろうか?そんな疑問を抱いたまま、持っているだけの知識を懸命に手繰り寄せ、歴史の照合に躍起になった。簡単なことではないのに…


 「ここでお待ち下さい」


 男は庭の隅にある大きな石の前まで私を案内すると、お辞儀をしてそのままどこかへ行ってしまった。


 一人残された私は、中庭の中央に生えた立派なイチョウの木を見つめた。黄色の葉が太陽の光に照らされ金色に輝いている。季節は秋で間違いないだろう。中庭の隅には他にも、薄水色のリンドウや、淡いピンク色をした小さな撫子の花が控え目にひっそりと咲いていた。


 いつまでたっても小彩こさが戻って来ないので、無造作に置かれたであろう大石に腰掛けゴロンと横になった。大石の表面は平で滑らかで、大人一人寝転がるには十分な広さだった。

 

 昼寝でもして待とうと空を見上げた。今日も秋の空は高く澄み渡っている。


   山代王やましろおう様、か…

 

 気品のある横顔がパッと浮かび、静かに目を閉じた。

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