第2話 異世界転移待ったなし
冷めたコーヒーを、熱くもないのに脊髄反射でズズズッと啜り、ふと壁に目を遣ると時計は19時を回っていた。
「んー終わりが全く見えない…」
一応、課長にジト目を向けながら、僕は独り言を呟き「ーーンンーッ」と伸びをする。ぽきっと肩が鳴った。
「ダラダラやっても仕方ない…帰るか」
オフィス内を見渡すと、まだまだ同僚たちは頑張るようだ。
プロンプトエンジニアとしてこの課に配属されて2年、AIとの質疑応答を繰り返す日々。
ブラックとは言わないが、そこそこの残業、そこそこの無理難題。でも、そこそこ満足できる報酬は、僕を週5で会社に通わせる。
“今日はこれで終わりにします”とテキストフィールドに打ち込み、AIに帰りの挨拶をすませる。
専用回線で繋がれた、政府管理の公用量子コンピューター「To persevere in one’s duty and be silent is the best answer to calumny」通称
天井からのエアコンの冷気がまた僕を襲い始めた。
マジで寒いんだけど席替えてくれないかな、と思いつつ、厚手の大判ストールを羽織り直す。隣の席の同僚が使っていた物を貰ったのだが、僕が羽織っていると、頬を赤らめチラチラ見てくる。
僕自身、自覚はある。この歳でレディースを身に着けても違和感のない童顔気味の女顔。ストールなんか楽勝だぜ! じゃない!
頬を赤らめた同僚女子からチラ見られるこの居心地の悪さよ。
そう云う感情を向けないで、期待しないで、どうせくれるなら薄手リネンのメンズの新品をくれ。
貰わなきゃいい話だけど、寒さに抗えなかった。お礼のつもりで二人で食事に行ったのが悪かったのかも。
まぁ、来期からはフリーアドレス化するそうだし、部署替えがあるかもしれないし、いっか。
帰ろ帰ろ。
そんなことをポヤ~ンと考えながら今日の報告を作っていると、一瞬外の音が消えたような気がした。
直後、文字に置き換えれば『ドゴーン!』だが、聞いたことが無い、体の奥底まで震わせるような大轟音が響いた。
同僚たちが固まる。
僕の脳裏にミーアキャットの姿が浮かんだ。
その瞬間オフィス内が真っ暗になった。
一拍間を置き「「「「「「「「嘘だろぉぉぉぉぉ!!!!!!!」」」」」」」」の大合唱がオフィス内に響き渡る。
男はいいとして、この場合女子は“ドゴーン!”からの“キャァァァァァ!”じゃないの? この会社スゲーの集まってんな。
隣の女子も「嘘でしょぉぉぉぉ!!」と絶叫している。
暗闇の中、そこかしこから同僚たちの悲痛な叫びが聞こえてくる。
「なんでUPS働いてねーんだよぉ!」
「オレの今日の労力がァ!!」
「書類保存してねーよ!」
「いやーッ 私の3時間返してぇ!」
フフフ…こまめな保存と日頃の行いは大事ですよ。
周りの暗闇阿鼻叫喚に余裕ムーブをかましていた僕は、立ち上がって窓の方を見る。向いのビルの明かりも消えていた。
結構広範囲の停電だな。やっぱりあの音落雷かな。
て言うか、僕、落ち着てるな。ん? なんかワクワクしてる? なんで?
台風の時のアレか。僕の中にはかなりの量の“童心”が溶け残ってたんだな。
再発見。
あちこちで、スマホの明かりがポツポツつき始める。
「障害情報出てないな」
「あれってやっぱり雷?」
「ネットは繋がってんだ…」
「基地局は非常電源あるからね」
「テレビもラジオも何も言ってないな。速報もない。」
「N〇K見てよ」
「なんなの…? 怖くなってきた…」
「なんか…ヤバくねーか…」
オフィス内の不安濃度が上がってくる。
「皆落ち着け! すぐに非常電源が入る」
個人ブースから部長が出てきて仕切り出してきた。
おお、普段の部長からは考えられない頼もしさを感じる。吊り橋効果か。
非常灯が点いた。
周りから安堵のざわつきが起こるが、事態は一切好転していない。
PCは…立ち上がるワケないか。
「そりゃ、非常電源とメインは別だよな、フロアのUPSもぶっ壊れてるっぽいし…んお」
マウスを弄っていると視界がグルンと回った。膝が脱力して、ストンと体が落ち膝をつく。
「え? なん…」
立ち眩みか。ジェットコースター直後の500倍のなにかが襲ってきた。
「ヤバいー 目が回るぅ」
「え?
ストールをくれた子が背中に手を添え心配そうにのぞき込んでくる。名前なんだっけ…
後ろの席の男も「大丈夫か?」と声をかけてくる。
「ああ、大丈夫。 急に眩暈がした」
椅子の座面に手を突き、それを支点に立ち上がろうとした。
座面がグルンと回る。椅子が離れていく。
僕は、バランスを崩してデスク下のPCに激しく頭突きをかましてしまった。
「痛ってー!!」
目から火花が出たぁ…と思ったら
「何…だ…」
比喩表現ではなく、僕の額とPCの間にスパークが走っている。
痺れる感じはしないし、音もしない。
「おお、 サージみたいだ…」
そのまま動かない僕に視線が集まる。
「きゃっ 昭英さん大丈夫!」
「おい! 昭英大丈夫か!」
「なんだ、どうした?」
「昭英さんが倒れて…」
恥ずかしいから集まらないでぇ
唐突に、PCとの間のスパークが僕の全身を覆う。
バチン!! という大きな放電音がした。
天井のLEDが点き、オフィスが明るさを取り戻す。
そして、僕は、オフィスから消えた。
明
暗
明
世界が切り替わる“感じ”がした。
見知らぬ風景。見知らぬ街。その雑踏の中。
「…どこ?」
肩にかけたストールといつものオフィスカジュアル、オフィスで履き替えたふわふわスリッパ。
熱帯を思わせる気温のここでは似つかわしくないこの姿でボーッと突っ立っていた。
首に下がっているIDを手に取る。
「昭英明音 Akane Akihana …僕だな」
つづく
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